1 片腕を折られる覚悟はあるかい?


+ side咲桜


 じー。

咲桜さお?」

 じー。

「咲桜―?」

 目線の途中に、にゅっと親友の顔が現れた。

「わっ? あ、うん。どした?」

 何回も名前を呼ばれていたようだ。しびれを切らした親友の顔がどアップになって、私の意識は現実に引き戻された。

神宮じんぐう先生がどうかしたの? そんな睨んで」

「!」

 ビクッと、大袈裟に肩が跳ねてしまった。その、名前、今、厳禁! 私はしどろもどろで逃げ場を探す。

「い、いや~……ちょっと考えごとを? ね」

 と、明らかに挙動不審で視線を彷徨わせる私を見て、首を傾げる小学校来の親友。

「そなの? 話聞こうか?」

「そ、そこまでは大丈夫、かな?」

 私の声が揺れていることを察した松生まつお笑満えみは、小首を傾げながらも深くは突っ込まなかった。……笑満のそういうとこ、大すき。

 しみじみと親友のありがたみを感じる傍ら、私の頭の中はもやもやしていた。

 じーっと睨んで……もとい、観察していた先にいるのは、一階の職員室前の廊下で弥栄やさか先生と話している、一年副担任で歴史科教師の神宮流夜先生だ。 背は高めけど、ダサい眼鏡にあまりしゃんとはしていないスーツ、穏やかな口調と表情であまり目立たない先生。……という、認識だった。昨日、五月二十日の日曜日までは。

 まさか神宮先生があんなだったとはなあ……。

 どういうわけか私は昨日、『神宮流夜』先生と対面、会話した。のだけど、未だにあれが『神宮先生』と一致し切れていなかったりする。

 というのも、私が昨日出逢った『神宮流夜』先生は、言葉は乱雑だし目つきは鋭いし他人に向かって一輪挿しを投げるし、トドメに県警本部長である私の父を師事しているらしい、犯罪学者、だったのだ。

 色々とクエスチョンマークだよね。

 そりゃあ私は、在義父さんの仕事には踏み入るなって育てられたから、知らなかったのかもだけど……。

 私の父、華取かとり在義ありよし父さんは、元は警視庁勤務、キャリアのホープだったらしい。

 それがある理由により警視庁を退庁。地元である千葉県警に入ったのだ。そして今は県警トップである本部長を務めている。私はその一人娘で、桃子ももこ母さんは私が三歳の頃に亡くなっている。

 笑満に連れられて教室へ戻る前に、もう一度『神宮先生』を見てみた。

「………」

 何度見ても、あの怜悧な眼差しをする昨日の超イケメンが、のほほんを体現したような神宮先生だとは……思えない。

 と思っていたら、ふと先生と視線が合った。

「……!」

 う、うわ……。

 思いっきり、今度は心臓が跳ねた。

 心臓が飛び跳ねたのは、今まで知らなかった先生の裏の顔を知ってしまった所為だ。それで驚いた所為だよ。

 ……でなければ、私を見た神宮先生が、少し意地悪そうな、でも優しい瞳を向ける意味がない。それは『神宮先生』の顔じゃない。神宮先生には見たことのない微笑。

 や、ヤバい……これ以上先生の観察は心臓に悪い……。

 私はドクドクする心臓を押さえるようにして、慌てて笑満に並んだ。

 ――私がこんな状態になっているその原因。どうして休日に私が本性の神宮先生と逢うはめになったかというと、在義父さんの元相棒であり、私の母親代わりの一人でもある春芽かすが愛子まなこさん――私はマナさんと呼んでいる――という後輩刑事の策略のせいだったのだ。

 マナさんは、『歩く地雷原』と呼ばれているそうだ。私も納得のあだ名だ。



+++ side咲桜



「咲桜、頼むから落ち着いて……」

「で、私は誰をぶっ飛ばせばいいんだ? 片腕くらいいただいてもいいかな?」

 私は心の底から恨みの瞳で在義父さんを見た。在義父さんはびくっと大きく肩を振るわせる。こういう、意外と動揺が表に出るのは、私は在義父さんに似ていると思う。

「ご、ごめん咲桜……私も春芽くんにはめられて……」

 項垂れる在義父さん。その名前が出れば、何故在義父さんがこのような場所に私を連れて来たかを納得するしかない。

 この場というのは、旧い(たぶん)お茶屋さんの、庭に面した一室で、更に私は着物を着せられているという状況。

 私は今朝、顔色の悪い在義父さんに、「咲桜に逢ってもらいたい人がいる」と言われた。いつもなら肯くところだけど、今回は嫌な感じがして渋っていた。そこに、どこからともなく私の師匠せんせいであるお隣のおばさんが現れて、一突きで気絶させられたのだ。

 そして気づいたら、長い髪まで綺麗に結われて着物を着つけられて、ここにいた。

 目を覚ました私がまず見たのは、土下座する在義父さんだった。土下座するくらいならいい加減マナさんに厳しくすればいいものを。私はマナさんの味方をするけどな。

「マナさん発信なら父さんが逆らえないのも仕方ないけど、なに? これ、本当に見合いでもさせる気なの?」

 私は着物姿が落ち着かなくて、手をパタパタさせながら在義父さんを問い詰める。

「それが私も何も聞いてないんだ……」

「帰っていい?」

「ごめん、一目逢うくらいはして。春芽くんの私や龍生りゅうせいへの爆弾投下がひどくなるから……」

 最早顔もあげない在義父さん。龍生さんとは、二宮にのみや龍生さん。在義父さんの幼馴染で、ホンモノの相棒だ。うちにもよく来てくれる。ただ、龍生さんがやっているお店へはまだ出入り禁止されているけど。

