エンケラドスの女

高柳神羅

第1話 エンケラドスの女

 自宅のベッドの上で、僕は仰向けに寝転がったまま全身を硬直させていた。


櫂斗かいと様……」


 僕の上に跨っているのは金髪の女。

 緩くウェーブが掛かったセミロングの髪は糸のように細く、窓から吹き込む風に靡いてふわふわと揺れている。

 綺麗な翡翠色の瞳は宝石のようで、彼女が何処か異国のお嬢様なのだと言われたら思わず信じてしまいそうなほどに、彼女は美しかった。

 と、冷静に彼女のことを観察している僕だが、これは単なる現実逃避なのだということを一方で痛いほどに思い知らされていた。

 何で現実逃避しているのかって? これが現実逃避せずにいられるか。


 彼女は、全裸なのだ。


 全裸の女が、僕の部屋で、僕に跨っている──人からしたら羨ましいシチュエーションだなとでも言われそうな状況だが、生憎僕にはこの状況を手放しで喜べるような神経は持ち合わせていない。

 そもそも、僕は二次元愛好者なのだ。三次元の女よりも、アニメやゲームのキャラクターの方が好きなのだ。

 三次元の女に迫られても魅力は感じないし、かえって扱いに困るだけである。

 そんな僕が、何故このような状況に身を置く羽目になっているのか?

 上手く説明できる自信はないが、頑張って語ってみようと思う。


 事の発端は、数時間前に遡る──


 休日は主に秋葉原で過ごすことにしている僕は、その日も結構な量の戦利品を抱えて自宅への道を歩いていた。

 大通りからは少し離れた、住宅街。閑静な、という言葉がぴったり来る雰囲気の場所だ。

 時刻は夕方。茜色に染まった空をカラスが鳴きながら飛んでいる。

 今日は帰ったら手に入れた本を読み漁ろう。そのようなことを考えながらゴミ捨て場の前を通りかかると。

 山積みにされたゴミ袋の上に座っている金髪碧眼の女と、目が合った。

 それが、彼女だった。

 彼女は頬を涙で濡らして、前をぼんやりと見つめていた。

 おそらく僕と目が合ったのは偶然だろう。彼女は、どうも明確な意思を持ってものを見ているわけではなさそうだった。

 ……まるでゲームに登場する令嬢みたいな子だな。

 それが、僕が彼女に抱いた第一印象だった。

 年齢は──多分二十歳一歩手前くらい。真っ白な長袖のワンピースに包まれた体はよく発育しており、何処とは言わないが両手に余るほどの大きさを誇っている。しかしその一方で……何というか、微妙に幼さを感じさせる雰囲気を纏っているので、それくらいの歳だろうと思ったのだ。

 日本人ではなさそうだ──外国人か?

 泣いているなんて、何かトラブルにでも巻き込まれたのだろうか。

 まず、こんな場所にいること自体が不自然だしな。

 何となく興味を惹かれた僕は、立ち止まって、彼女に声を掛けてみた。

「May I help you?」

 英語は大抵の国の人間に通じる。彼女が英語圏の人間でなかったとしても、これくらいの言葉なら通じるだろう。

 彼女は目の焦点を僕の顔に合わせて、薄く色付いた唇を開いた。


「お願いします……助けて下さい」


 彼女の口から出てきたのは、日本語だった。それもかなり流暢な。

 何だ……日本語できるんじゃん。英語で話しかける意味なかったよ。

 僕はこめかみの辺りを掻いて、小首を傾げた。

「助けてって……大通りに行けば交番があるのに。こんな場所にいたって人なんて通りやしないよ」

「貴方は通りました」

「……そりゃ、僕の家がこっちにあるからな。此処通らないと家に帰れないし」

 何か……訳ありっぽい感じだな。

「とりあえず、そんな場所に座ってないで立ちなよ。せっかくの綺麗な服が汚れるぞ?」

「私の話を聞いてもらえますか?」

 通りすがりの男に向かっていきなりそう来るか。

 まあ……先に声を掛けたのは僕の方だしな。これも一種の責任か。

 人に頼られるのは嫌いじゃないしね。

「いいよ。話くらいなら聞いてやるから、とりあえず立った立った」

「ありがとうございます!」

 彼女は嬉しそうに──本当に心の底から嬉しそうに笑って、ゴミの山から立ち上がった。

 座っていた時は分からなかったが、彼女、結構背が高い。履いている靴はヒールのないサンダルだというのに、百七十五センチある僕と殆ど背丈が変わらない。

 モデルか何かだろうか。彼女。

「で、助けて下さいって何よ。通りすがりの人に縋るって、そんなに切羽詰ってることなのか?」

「ええと……」

 彼女は急に辺りをきょろきょろと見回し始めた。

 声のトーンを落として、言う。

「あまり、人に聞かれたくない話なので……何処か、人のいない場所に連れて行って下さい」

 人に聞かれたくない話って、僕に話すのはいいのか?

