第130話 怒り
1万分の1。
時間の進みをそれだけ遅くするとどうなるか。
1秒が1万秒になるので、1秒が2時間46分と少しになる。人間の感覚からすれば、それはもはや時間が止まっているも同然だ。
通常空間における音の速度はおよそ秒速340m。その速度ですら、1万分の1の世界では秒速3.4cmとなる。
『クロノスへの祈り』を行使したセラフィーネが、目蓋をゆっくりと開けてオレンジの瞳を顕にする。
彼女の目に映ったのは1万分の1の世界だった。
グスターヴが飛びかからせた人形たちはすべて空中で静止し、グスターヴ本人も瞬きすらせずに止まっていた。
フィオレンツァも、千頭も、ディックも、オルガも、渡辺もセラフィーネ以外のその場にいる全員が止まっていた。
いや、全員は正しくなかった。
「……わ、すごい……」
セラフィーネが目をぱちぱちとさせて、その世界で唯一の音を口から零した。
セラフィーネを驚かせたのは刀柊だった。刀柊だけは目で見て動いているのがわかったからだ。それはつまり、刀柊が音と同等の速度で動いているという意味を示している。
刀柊の速さに感服しつつも、自分のすべきことをする。
セラフィーネがフィオレンツァの手に触れる。
「あら」
すると、フィオレンツァもセラフィーネと同じく、通常の世界の時と同じ様に動き始めた。
「初めまして、フィオレンツァ様。私はセラフィーネと申します」
ぺこりと一礼する。
フィオレンツァもそれに応えて会釈をする。
「そう、あなたが今の『クロノスへの祈り』の保持者ですのね」
フィオレンツァがセラフィーネの目の高さに合わせて前屈みになると、セラフィーネの前髪をそっとかきあげて瞳を覗き込んだ。
「綺麗なオレンジ色」
昔を懐かしむように、セラフィーネの目をジッと見つめた。
「あ、ありがとうごさいます……あの」
「ええ、言わずとも私にはわかります。この戦いを終わらせましょう」
フィオレンツァがグスターヴに向かって歩き始めた。
戦闘経験豊富な元近衛兵たちがどうやってもすり抜けられなかった100体の人形の間を、フィオレンツァは悠然と歩を進めてすり抜けていく。
「もう、いいですよ」
グスターヴの正面にまでたどり着くとフィオレンツァが言った。
それに従い、セラフィーネは『クロノスへの祈り』を解除した。
次の瞬間、フィオレンツァが歩いてきた軌跡に沿って衝撃波が起こり、人形たちが一気に吹き飛ばされる。
衝撃波はグスターヴまでに届き、グスターヴが被っていたシルクハットを吹き飛ばした。
「……これはこれは、参りましたね」
フッと口角を上げるグスターヴに対し、フィオレンツァはニコニコしながら言い放つ。
『グスターヴ、跪きなさい』
「仰せのままに」
この距離で抗うことは不可能。グスターヴは一切抵抗せずフィオレンツァの命令に従い、片膝を地面に着けて恭しく頭を垂れた。
「くっ!」
刀柊が走る方向をフィオレンツァへと切り替えて次の言葉を止めようとするが、フィオレンツァの方が早かった。
『刀柊、モンデラ。止まりなさい』
疾走していた刀柊の足がピタリと止まり、モンデラも身動き一つ取らなくなった。
フィオレンツァがグスターヴのもとまで来たことで『絶対服従』が有効な距離にあったのだ。
「私たちの勝利です」
「……フィオレンツァ」
刀柊が口惜しそうにフィオレンツァを睨みながら、刀の切っ先を地に突き立て自らの体重を支える。
「ディック様!」
セラフィーネがディックのもとまで駆け寄った。
「こんなに傷付いて……」
土で汚れたディックの頬をセラフィーネは優しく撫でる。
「セラ……」
その小さくしなやかな手をディックは今出せる力の限りで握った。もう二度と離すまいと。
セラフィーネにとって少し痛いくらいだったが、ディックにそれだけ自分が求められていることが嬉しくて喜んでそれを受け入れた。
「……うっ……ああぁあ!」
「セラ!」
セラフィーネが急に苦しそうな声をあげ、空いている方の手で胸を押さえた。