 うーん、在義父さんも龍生さんもすきだから、今以上に二人に迷惑かけるのは嫌だなあ。でもマナさんもすきだからマナさんの言うことも叶えてあげたいけど、見合いとか本気でめんどくさいなあ。

 少し、目を瞑って唸った。マナさんは歩く地雷原と言われるように爆弾投下がお好きな優秀な刑事だが(今日のコレも爆弾だろう)、幼い頃に桃子母さんを亡くしている私にとっては、母代りのうちの一人だ。

「在義父さん、マナさんになんて言われたの? 師匠も関わってるなら少しは話通ってるんでしょ?」

「それが……」

「咲桜ちゃーん! 久しぶり!」

 在義父さんが話しかけたところで、元気な声が割って入った。

「マナさんっ」

 私は思わず破顔してしまった。いくら爆弾振りまいて歩いていると言われる人でも、私はマナさんが大すきだから。

 マナさんは、背丈は標準程度だけど、スラリとした細身のパンツスーツの似合うポニーテールが標準装備なおねいさんだ。どんな正式な場でもスニーカーで臨む辺り、ちょっとだけ風変り認定もされているそうだけど。

「ちょっとマナさん、在義父さん落ち込ませないでくださいよ。さっきから挙動不審でしかないんですよー」

 笑みを隠せない顔で文句を言う私だ。ただ、着物に慣れていなくて上手く立ち上がれず座ったまま。ちなみに私は標準より背が高い。小学校卒業時には百六十五センチはあって、そこから高校一年生まで、四、五センチしか伸びていない。

「だって華取先輩を動揺させるのなんて、咲桜ちゃん引っ張ってこなきゃ出来ないもの」

 動揺させるのが目的だったんか。

 派手めな美貌で艶やかに笑うマナさん。

「まあ今回はちょっと毛色が違うんだけどね?」

「……何企んでんですか」

「咲桜ちゃんの未来の旦那様にいい人がいるからどうかなーって」

「何言ってんだお前は」

 その声をとともに竹製の一輪挿しが飛んできた。マナさんの耳の横をすり抜け、壁にぶつかって転がる。………え?

「……流夜くん?」

 入って来た人を見て、在義父さんが声をあげた。知っている人かな? 私は首を傾げて、その人をよく見ようと顔をあげた。

『りゅうやくん』と呼ばれたその人は在義父さんを見てすまなそうな、疲れたような顔をした。

「………」

 三秒ほどその人を見て、私は『黙る』という行動しか出来なかった。なんというか……今まで見て来た中で、飛び抜けたイケメンさんがいるんだけど。テレビだろうが雑誌だろうがをひっくるめても一等をとれるんだけど。

 背が高く、真っ黒の髪は清潔感のある長さで、形のいい眉と鋭い視線。少しすると目つきが悪くも見えるけど、今は鋭さよりもお疲れが見える。

 私が『りゅうやくん』さんの観察で精いっぱいになっていると、向こうから口を開いた。聞こえた声に、私は耳を疑った。

「すみません、在義さん。今日は愛子を止められなかった……」

「あ、いや、そこは気にしないでいいよ」

 自分も止められなかったし、と話している在義父さんと……えっと……うーん? あれ?

「大体この話も――」

 続けて言いかけて、見上げていた私と目が合って固まった……。

「? 流夜くん?」

「どうかした?」

 在義父さんとマナさん、双方から声をかけられて、はっと意識を取り戻したようだった。

「すみません、在義さん。愛子抜きで状況確認したいので、少し娘さんと話をさせてもらってもいいですか?」

「咲桜と? 構わないけど……片腕を折られる覚悟はあるかい?」

「俺は何をしたんですか」

 真剣な目の在義父さんを、平坦な瞳で見返している。

「まーまー華取先輩。これはあれですよ、お若い者同士でにふふ、みたいな。ロビーに行きましょうよ」

 何やら見合いの仕掛ける側に願望を持っているらしいマナさんは、提言に反対せずに在義父さんを引っ張って行ってしまった。

 マナさんの足音が消えたのを確認するように間を置いてから、『りゅうやくん』は眼鏡のない瞳を咲桜に向けた。

「……華取――」

「あ、先生?」

 やっぱり? と、私の声は続いた。その声が、私の頭の中で知るものと繋がったからだ。

「……気づいてたのか?」

 思案気な顔をされて、私は疑問を口にした。

「ええと――神宮先生?」

 私が確認すると、

「……そうだよ」

『神宮先生』は、ため息をつきつつ肯定した。私はぽかーんとしてしまうしかなかった。間抜けにも口を半開きだった。

 驚いた。あの優しい穏やかほわほわした神宮先生が、こんな真剣で鋭い顔つきをするなんて信じきれない。というかさっき、マナさんを攻撃していなかった?

「……なんでここにいんですか?」

 私は素直に訊いてしまった。先生はまた嘆息した。

「それは俺が訊きたい。華取が在義さんの娘とは知っていたが……」

 ほら、こういうところが信じられない、と思ってしまう。『神宮先生』がこんな粗雑な言葉は遣ったところなんて知らない。いつも少し困ったような笑顔をしていて、はっきり言って弱そうな印象しかなかった。それが在義父さんのことを、『在義さん』と呼ぶ仲って一体どういうことなんだろう?