 女の思考回路というのはよく分からない。

「人のいない場所っていっても……」

 僕は肩に食い込む鞄の紐の位置をずらして、考えた。


「此処が貴方のお家なんですね!」

 結局、人のいない場所と言われてもそう良い場所が思い浮かぶはずもなく──僕は、自宅に彼女を招くことにした。

 此処には人を招いたことがない。彼女が、人生で初のお宅訪問者ということになる。

 何で人を招いたことがないのかって? だって、フィギュアだらけの僕の城なんだぞ。普通の人を此処に呼んでもドン引かれるだけだって。

 僕は自分が二次元愛好家であることを隠してるわけではないが、それなりに人の目は気にしているのだ。

「何て狭くて散らかった部屋なのでしょう!」

 ……悪かったな。狭くて散らかってて。

 確かに僕の部屋はそれほど広くないし、壁に並べて置かれた棚にはフィギュアが並んでて雑然とした印象を受けるかもしれないが……

 それでもまめに掃除はしているし、飾るフィギュアはこれでも数を絞っているつもりなのだ。

 初見の人間にとやかく言われる筋合いはない。

「……今、お茶淹れるから。適当にその辺に座っててくれよ」

 僕は鞄を机の上に置いて、キッチンにお茶を淹れに向かった。

 カップは……そもそも客を招くことを想定してないから、客人用の上等なカップなんてないんだよな。

 マグカップでいいか。お茶は確かインスタントのティーパックがあったから、それを使おう。

 紅茶を淹れたマグカップを二人分持って僕が戻ると、彼女はテーブルの前に行儀良く座って棚の方をじっと見つめていた。

 ああ、フィギュアが気になるのか。

「お茶入れたぞ。砂糖が必要なら出すけど、いるか?」

「あの……あれは何なのですか?」

 彼女は棚を指差して、僕に尋ねた。

「何って……フィギュアだよ。僕の趣味だ」

「あれを使って人を呪ったりしているのですか?」

「何だよそれ」

 人を呪うって……藁人形じゃないんだから。

 ぶっとんだ発想をする子だな。最近の若い女って皆こうなのか?

「フィギュアは鑑賞するためのものだよ。絵を飾るみたいなもんだ」

「絵なら、私が住んでいるお城にいっぱいあります! 有名な画家さんが描いて下さった名画なんですよ!」

 城に住んでるって……本当に何処かの国の令嬢なんだろうか。

 僕はテーブルを挟んで彼女の向かい側に座り、話を切り出した。

「……で、助けてくれって言ってたけど何があったんだ?」

「……そうでした。お人形を見ている場合ではありませんでしたね」

 彼女はマグカップを両手で持ちながら、真面目な面持ちで語り始めた。

「私の名前はミラ・ウェルズ・ロクシュナといいます……ロクシュナ王国の第一王女です」

「……ロクシュナ王国? 聞いたことない名前の国だな」

「それは、この星の国ではありませんから……ロクシュナ王国は、エンケラドスに築かれた千年の歴史を持つ大国なのです」

「……エンケラドス……」

 エンケラドス……って、土星か何処かの衛星の名前だったような気がする。

 そこに国があって、彼女はそこの王女で、わざわざ地球にやって来たと?