握っているセラフィーネの手がどんどん縮んでいく。
手だけではない。
足も腕も、全身が小さくなる。
見た目が7、8歳ぐらいになったところで、縮む現象は治まり、セラフィーネは脱力して横に倒れかける。地面に頭を打ちそうになるのを、かろうじてディックが片腕でセラフィーネの体を支えて護った。
『クロノスへの祈り』を使った代償だ。『クロノスへの祈り』が『禁じられたチート能力』に分類される理由。それは使用者の年齢が増えたり減ったりするためであり、今回の場合は年齢の減少が起きた。
「セラ、お前どうして能力を使ったんだよ……こうなるってわかってただろ」
「ディック様がエメラダ様や刀柊様と闘っていると聞いて、居ても立っても居られなくなって私から千頭様に自分を使ってくださるように頼んだのです。ディック様を助けたくて」
ディックに肩を支えられながら、セラフィーネは微笑む。
「……そうか……俺のために……すまねぇな、俺がもっと強ければ、セラに負担をかけたりしなかったってのに」
「気になさらないでください。ディック様の役に立てて私はとても嬉しいのです。……あの、私からも聴いていいですか?」
「ん?」
「何故、エメラダ様……お母様と闘われていたのですか?」
「そ、それは……」
セラフィーネのオレンジの瞳がマジマジとディックの銀色の瞳を捕える。
その眼差しに、ディックはドキッとする。
本来は同い年であるとはいえ、相手は今幼女だ。それにも関わらず胸をときめかせてしまう自分に、ディックは背徳感を覚える。
加えて、セラフィーネの質問に対する答えも恥ずかしく、とても面と向かって言えるものではない。ディックは頬を少し赤くして、目線をセラフィーネから外す。
「お前を自由にしてやりたかったから」
と一番の理由は言わず、2番目の理由を口にする。
「もう大きな力に流されてくだけは嫌になったんだ。自分の力で自分の信じた道を進みたくなったのさ」
「……吹っ切れたんですね」
「え?」
「ディック様の今の顔。とってもスッキリされてますよ」
「……そうか」
ディックとセラフィーネが互いに笑顔を送り合う。
若き男女の微笑ましいやり取りに場の雰囲気も和み、周囲にいた元近衛兵たちも勝利を実感し始める。
「我らの勝利だ!!」「うおおぉ!!」「やったわね!」「アルカトラズ制圧完了じゃああ!!!」
湧き上がる歓声。
「…………まだだ……」
だが、その喝采に水を差す者がいた。
刀柊だ。
刀柊が地に突き立てていた刀を抜き、フィオレンツァたちへ前進する。
「――ッ!」
これまでどんなことにも驚かなかったフィオレンツァが初めて唖然とした表情をする。
「ば、馬鹿な! まだ動けるのか!」
フィオレンツァに長く仕えてきた元近衛兵たちは『絶対服従』の効力をよく知っていた。この距離で命令に逆らえるはずがない。だからこそ、目の前で起きている事態が信じられなかった。
自分の方へ歩いてくる刀柊に、フィオレンツァは自らも歩いて近づく。
より近い距離で命令して今度こそ刀柊を止めるつもりだ。
『刀柊、止まりなさい』
尚も歩みを止めない。
『頭を垂れなさい』
フィオレンツァが何を言おうが、刀柊は進行し続ける。
「……女王の命令が通じないなんて、ウォールガイヤの人類史上初めてだわ」
フィオレンツァの声は少し震えていた。恐怖の色が混ざった声だ。だが、その声の中には嬉しさも混じっていることはこの場の誰も気づかない。
「フィオレンツァ殿の『絶対服従』の詳しいカラクリはわからぬ。だが、それが何らかの形で人の本能に作用していることはわかる。遺伝子に深く刻まれた理性ではどうすることも叶わぬ無意識の領域。『絶対服従』とはそれに訴える能力なのだろう?」
「ボーッとするな! 陛下をお守りしろ!」
元近衛兵たちが武器を携えて刀柊に襲いかかるが、高速の刃が次々にそれらを薙ぎ払っていく。
「「 ぐああぁ!!! 」」