「うん、私の父は在義父さんですね。なんで先生が在義父さんのこと知ってるんです?」

「………マジか」

 神宮先生は片手で顔を覆って大きく息を吐いた。

 私は脳内シミュレーションをしてみた。その動作を神宮先生がすると思うと……駄目だ、想像すら出来ない。それだけ神宮先生は穏やかな先生という認識が強かった。はたまたそれは私だけの誤認だったのだろうか?

「――華取。少し確認してもいいか?」

「なんでしょうか。……なんでそんなに近いんですか?」

 囁くほど顔を近づけて来た神宮先生に、疑問を抱く。神宮先生はそれを察してか、指で隣の部屋を指した。そして更に顔を近づけ、耳元にこそっと囁いた。

「隣に、愛子」

 いるのか。

 私は半眼になって隣へ続く襖を見た。まったくマナさんは、抜け目ないというか壁が目というか。どーせ隣では在義父さんが泡喰って止めようとしてるか、もう諦めて明後日の方を見ているのだろう。娘が言うのも難だけど、父さんがマナさんに勝てるとは思えない。

「わかりました。マナさんに聞かれない方がいいんですね?」

 私の返事に、神宮先生は神妙に肯いた。マナさんに対してこの対応と動揺のなさ。……神宮先生とマナさんが近い関係だと確信出来る。

 壁に耳あり障子に目ありを地で行くマナさんは、どれだけ尊敬できる存在であっても油断ならない方なのだ。

 私に対して弱みを握るとかそういうことはないんだけど、私の父が在義父さんで、その相棒が龍生さんなので、私をネタに被害は二人へ行ってしまうから気をつけねばなのだ。

「お前、何を聞かされてここへ?」

「………」

 神宮先生に『お前』と呼ばれたことにびっくりして、一瞬返す言葉が見つからなかった……。先生、キャラが違い過ぎませんか……?

「……華取?」

 顔を覗き込まれて、私は正気を取り戻した。この至近距離の美形って結構な攻撃だなっ。

「あ、ごめんなさい。私は――えっと、父さんにどうしても逢ってほしい人がいるから、と。見合いとかぬかすから誰が行くかと反論したら、気絶させて連れてこられました。その間に私に着付けしたあたり、兇手は私の師匠です……。父さんはまあ、マナさんにはあまり逆らえないので。性格的に」

 と、着せられた着物の袖を広げて見せる。こんな格好、正月くらいしかしないよ。動きにくいから苦手だったりするのが本音だ。

「………」

 神宮先生は黙ってしまった。

「あの……私からも訊いても?」

「ん、なんだ?」

「先生はどっちが本当なんですか?」

「本当、とは?」

「学校の神宮先生と今の先生、全然違う人に見えるので……」

 私が言葉を探し探し言うと、神宮先生は、ああ、と肯いた。

「デフォはこっちだ。学校では問題がないように振る舞っているだけだ」

「なんでですか?」

 私の率直な問いかけに、神宮先生は困ってしまったようだ。少しだけ、目線をうろうろさせた。

「……個人的な事情だ。別に悪いことはないだろう?」

 個人的な事情で学校では問題がないように振る舞っている? うーん? まあ、悪いことはないと思うけど、もったいないとは思う。

「在義父さんとは知り合いなんですか?」

 私は質問を重ねる。先生は、なんと説明しようか考えているように視線がさまよう。

「……俺は、本業学者という扱いになっている。警察の現場に出ることもあるし、専門家として協力することもある。その関係での知り合いだと思ってくれ」

「学者?」

「犯罪学者」

「………」

 私は思わず首を傾げた。神宮先生の言葉が理解し切れなかった……。先生って、先生じゃないの? 私の脳が先生の言葉を噛み砕けていないのを察してか、先生は早口で続けた。

「その辺りは深く考えなくていい。華取に迷惑はかけない」

 神宮先生は神妙な顔で言うけど、私は「いえ」と反論した。

「在義父さんとお仕事してるなら、むしろ父さんが先生にご迷惑かけまくってるでしょうから、別に迷惑かけてもらって構いませんよ?」

「………」

 神宮先生は虚を衝かれたような顔をした。私がこんなこと言ったのにはわけがある。在義父さんは、実を言うとマナさん以上だ。マナさん以上に炎が似合う人なのだ。

 警察内部では、『苛烈な太陽の塊』とか言われているらしい。龍生さんは、マナさんが『歩く地雷原』なんて言われているのは在義父さんの影響を受けまくったからだと評価していた。

 顔を合わせればマナさんには適わない在義父さんだけど、厄介な問題引き起こし体質なのは在義父さんの方だと思う。

 ふと、神宮先生が「……在義さんが娘バカなわけだ……」と呟いた。その言葉は聞こえたけど、どういう意味だろう? まあ私は進学校に通っているけど、それは親友たちと一緒の学校に行きたかったからで、頭はよろしくない自覚はあるさ。

「私はバカですが?」

「華取じゃない」

 え、今、娘がバカって言わなかったですか? そう訊き返すと、

「在義さんが親バカだと言っただけだ」

 と言われてしまった。……そうなの?

