伏流水

ユラカモマ

第1話 逃走

 自分は人を殺すために生み出されたのだ。だから、自分がしたことは間違っていないし、仲間であった彼の行動はおかしいはずだ。でも、何故だろう。あのくすぐったい巻き毛を温かな体温を抱き上げた重さを思い出すたびに自分が壊れてしまいそうなんだ。


 母は言った。必要以上に外へ出てはいけないと。ましてや里に下ることがあってはならないと。さらに口うるさく言うことには、大好きだった父に貰った笛を奏でる音を決して誰にも聞かれてはならないとも。しかし、今晩は大雨だ。雨季で降り続く雨の中、しかもこんな暗い夜にわざわざこんな山の中へと分け入るものはいないだろう。それに、もしいたとしてもこの雨ではほとんど外には聞こえまい。カナートは首にかけてあった袋から手探りで父の笛を取り出した。暗くても吹くのに支障はないくらいこの笛は手になじんでいた。吹くのは父に昔よく奏でてもらった子守歌。簡単な節をよどみなく繰り返す。雨風をしのぐのがやっとの小屋はカナート一人のステージだった。雨の音と笛の音と他は何にもないステージだった。ばしゃり、突如外から何かが動く音がした。何かの動物だろうか。ここで暮らして半月ほどたつが今までこんな音を聞いたことはなかったのに。ばしゃりばしゃり。それなりの大きさのものがいくらかいるようだ。それも、この小屋に向かって近づいてきている。ばしゃばしゃばしゃ、どうしようこの足音が母の言っていた彼らだとしたら。この暗い雨の中逃げ出したってなにも見えないし音で絶対に気づかれてしまう。ガタガタ、扉が揺れだした。そして、ひと呼吸開けて、ドンと、唐突に一応は木で作られた入口に重いものがぶつかる。それは、二度三度と繰り返されたが四度目にしてバキリ、無残な音を立てて叩かれていた扉に穴が開いた。雨音に混じって低い男の怒鳴り声が響く。

「馬鹿野郎が!せっかく雨宿りできるところ見つけたのに穴開けたら雨が吹き込むだろうが!」

「しょうがないだろう!?おしてもひらかないんだから!たたきわらないと入れないだろうが!」

 なにやら思ったのと違う争いが勝手に繰り広げられているようだ。彼らでないという確証はないがこのままだと少なくても入口が壊されることは確定なので部屋の隅から間違いをただす。

「その扉、押すんじゃなくて横に開けるんだが…。」

 男たちの言い争う声が止まった。それと寸分おかず、扉が横へと勢いよく開かれた。

「よっし!やっとあめにぬれずにやすめるぜえ!」

 勢いよく誰かが飛び込んでくる。それに続いて何人か。暗くて人数まではつかめない。彼らは小屋に入るなり座るなり横になるなりしているようで深いため息が狭い小屋のあちこちに聞こえる。ガタリ、急に雨の音が少し遠くなった。誰かの足音がゆっくり自分の方へと近づいてくる。その気配はカナートの目の前で座り込んだ。ちょうど出入口をふさがれ角へ追い込まれた形である。しかも、寸分の迷いもなく近づいてきた当たり彼にはこの部屋の状況がつかめてしまってるようだった。

「一人か?」

 聞きなれない声は無表情で知らず喉の奥が干上がっていく。右の指の爪が手のひらへとぐっとくいこんだ。

「ああ。」

「そうか。」

「オーダーメイルというものを知っているか?」

 どっちだろう。知らないと素直に言うのが正解なのかそれとも嘘でも知っているというのが正解なのか。どちらと答えても分からないけれど下手な嘘をつくぐらいならまだ。

「知らない。」

「聞いたことは?」

「ないよ。」

 どくリ、その男はそれ以上問わなかった。ただ、少しあった距離をいやおうなしに詰めて湿った服が足や腕にあたる。そして、首筋にも。ぽたりと水滴が落ちる。

「フォガラという。悪いが休むのに少しこの小屋を貸してほしい。」

 耳元に響いた声は先ほどよりは優しかったがそれでも否とは言わせない鋭さを秘めていた。けれど、どうぞというのもなにか癪でだんまりを貫いた。すると腕の近くにあった湿ったそれが動き頭にずしっと何かがのっかる。

「要件はそれだけだ。おまえももう寝ろ。大きくなれないぞ。」

 突然何なんだ。それでも全然見えない状態では逃げることはできるはずもない。どうか目が開けたらいなくなってくれてないかなあ。祈る気持ちで目を閉じた。今夜は眠れそうもない。


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