「覚えておくのだな、武を究めるとは己の肉体を完全に支配することだ。それ即ち、自らの生存本能も律するということ。妾に『絶対服従』は効かぬ!」
元近衛兵たちが突撃したそばから斬り捨てられていく。
「これもまた、人が持つ可能性……神が定めたレールから外れし者……」
フィオレンツァが一人呟く。まるで宝物の玩具を見つけたかのように、緑の瞳を輝かせていた。
「女王様、効いてないようですが、何か策はあるので?」
そのフィオレンツァの隣に千頭が『
「無いですね。こうなったら力ずくで倒すしかありません」
「わかりました、では」
千頭がスッと手を挙げると、アルカトラズの高所から対物ライフルの弾頭が刀柊へ飛来する。しかし、刀柊はこれを容易く刀で弾いた。
「あーあ、予想はしていたけど、戦車の装甲を貫く弾丸を刀で防ぐなんて漫画の世界だけにしてほしかったな」
千頭は苦笑いを浮かべる。
「あれでも、今の彼女は相当に苦しいはずです。『絶対服従』を完全に無効化することは不可能。その証拠に彼女はずっと歩いています。おそらく、刀を振るうことに神経を集中させているのでしょう」
「ほー、それなら遠くから攻めるとしましょうか」
千頭が手を後ろから前へ動かした。
すると、後方に控えていた部下たちが一斉に刀柊へ攻撃を繰り出す。
『
『
『
『
初めに刀柊に迫ったのは紫水晶。
刀柊の足元から生えた刺々しい水晶が、刀柊を刺し貫こうとする。
これを刀柊は一歩下がって避けた後、突き出た水晶の先端を刀で切断し、その分離した水晶の破片を掌底打ちで突き飛ばした。
「ウッ!」
『水晶畑』の能力者の額に、破片が激突する。
次に向かってくる雷撃に対し、刀柊は刀を地面に突き立てて刀から手を離した。
雷撃は刀にぶつかると刀身を伝って地面に流れて霧散する。
「刀を避雷針に?!」
『雷魔法』使いが動揺している間に、刀柊は伸びてきた『蜘蛛の糸』を掴むと、それを思い切り自分側へ引っ張り能力者を前に転倒させる。
そこへ、『炎魔法』がやってきて刀柊を包み込むのだが、刀柊はその只中で地面に突き刺していた刀を引き抜くとその切っ先で頭上に大きく円を描いた。
「なっ! 炎が刀に纏わり付いて!」
『炎魔法』使いは信じられない光景に声を荒げる。
その刀を刀柊は真横に振り抜いた。
鋭い風圧が炎と共に放たれ、遠くにいた千頭たちの部下たちを一度に燃え上がらせた。炎の中で多くの者が悲鳴をあげる。
「"己を知り、相手を知り、最後には天地を知るべし"。それこそ、天知心流の最も基本的な教え。天地とは大地、水、空気、炎などの自然を意味する。妾には『炎魔法』の能力は無いが、誰よりも炎の扱いを理解している」
「ホワッ!」
刀柊の背後にジイが『瞬間移動』で現れる。死角からの『
「そろそろ来る頃だと思っていたぞ」
刀柊は後ろへ振り返って飛び出すと、ジイの鳩尾に拳を入れた。
「ギャッ!」
ジイは肺から空気を吐き出すと、気を失って地面に倒れた。
「残った者の中でお主は一番警戒していた。今の妾がお主の『重力魔法』を受ければ逃れる術は無かったからな。だが、それも無くなった。もう妾を止められる者はおらぬ」
「……このまま負けてしまったらディック様が牢獄に!」
セラフィーネがもう一度『クロノスへの祈り』を使おうと起き上がろうとした。
それをディックが自分の胸元に抱き寄せて止める。
「……させねぇ。もうこれ以上お前に苦しい思いをしてほしくねぇ!」
「ディック様……」
いきなりの力強い抱擁にセラフィーネは胸を高鳴らせる。
セラフィーネもディックも、フィオレンツァも千頭も、もう刀柊をどうすることもできなかった。
誰もが負けを覚悟した。
そんなときに、あの男が刀柊へ突撃した。
「――ッ!」
刀柊が横から猛スピードで迫る存在に気づき、その者の拳を刀で受け止めた。その力は凄まじく、刀柊の体が大きく後方に滑った。
「……貴様か」
「な、ナベウマ」
「渡辺……」
「どうやら、君が最後の希望のようだね」
オルガ、ディック、千頭が呟く。
渡辺 勝麻。