「……華取、在義さんの仕事のこと詳しく知っているのか?」

「詳しくはないですけど……私も、笑満とらい以外は、父さんの仕事のことは話してませんし、そういう風に育てられましたから。警察の方には首を突っ込むなという教育方針? と言いますか……。でも、ほんとに父さんの方が色んなとこに首突っ込んでるから、被害者が多いのも知ってますし……」

 その被害の半分は龍生さんに降りかかっている。お隣のおねえさんは、『在義兄さんの行動力についていけるのが、龍生兄さんだけだったのよ』と話してくれたことがある。

 龍生さんは高校生時代うちに下宿していたそうなので、おねえさんとも親しい。私はその被害を承知しているので、龍生さんにはいつも感謝しかない。父さんを見捨てないでくれて、ありがとうございます。

「あの、なんで学者さんをしてるのに先生もしてるんですか?」

「……少しの間、教師をやっている方がいい理由があってな」

「理由?」

 訊き返すと、神宮先生は思案するように目を細めた。

「……悪いが、そこまで華取を巻き込めない。が、この件も――有耶無耶にして愛子が退くと思うか?」

「退きませんね」

 神宮先生と私、同じタイミングで肯いた。

「先生は、何と言われてここへ?」

 私も声を潜めて問う。私は生徒だから『先生』と呼ぶことに躊躇いはないのだけど、神宮先生は居心地が悪そうに見えた。プライベートだからかな? それとも、素の顔を知られたくなかった……という可能性の方が大きいかな。先生は簡単な言葉で答えた。

「見合いをして結婚しろと言われた」

「……直球過ぎないですか?」

「愛子のやることだ」

「なるほど」

 そんな返事に納得して肯いてしまう。

「いるのが私だって知らなかったんですか?」

「知らん。俺も断りにくい相手とかぼかして言っていたが……」

 華取在義の娘、という意味か……。……しかし、県警のトップの娘と縁談持ちかけられるって、本業学者さんって特別な位置なのかな? 考えてみたけど、在義父さんが家に連れてくる同僚とは知り合いになることはあっても、父さんの職業を『公務員』の表現以外は、クラスメイトにも言わないように育てられた。警察の世界に踏み込んだことのない私にはわからなかった。

「華取、お前も乗り気なわけではないんだろう?」

「全然。仕組んだのがマナさんじゃなかったら取りあえず脱走してます」

 それ以前に、ここがどこだかわからないけど。

 神宮先生は一つ肯いた。

「なら利害一致する。華取、お前からも断ってくれ。お互いで嫌だと言えば愛子もこれ以上は言わな――」

「? 先生?」

 妙なところで言葉を切った神宮先生に呼びかけた。先生は思案するような顔をしていたと思ったら、唐突に訊いて来た。

「……華取、付き合ってる奴っているか?」

「え? いないですよ?」

 なんでそんなことを訊く? 私が不思議に思っていると、神宮先生は薄く口を開いた。

「お前、俺を断ってもまた話を持ってこられるかもしれないな……」

「えっ」

 思わず声をあげそうになると、気づいた先生の手で口を覆われて塞がれた。さっと隣を窺う瞳は、マナさんを気にしているようだ。

 顔の前で両手を合わせて「ごめんなさい」のポーズをとると、神宮先生は手を離してくれた。今までより顔を近づけて、声を潜めて話す。

「どうしてそんなことがわかるんです?」

「……あいつ、今までも俺に似たようなことふっかけてきたんだよ。かわしてきたけど、今回は在義さんの名前をちらつかせられて無理矢理連れてこられた。でもたぶんこれ、目的の対象は俺だけじゃない」

 どうやら神宮先生は、こうして見合いを画策されたことが初めてではないらしい。マナさん……ご自分のことにもっと気をかけてくださいよう……。

 華やかな見た目と素晴らしい経歴のマナさんは、しかし浮いた話は一つもない。マナさんがすきな人が誰だか知っているからなんとも言えないのだけど……マナさんの花嫁さん姿とか、見てみたいのになあ……。

「……目的って、何ですか?」

 神宮先生は大分視線を彷徨わせてから、観念したように話し出した。

「……俺は警察の捜査に関わっているが、警察の人間ではない。いつ離れるかわからないから、繋ぎ止めておきたいそうだ。それに在義さんの娘のお前と結婚したら、まあ離れられないだろう」

「先生ほんと何やってる人ですか……」

『犯罪学者』というのは、やっと言葉通りの意味なら理解してきたが、どうしたらそんな画策をされるようになるんだ。

 神宮先生は何度目かのため息を吐いた。

「あとで話す。それで、たぶん愛子、お前のことも執心しているだろう。やけに可愛がられたりしてないか?」

「やけにって言うか……私、母さんがいないからその代わりみたいに構ってくれてると思いますけど……」

「母代り?」

「はい。私が生まれたときはもう父さんは県警の人だったんですけど、昔の後輩ってことで、父さんが忙しいの知ってるからよく家に来たりしてくれてて。家に一人のときは全部鍵閉めなさいって言われてたからその通りにしてたんだけど、いつの間にか家にいてびっくりしたことが結構あります」

「ただの不法侵入じゃないか」

 神宮先生から真っ当な指摘をされてしまった。実のとこ、お隣の家のおねえさんがうちの鍵を預かっていて、それを借りて入って来ていたのだ。

「それでも通報してもいいと思うぞ?」

 説明したら更に非難された。私は話題を変えたくて、また袖をパタパタさせながら軽い口調で言う。

「マナさんに常識求めてもしょうがないじゃないですか」

「確かに。でもあいつ、基本他人にはドライだからな。華取の世話焼くのはすきなんだろう。だから俺との縁談断っても、次々話を持ってくるんじゃないかと思う……」

「え、めんどくさい」

「うん、俺も面倒くさい」

 再び利害が一致した。私はなんかこう、先生とガシッと握手したい気分になった。

「華取、提案だが、この話一度受けないか?」

「受けって、……えっ? それは先生的に大丈夫なんですか? 生徒と婚約とか……」

 先生のびっくり発言に、私は瞳を丸くした。まさか本気で言っている?