 女は魔物だ、と誰かが言っていたが、目の前のこいつはそれを遥かに凌駕している。

 こんな電波な人間は見たことがない。

 しかし、彼女の様子からして嘘を言っているようには見えない。

 彼女は、本気で信じているのだ。自分がエンケラドスの人間で、そこから地球にやって来た王女であると。

 ここで彼女の言葉を話半分に聞き流すのは容易だが……それでは話が進まないので、僕は敢えて彼女の言葉に乗ることにした。

「それで、そのエンケラドスの王女様がどうして地球に来たんだ?」

「実は、私の国で後継者問題が起きていて……何とかして跡継ぎとなる男子を産まないと、王家の血筋が途絶えてしまうのです」

 王家の問題としては、まあありがちな問題である。

 日本でもそうだが……王位を継ぐのは女じゃ駄目なのかなって僕は思うのだが、どうなのだろう。

 僕は紅茶を飲みながら相槌を打った。

「そりゃ大変だな」

「このままでは、王家は滅びてしまいます! そうなってしまう前に、何としても男子を産まなければならないのです!」

 ミラは膝立ちの格好になって、テーブルの上に載っていた僕の手を掴んだ。

 唐突の出来事に、僕はどきりと心臓を跳ねさせた。

「貴方、お名前は」

「……櫂斗だ。三好みよし櫂斗かいと

 詰め寄るようなニュアンスで迫られて、僕は反射的に名乗っていた。

 ぐっ、と僕の手を掴むミラの手に力が篭もる。


「櫂斗様、お願いします! 私と子供を作って下さい!」


「!!?」

 ぶっ、と僕は吹き出した。

 あんぐりと口が開く。目は瞬くのをやめない。

「お、おい、ちょっと待て……子供を作れって、それは……その」

「お願いします! 私には、櫂斗様しか頼れる御方がいないのです!」

 僕の手を離したミラは、何を思ったのか自らが着ているワンピースを脱ぎ始めた。

 白い清楚な下着を身に着けた色白の肌が露わになる。

 やっぱり……その辺の女よりもかなり大きい。何処がとは言わないが。

 じゃなくて。

 僕は返事すらしていないのに、何で一人で話を進めようとしているんだ、この女は。

 僕は二次元の女に操を立てているのである。三次元の、しかも電波な女など御免だ。

「あのな、いいか? そういう話は通りすがりに出会っただけの男にするようなもんじゃない。あんたは男なら誰でもいいのか? 違うだろう? そういう話は、自分のいるべき場所でそういう話をするに相応しい相手にするべきなんじゃないのか?」

 悪いが、僕は彼女がエンケラドスの人間だという話を信じてはいない。

 こういう女は相手をしないに限るのだ。ただの話相手ならともかく、そういう行為に及ぶ相手としてはとてもじゃないが見ることはできない。

「さ、そろそろ暗くなるし送っていってやるよ。あんたの家は何処だ?」

「私は此処を出るつもりはありません! 櫂斗様が私と子供を作って下さるまで、此処にいます!」

 ……まさか、居座る気か。

 僕は独り身だし、とっくに成人しているし、見られて困るようなものを部屋に置いているわけではないが……居座られるのは流石に困る。

 僕は溜め息をついた。

「僕にあんたを抱くつもりはない。居座られてもその気持ちを変えるつもりはないからな」

「櫂斗様にその気がなくても、その気にさせてみせます……!」

 言って、ミラはブラジャーのホックに指を掛けた。

 って、おい、ちょっと待て、まさか──

 はらり、と床に落ちる彼女の下着。

 目の前に現れた二つの果実が揺れている。

 僕は咄嗟に彼女の体から目を逸らし、後ずさってベッドの方へと移動した。

 どうしよう、本気だ。この女。

 逃げるか? いや、此処は僕の家なのだ。何で家主の僕が部屋を明け渡すような真似をしなければならんのだ。

 彼女を追い出すか? いや、流石にこの格好の彼女を外に放り出すわけにはいかないし、何より彼女には僕の言葉に聞く耳を持っていない。

 詰みだ。この状況。

 いつの間にかパンツまで脱ぎ捨てたミラが、恥らう素振りを見せることもなく僕の方へと迫ってくる。

 僕は逃げるようにベッドの上に上がり、身を遠ざけようとして──


 そのまま彼女に押し倒され、腹の上に跨られて動きを封じ込められてしまった。


 ……それが、事の顛末だ。

 思い返せば思い返すほど、思う。僕は完全な被害者だよな、と。

 僕はこのまま、自分のことを異星人と言い張る変な女と一夜を共にすることになってしまうのだろうか。

「……櫂斗様。何も心配はいりませんからね」

 僕を見下ろして、優しい声音で囁いてくるミラ。

「私が、気持ち良くさせてあげますから……」

 彼女の指先が、僕のズボンのベルトに触れる。

 留め具を外されてするすると引き抜かれていくベルトを、僕は強張った表情のまま見つめていた。

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