彼は再び憤怒の風をその身に纏い、刀柊に勝負を挑もうとする。
「無駄だ。貴様に妾の剣戟は追えぬ」
刀柊の刀が月の光を反射した直後、怒涛の連続斬りが渡辺の五体を直撃していく。一切遊びが無い無骨な攻め。渡辺の『
「……チッ」
渡辺が攻撃を受けながらも舌打ちする。
「……いい加減にしろよ……テメェがしつこく立ってやがるから……いつまで経ってもマリンたちを助けに行けねぇじゃねぇかよ!!」
渡辺の拳が刀を捉えて弾いた。
「何? ……まさか、偶然だ」
渡辺は無数の刃に刻まれる。
しかし、その中でまた刀を払う。
「――な!」
尚も刀を振るい続けるが、それを渡辺が弾く回数がだんだんと増えていく。
「偶然……ではないだと!」
そしてついに、渡辺が立て続けに斬撃を防いだ。
それにより、刀柊が怯んだところへ、渡辺の鉄拳が刀柊の顔面にクリーンヒットする。
「ぐっ!」
刀柊は堪らず手で顔押さえながら後退するが、渡辺にこの機会を逃す気は毛頭なかった。
直ちに刀柊を追いかけ、脇腹、腹部、顎などあらゆる部位に一撃一撃全力を込めた突きや蹴りを喰らわせる。
「ゴフッ! 何だこれは……どうなっている。さっきまでレベル400代程度だった反応速度と攻撃力が……上がっているだと?!」
刀柊もやられっぱなしではない。
迫る憤怒の化身に対し、刀を振るう。
渡辺の身を護っていた一部の『防御支援』がついに砕け、渡辺の腕や腿から血が迸る。
「ガアアアァァ!!!」
怒り狂った獣のような怒号を轟かせ、渡辺が反撃する。
「グフッ! ぬあぁ!!」
血反吐を吐いた刀柊が、これをさらに反撃する。
「「 ハアアアァァ!!!! 」」
大気を震わす二人の絶叫。
反撃に反撃。
何度も何度も。
繰り返される。
その度に鮮血が宙を舞い。
地面が赤黒く彩られていく。
「何なのだ貴様の能力は! 大した代償も無しにそれだけの力! 真に神が与えた給うた能力か!!」
「知りたけりゃ今すぐ死ね!!」
渡辺が殺意を放つ。
血みどろの闘い。
惨憺たるその激戦の光景に、幾人かは目を背けるか、もしくは覆う。
いずれにしろ、全員が二人の戦に注目していた。
だから、誰も気づかなかった。
とある一人の人間が少しずつ、攻撃の準備を進めていたことに。
モンデラ・シャン。
この世に生を享けて間もなく母親を失った彼女は、母親の仲間であったエメラダ、グスターヴ、刀柊から生き方と戦い方を学んで育ってきた。
そう、モンデラは刀柊から武術を教えられている。そのため、彼女は刀柊ほどではないが『絶対服従』の中でも身動きが取れた。
「刀柊が……殺される……そんなの……僕……嫌……」
渡辺の異常な殺気がモンデラは恐ろしかった。もしかしたら育ての親が渡辺の手で殺されてしまうかもしれない。モンデラにとって、それは絶対に許してはならない事柄だった。
手に持つ矢を弓の弦に番え、自由がきかない手を少し、また少しと後ろに引いていく。
渡辺が刀柊を殴る度に、モンデラの白銀の瞳の奥にある炎が勢いを増す。
「ッ!」
そんなモンデラの気配の変化を察知したのは、屈んだままの姿勢でいたエメラダだった。鬼気迫る表情で渡辺を凝視するモンデラを見て叫ぶ。
「待てモンデラ! それはやり過ぎだ!」
モンデラから矢が発射された。
渡辺がちょうど左拳を振りかぶって顔の横に置いていたところへ、その矢は飛んできた。
「――ッ!!!」
渡辺は飛来する矢の存在に気がつき、咄嗟に左手の甲でガードする。矢は手に刺さっただけで終わったかに見えた。
しかし、矢はドリルのように回転を始め、渡辺の手を掘った。
「うぐっ!」
矢は手を突き抜け、渡辺の顔面に刺さった。
プジュル。
自分の顔の内側からそんな音を聞いた。
左目に感じる異物感。
渡辺は血の気が引いた。
「あ……ああ……」
左目が急速に熱を帯びる。
火傷しそうなくらい熱くなっていく。
「あぁ……グ、ウアアァアァ!!!」
痛い!痛い!痛い!痛い!!ああ!!左目が!!!左目が何も!!見えない!!あううあ!!