「勿論本当じゃない。お互い、これからの愛子の過剰干渉を防ぐだけだ」

「……先生の目論見を教えてください」

 私には神宮先生の意図ははっきりとはわからなかったので、素直に訊くしかないと思った。

「愛子たちが戻ったら、同じ学校の生徒と教師だって言う。けど、あいつがそれで退くと思うか?」

「思わないです」

 むしろ楽しむと思う。あの人は。「そのくらい禁断の方がスリルあって楽しいじゃない」とか。ものすごくいい笑顔で言いそう。

 神宮先生も同じことは想定しているようだ。続ける。

「だろ? だから、立場上正式な婚約とかは無理だけど、断固断ることもしなければいい。俺に任せておけ。お前はただ、今回の話を断らないのと、けれど正式には受けないっていう二点だけ言ってくれればいい。あとは俺が誤魔化す」

「えと……それではなんだろう、私は神宮先生の腕を折る必要もないのかな?」

「ねえよ。物騒な考えはやめろ」

「……先生、ちょっと待って。あまりに言葉が神宮先生じゃなさ過ぎて対応出来ない……」

 私は今更だけど、額に手を当てた。あの神宮先生がこんな言葉遣いをするなんて……。

 特別懐いていたというわけではないけど、嫌な話も聞かないし嫌な気分になる対応もしないし、授業はわかりやすいと評判はいい先生だったから、この落差というか……衝撃が収まらない。

「……わかった。学校で話しているように話せばいいのか?」

 あまりに私が苦悩しているからか、神宮先生はそう提案してきた。

 どういう意味だろうと顔をあげた私が見たのは、神宮先生だったけど、纏う雰囲気が学校の『神宮先生』だった。

「――急なこと言ってすみません。でもそうしてもらえると俺も助かるし、華取さんの被害も少なくてすむかと」

 華取さん――学校では、『神宮先生』には確かにそう呼ばれている。だから、素の神宮先生が受け入れられないのであれば、学校と同じように対応してもらえれば確かにいいのかもしれない――と思ったのに、なぜか感じたのは痛みだった。それがどこへ繋がる痛みなのかはわからなかったけど、息が詰まるような痛みを感じた。……なんだこれ。

「……華取さん?」

 また顔を覗き込まれた。変らない衝撃の美形。……でも、なんでか、その顔が『神宮先生』なのが嫌だった。

「……わかりました。言う通りにするから、その……話し方、戻してください」

 ……そう言葉にするのは難しかった。なぜかとても恥ずかしいことを要求している気になるから。先生は二度、瞬いた。

「……どっちへ?」

 その声がさっきまでの先生のもので、何故か安心する私がいた。

 続ける言葉を必死に考える。頭を動かすより身体を動かす方がすきな私だけど、頑張って頭を回転させた。

「えっと、なんかこんなだけど私生活で関わっちゃったから、これっきりにしてもおかしい気がして、って言うかこれでもう先生扱いしちゃったらマナさんに疑われる気がして……ええと……」

 回転しなかった。

 要領を得ない説明に、神宮先生は何度も瞬いている。続きを待たれていたらどうしよう……。どんどん困っていく。

「……学校と同じにしなくていいのか?」

 助け舟のような先生の問いかけに、私はがばりと顔をあげた。そして大きく何度も肯いた。やっぱり考えるより動く方が先だった。単純だな。あはは。

「華取がそれでいいならいいんだけど」

「大丈夫ですっ」

 勢い込んで答えると、神宮先生は少しだけ苦笑した。

 出逢ってから初めて見せる笑顔。その笑い方も、神宮先生の頼りないものとは違っていた。

 なんだかすごく、大きな存在に感じられた。

「じゃあ華取、さっき話した通りにな。他のことは言わなくていいから」

「わかりました」

 神妙な顔で肯き合う。これから神宮先生と二人で、あのマナさんを騙すのだ。ついでに在義父さんも。



「はっ? 咲桜の学校だったのか?」

 同じ学校の生徒と教師だって神宮先生がばらすと、マナさんよりも在義父さんの方が驚いていた。そして、「あー、そっか。流夜くんも藤城ふじしろだったかー」と呟いている。

「はい。なので、正直言ってこういう座にあることも問題なのですが」

 在義父さんの隣で、私は口を引き結んでいた。下手なことは言うなという先生の教えを貫くのだ。

 先生は頭がいい。私なんかより何手先も、何十手先も読んでいる。ならばここは先生に任せるのが最善だと思う。

「……春芽くん」

 在義父さんがマナさんを睥睨する。マナさんがそんな些細な情報、知らないわけがないのだ。

 案の定マナさんは、にっこり艶やかな笑みを見せた。

「それくらい隠せばいいじゃない」

 大雑把だなあ。

「そういう問題じゃないだろう、春芽くん」

 教師と生徒という立場だと知って、一応の常識を持った在義父さんには、現状は少々痛い思いなのだろう。マナさんに対して強気だ。

「でも先輩。流夜くんの教師しごとなんておまけみたいなものなんですから、そこまで気にしななくていいんですよ」

 いや、気にしようよ。

 思わず出かかった声を慌てて呑み込んだ。

 本当に非常識な頭をしているなあ……。

「それにほら。咲桜ちゃんだってそろそろ彼氏とかいてもおかしくない年頃ですよ? そこらへんの男に掻っ攫われますよ?」

「なっ……」

 在義父さん、絶句。いやちょっと待ておい。

 彼氏なんていないから。そればかりは私からしか訂正出来ないことだからしようとしたのだけど、それより早くマナさんが継いだ。

「だったら、先輩もよーく知っている流夜くんに任せた方が安心じゃないですか?」

「っ……」

 今度は言葉に詰まっている在義父さん。納得しかけてんなよ親父殿。

 在義父さんは娘から見ても、毎度マナさんには言いくるめられている気がする。

「た、確かに……っ」

 いやどこも確かに性はない、と言おうとしたけど、ふと先生の視線を感じて口を結んだ。

 窺うと、私を見るその瞳はやはり何も言うなと伝えているようだった。だ、黙ってよかった……。

「正直言って流夜くんなら咲桜を任せられるとは思うけど、同じ学校の教師と生徒はまずいとも思うんだ……」

 在義父さんの中での先生の評価がやたら高かった。先生は先生で在義父さんを尊敬しているようなことを言っていたけど、本当に刑事と専門家という関係だけなのだろうか。……気になる。

 在義父さんが言いくるめられたのを見かねてかタイミングを見計らってか、先生が口を開いた。

「在義さん――言い方はおかしいかもしれませんが、愛子が勧める意味も、在義さんが断り切れない理由もわかります。と言っても、やはり教師生徒の関係ですから、婚約だの付き合うだのにはなりませんが、保護者的意味でしたら、華取さんを見守っていけたらと思います」

 うまくまとめたなー、と感心する。確かにこれなら断ってもいないけど、今後のマナさんの干渉を最小限に食い止められそうだ。

「あらあ、流夜くんも咲桜ちゃん気に入ったのねー」

 マナさんは満足げな笑顔を見せる。そういう意味ではないよマナさん。利害一致の紳士協定だぜ。なんて言えないけど。

 ……まあ、誤解してくれるならそれはそれでいいか。そろりと先生を見る。先生もそう思っているらしく、否定はしなかった。

「そういうわけだ、愛子。この席のことは口外無用。そんで、しばらくは華取さんの保護者になるから見合いだののたまうなよ。華取さんに対しても」

 どういうわけだ。

 マナさんの前言への肯定でないことはわかるけど、総括的意味だろうか。本当に誤魔化してきてるよ、先生。有耶無耶だよ。

「はいはい。まあ、あたし的には流夜くんと咲桜ちゃんが面識持っただけでもよしとしましょう。咲桜ちゃん、落としたくなったらいつでも落としていいからね?」

「えっ? と……」

 いきなり話を振られ、びくりとした。余計なことは言うなと言われているのに、これはなんと返すべきか……。あわあわしている私を見かねて、先生が何かを言いかけた。――ところで、

「でも、何も約束しないで帰しちゃうと、また流夜くんがふらふらするからなー」

 口元に指を当てて、真面目な顔つきで言うマナさん。ふらふらするって、先生は何をしているんだか。

「あ、じゃあこうしましょう、仮婚約」

「「は?」」

 先生と私の声が重なった。在義父さんは一拍遅れて、「春芽くん?」と不審そうな声を出した。

「婚約の前段階って言うのかな。あたしもこれ以上流夜くんにも咲桜ちゃんにも他の人を紹介しない代わりに、二人には仮婚約しておいてもらいたい。便宜上の立場だけだから、そのくらいはいいでしょ? 流夜くん」

 にっこり、マナさんスマイル。と、隣の部屋でどの辺りかを聞かれたようだ……。

 二人の利害一致、これ以上の見合いは勘弁のあたりがしっかり組み込まれている……。改めてマナさんのポテンシャルの高さに戦慄した。どういう耳と行動力しているんだ。

「どうかしら?」

 どうもこうもない。反対しかかった私だけど、またもや先生の視線で口を閉ざした。危ない危ない、きっと自分が何を言っても、マナさんには足元を掬われていただろうことが容易に想像できる。ここは先生が大人の対応をしてくれるのを―――

「……それが、華取さんの恋愛に邪魔になったりはしないんだな?」

 え? どうしてか先生はそんなことを訊いた。

「ええ。仮婚約は、ちょっとばっかし流夜くんの行動に制限かけたいだけだし。だから重くとらえなくていいわ。それに、これは咲桜ちゃんのためにもなると思うし」

「私のため、ですか?」

 急に話を振られて、私はきょとんとする。

「そう。咲桜ちゃんは華取先輩の一人娘だからね。こう言っては難だけど、政治的利用価値みたいなものがあるの。それに、華取先輩自身が警察内では異端だから、むしろ縁を結びたい人もいるわ。つまり、娘である咲桜ちゃんと結婚すること。そういったとき、咲桜ちゃんに恋人よりも婚約者がいれば追い払える。相手が華取先輩も信頼する流夜くんなら、強気に出られない奴らが大半になるから。どうかしら。流夜くんは先輩の娘である咲桜ちゃんを助けるためと思って、咲桜ちゃんは先輩と自分のためにも、仮婚約――もし咲桜ちゃんが縁談を迫られたときの防御策で名乗れる相手として置いておくのは」

「「………」」

 先生と私、揃って黙ってしまった。私は、自分にそんな付加価値があるなんて思いもしなかった。隣の在義父さんを見ると、明後日の方を見ている。……その可能性は知っていたのか、親父殿。