錯乱する思考の中、渡辺は左目の状態を探ろうと手をやったところ、手に棒状の物体がぶつかる。
左目から異物感が無くなるのと同時に、渡辺の足元に何かが転がった。
あまりの痛さに涙が溢れて右目の視界はぼやけていたが、渡辺は自分のそばに矢が落ちていることを認識する。
その血が付いた矢を見て、渡辺は悟った。
「アアァァアアァ!!!!!」
尚も激痛が襲う左目を手で押さえながら、渡辺は内から沸々と感情を湧き上がらせる。
何で!! 何でこんな目に合わなくちゃいけない!!! 俺が何をしたって言うんだ!!!!
悪いのはテメェらなのに!! どうして! お前らは平気な顔して生きていて!! 被害者の俺たちだけが辛い思いをしなくちゃならない!!!!
かつて、自分を苦しめた者たちの顔が浮かび上がる。
「ウグウウゥ!!」
ズキン! ズキン! と左目を中心に爆発が何度も起きているかのような痛みを伴いながらも、渡辺はモンデラに死の眼差しを向けた。その右目からは透明な涙を、グチャグチャになった左目からは真っ赤な血涙を流していた。
鬼の形相。
モンデラは今まさに自分を殺そうとしている存在から逃げようとするが無意味に終わる。
刀柊ですら追うことのできない速度で、渡辺は地を蹴り割って飛び出し、モンデラの腹に右ストレートをくらわせた。
「ブッ!」
ボキボキと肋骨が折れる音を奏でながら、モンデラは血を吐いて体を"く"の字以上に曲げる。
そのままモンデラは遥か遠くまでふっ飛ばされる。はずだったが、渡辺はふっ飛んで自分から逃れるなど許さなかった。
殴った右手からモンデラの体が離れると同時に、モンデラの左足を右手で鷲掴みにして飛んでいくのを無理やり止めた。
それによりモンデラの左膝の関節が外れる。その衝撃は渡辺自身も無傷では済まされない。渡辺の右腕はただでさえダメージを受けていたために、筋繊維がブチブチと切れる音が響く。
続けて、渡辺はモンデラを掴んだまま右腕を高々と掲げた後、後方に思い切り振り下ろしてモンデラを顔面から地面に叩きつけた。
渡辺の腕力は相当なもので、モンデラの顔は地面に埋まった。
並の人間であればとっくに死んでいたが、四大勇者の一人というだけあり、まだ息があった。
「……あ……ぐ……」
美人であったモンデラの顔は傷だらけとなり、鼻血も出ていた。
虫の息であるモンデラの顔の横に渡辺が立つ。
「結局、テメェらみたいなクソ野郎は自分たちも痛い思いをしなきゃわからねぇんだ」
渡辺の脳裏では、中学生時代、石で人を殴り倒した時の記憶が呼び起こされていた。
「そう、やる事はあの時と同じだ」
その決意の表れとして、渡辺の左手に風が収束する。
「……ナベウマ!」
それを伏せた状態で見ていたオルガが予感する。あってはならない事態を。
渡辺が左手をモンデラの頭上で高々と上げる。さながら、それは断頭台に備え付けられた刃の様。
「よせ渡辺! 人殺しになるつもりか!!!」
オルガの叫びも虚しく、刃は落ちた。
「させん!!!」
刃の下に刀柊が割って入った。
次の瞬間、刀と手刀が衝突した。
「「うわああぁ!!!」」
爆発でも起きたかのように、渡辺たちを中心に激しい突風が吹き荒れ、周囲にいた何十人かが風で飛ばされ、建物の窓が割れる。
刀柊の足元の地面も砕けるほどの威力で、刀柊は片膝を落としそうになるが、それを気合で持ち堪える。
刀柊はモンデラを跨ぐ格好で立っているため、膝を折るわけにはいかなかったのだ。