「わかった」

 口火を切ったのは先生だった。

「そういうことなら受ける」

「えっ、先せ――」

 いいの? そんなことを言ってしまって。泡喰った私をなだめるように、先生は穏やかな口調で話した。

「あまり大きくとらえなくていい、華取。愛子が言った通り、政略的なものから在義さんと華取を護る策だと思えば、どうってことないだろう」

「………」

 そう、なのだろうか? 勢いを削がれた私は、浮かしかけていた腰を下ろした。

「でも、流夜くん……」

 難しい顔をする在義父さんは、溜飲を下げられていないようだ。

「確かにそれだと咲桜は護ってもらえるけど、もしばれたときは流夜くんが危ないだろう。生徒と婚約なんて」

「正式なものではないですし、どこに証書があるわけでもありません。在義さんの存在を通して知り合いだったと言うことも出来ます。教職も続けたいわけでもありませんし。それに――少しくらい、恩返しをさせてください」

 先生が軽く頭を下げた。恩返し、という言葉に私は疑問を浮かべ、隣の在義父さんを見た。……なんとも言えない顔をしている。

「先輩、流夜くんが乗り気なんて珍しいことですよ。素直に受け取っておいて損はないですよ」

「しかし……」

 まだ何かを言いたげな在義父さんだったが、ふと私を見て口元に力を入れた。

「咲桜ももう嫁に行ける年なのか……」

「何言ってんだよ親父殿」

 項垂れて深く息を吐く在義父さん。今度はなんだ。私まだ十五なんだが。

「いや……咲桜、春芽くんが言ったことは本当なんだ。私の立居振る舞いが悪かった所為で、お前にまで面倒をかけてしまうという心配はあった」

「………」

 本当だった。

 いくら在義父さんの娘という立場だからと言っても、乱暴なだけの小娘にそんな価値があるなんて思えないけどなあ。

「流夜くん――本当に甘えてしまっていいのかい?」

「勿論です。言ったでしょう、保護者的意味でなら見守りたい、と」

「咲桜、お前は? 今、彼氏だったりすきな人がいたりはしないのか?」

「当り前のようにいないけど。……マナさん、これが神宮先生の邪魔になったりは、しないんですか?」

 私にも心配はあった。さっきから私と在義父さんのため――という言い方をする先生とマナさん。けれど、先生は社会人で当然結婚の話があってもおかしくない年齢だ。仮婚約だろうと、受けてしまってはむしろ先生への弊害の方が大きい気がする。

「俺は気にしなくていい」

 先生は大した感情も見えない声で答えた。

「本人がこう言うんだから、流夜くんの方は気にしなくていいわよ。――これで、今のところの問題は解決かしら?」

 マナさんはにっこり、妖艶な笑みを見せて首を傾げた。そこまで言われては、私に問題は見つけられなかった。むしろ、マナさんの策に乗るのは嫌だと言っていた先生が、簡単に受けてしまったのでどうしようもなかった。

 下手なことは言わなかったと思うけど、どうしたもんかな展開になってしまった。……やっぱり自分で処理出来る範囲では提言しておくべきだったか。……そう思ったところで、何が言えたというわけでもないだろうけど……。




仮婚約と言っても、マナさんが言った通りただの口約束で、知るのはこの場の四人に限られた。どうしてか先生は、そこは納得できないという顔をしているように見えたんだけど……。

 話がひと段落したところで在義父さんに仕事の連絡があり、先生を伴って急遽出向くことになった。そのやり取りで、本当に先生が警察官ではなく専門家として関係しているのだとわかった。

 マナさんは警視庁の所属なので、ここは管轄外だ。私を家まで送っていくという名目で残ってくれた。

 私は師匠に気絶させられてここへ連れて来られたので、帰り道どころか現在地もわからなかったので助かった。マナさんに説明されると、家からは少し離れたところだということはわかった。

 師匠め。夜々ややさんに言いつけてやる。

 心中でしょーもない毒を吐いて、マナさんと並んで歩く。実際には言いつけるなんて出来ない小心者は私だ。

 茶室は建物の奥にあって、入り口に面したホールにラウンジが作られ、そこで和菓子やお茶がいただけるらしい。マナさんの誘いでそちらへ廻った。在義父さんが忙しいときに、とは思うけど、マナさんと過ごせる時間も私には貴重なので、ノコノコついていくことにした。私の母を知る人。知っていて、母代りをしてくれている人。……大事だ。

「急にごめんね、咲桜ちゃん。ちょーっと強硬手段に出ないと、咲桜ちゃんも流夜くんもそろそろ危ないかなって思って。咲桜ちゃんが十六になる前に、この話を決めておきたかったの」

 抹茶の椀に指を添えて、マナさんはすまなそうな顔をした。私も抹茶の椀を両手で包んで、緊張で強張っていた指をほどくようにあたためた。

「いえ……確かにマナさんらしい強硬手段ですけど。でも本当なんですか? その、父さんの関係で私の結婚どうの、って……」

 その辺りは、未だに信じられないでいる。

 マナさんの言い方からして、先生はその存在を警察機構に繋ぎ止めておくため、私は政略結婚から護るためという二大目標があるようだ。

 先生が『専門家として』というのがどんな風に警察に関わっているのかはわからないけど、自分の方の理由もよくわからないでいた。

 マナさんは軽く顎を引いた。

「ええ、本当よ。先輩の場合、元は警視庁にいたから顔を知られているし、自ら県警へ移られたとはいえ、元々凄腕だからね。先輩の周りには味方がたくさんいて、流夜くんもその中の一人みたいなものよ。でも、なんの派閥や後ろ盾もない先輩だから、後ろに取り入る隙が無くて、先輩自身に近づくって言ったら、咲桜ちゃんが狙われるでしょう。先輩の系譜を作るために、一番取りつきやすいのは一人娘の咲桜ちゃんなのよ」

 警察って、結構派閥なものだからね、とマナさんは苦笑した。

 そこまで言われれば、なんとなくわかってきた。華取在義の一人娘、というのは、自分が思う以上に大きいようだ。

「それで神宮先生ですか……。私たちが藤城だって、マナさんが知らないわけがないですよね?」

「ええ、勿論」

「じゃあなんで勧めたんですか? マナさんが元々本当に婚約なんかさせる気がなくても、危ないじゃないですか」

 勘のようなもので、薄々気づいていた。マナさんは今日の件、本当に婚約までさせる気なんてない。現状が、マナさんが狙ったものではないかと思う。

「面白そうだから」

 にっこり、また艶っぽい笑みを見せた。あーはいはい、マナさんはそういう人だ。私は簡単に納得した。

「まあ、面白そうなのも本当だけど、咲桜ちゃんの母親代わりの一人として、咲桜ちゃんの相手を見定める義務もあると思ってるからね。夜々ちゃんも同じこと考えてると思うわー」

「………それは、ありがとうございます……」

 私は小さく頭を下げた。

 マナさんと、お隣の家のおねえさんの夜々子(ややこ)さんには本当にお世話になっている。在義父さんの両親も早くに亡くなっているため、私に家族というものは在義父さんしかいなかった。

 忙しい職に就く在義父さんに代わって育ててくれたのが、夜々さんとその母である武道の師匠、そして私が生まれる前は在義父さんの部下であり相棒だったマナさんだった。

 愛情をたくさんもらった。母さんが亡くなっていることに引け目など感じないほどに。

 お礼に気を良くしたのか、マナさんは私の髪に手を伸ばしてきた。

「今日の格好も可愛いわ。髪も綺麗に結い上げて」

 私は、髪は長い方だと思う。短くてバサバサしながらマメに切らないといけないより、伸ばして括った方が動きやすいという持論がある。

 ……しかし今日の格好を褒められても困ってしまう。

「これは……気絶させられている間にやられました……」

「あら。もしかしてお師匠?」

「たぶん。裏山逃げてる途中から記憶が飛んでるので」

「本当にお元気ねー」

 その根本の原因を作った張本人は、あっけらかんと笑う。これがマナさんだ。しばらく私の髪をいじっていた手が、ふと下りる。

「……咲桜ちゃんに、一つお願いしてもいいかしら」

「? なんですか?」

「流夜くんのことなんだけどね、あたしの目的っていうか――咲桜ちゃんの相手を流夜くんにした理由の一つでもあるんだけど」

「………」

 ごくり、と息を呑んだ。マナさんの口から何が聞かされるのだろう。私だけに話すなんてこれは、先生たちには聞かせられない話なのか――。

「流夜くんにね……」

「……はい」

 神妙な顔で応じる。マナさんの顔からもからかいの色が消え、真剣だった。

「流夜くんに、ご飯作ってあげてほしいの」

「はい。……え、ごはん?」

 とは、食事のこと? 私が間の抜けた声を返すと、マナさんはため息を吐いた。

「流夜くん、家事能力がろくにないのよ……。いえ、やろうと思えば何でもやれる、スペックのやたら高い子なんだけど、気の向かないことには本っ当に無関心で。まあ、あの子もちょっと特殊な生い立ちをしてるからって所為もあるんだろうけど。だから中学も高校も寮があるところにぶち込んだわ。流夜くんに関しては、本当にあたしが育ての親の一人みたいなもんだからね。申し訳なさが先に立つわ……」

「………」

 あの傍若無人なマナさんに嘆息させるだなんて。今度は別の意味で唾を呑み込んだ。

「流夜くんが住んでるアパートと、咲桜ちゃんの家って結構近いみたいなの。だから、本当に都合つくときだけでいいから、ご飯差し入れしてやってほしいの。……だめかな?」

「そのくらいだったら問題ないですよ。先生に来るなって言われたらどうしようもないですけど」

 受け取る受け取らないは先生の意思だ。私としては、それこそマナさんへの恩返しの意味も含めて、マナさんの願いを叶えたいと思う。さすがに見合いしろ、には困ったけど――ご飯を作るくらいでいいなら、なんてことはない。

「本当? ありがとう、咲桜ちゃん」

 マナさんは蘭の花みたいに絢爛な笑顔を見せる。いつ見ても笑顔が素敵な人だ。

「じゃあ、これ、流夜くんの連絡先と住所ね。一応渡しておくわ」

「あ、はい」

 手渡されたメモ用紙。教師の連絡先なんかは興味がなかったから一人も知らないけど、生徒に訊かれて教えている教師がいることは知っていた。……これって私はお仲間入りしたと言えるのだろうか? 学校の先生ではない方の先生と知り合いになっちゃった気分だよ。

 それから久しぶりにマナさんと二人で時間を過ごした。マナさんはキャリアだから、忙しさは半端じゃない。年を経るごとに逢える時間は少なくなっていたから。

 母とも姉とも慕う人。一緒にいられて嬉しくないわけがない。ここに夜々さんがいたらもっと楽しいだろうなー、と考えながら、私はマナさんの笑顔を見ていた。

 神宮先生は教師だけど、マナさんが結んでくれた縁だ。せっかくだから大切にしたいと思った。



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