渡辺と刀柊の力が尚もせめぎ合い続けるが、刀柊の方が明らかに力負けしていた。
「馬鹿な……この力……攻撃力600……いや700はあるぞ!」
刀柊の上体がどんどん沈み込む。
そして、最後には、甲高い金属音と共に刀が折れた。
「ガッ!!」
手刀が刀柊の肩に食い込み、鎖骨を砕いた。
「く……ふ……」
刀柊は力無く両腕を降ろした。
そこへ渡辺はさらなる一撃を加えようと右拳を振りかぶるが、刀柊はそれを制止した。
「もうよい」
渡辺が動きを止める。
「武士の魂である刀が折られた……妾の……敗北だ」
刀柊の敗北宣言が、静まり返った戦場に響いた。
「……うそ……やったの?」
皆が黙っている中で最初に口を開いたのはシーナだった。
「刀柊に……勝った?……四大勇者に勝ったんだ!」
シーナが喜々と大声を出した。
釣られて、他の者たちからも勝利の雄叫びがあがる。
「……へっ、やっぱり俺の見立ては間違ってなかったみてーだな」
「やはり面白い能力だ。いつか調べてみたいところだけど、あれを捕まえるのは骨が折れるだろうね」
ディックと千頭がニヤリと口角を上げる。
「アイツの能力すご過ぎだわ! アイツにたくさん子供作ってもらって能力を増やせば魔人にだって勝てるわ! ね、お母さん!」
はしゃぐシーナに、フィオレンツァは首を横に振った。
「お母さん?」
「残念だけどシーナ、あの能力は誰でも使えるわけじゃないのよ」
「え?」
「あなたも女王になればわかるわ」
フィオレンツァは寂しそうな笑みを浮かべた。
誰もが勝利に安堵して笑みを溢していたのだが、オルガだけは浮かない顔をしていた。
「……渡辺……お前さんは自分が信じたもののためなら、人を殺してもいいと思っているのか? ……だとしたらそれは、危険な考え方だ」
渡辺の手が刀柊の肩から離れる。
「……お主の能力は、明らかに常軌を逸している」
刀柊が折れた鎖骨を手で押さえながら立ち上がる。
「渡辺と言ったか? 覚えておくのだな。大きな力には責任が伴う。それだけの力を神が何の理由も無しに与えるはずがない。お主は大きな役目を託されてこの世界に送られてきたのだ。せいぜいその宿命に潰されぬことだな」
「どうでもいい」
渡辺が暗く沈んだ声で言った。
「……はぁ……お前さ、何一人で勝手に終わらせようとしてんだ?」
「――!!」
渡辺の形相は依然鬼のままだった。
渡辺から吹き出る風が刀柊の髪を激しくなびかせる。
「やっぱり同じだな。自分たちがちょっと危ない目に合うと逃げ出そうとするんだ」
渡辺の鋭い光を放つ瞳の奥で、一生許すことはない者たちの姿と刀柊の姿が重なる。
「テメェら王国が人々に与えた苦痛はそれよりも遥かに上だっていうのによぉ……今度は逃さない! 今度こそ俺はテメェらクソ野郎共の息の根を止めてやる!!」
「……よかろう。敗者は勝者に従うのみ。好きにするがよい」
「待つんだ渡辺! これ以上戦う必要はない! 相手は負けを認めたのだ! やめろ!」
叫ぶオルガだったが、渡辺は耳を貸さない。
渡辺の戦闘続行に多くの者が「そこまでやるのか」と、渡辺の思考回路に恐怖を覚えた。
目を閉じ直立不動な刀柊に向けて、渡辺は大きく拳を振りかぶる。
その間もオルガは必死に声を張るが、やはり渡辺には届かない。
「 死ね 」
無慈悲な一撃が、刀柊の胸を貫く。
その直前だった。
「――ょ……ま」
渡辺の耳に聞き覚えのある声が聞こえ、放たれた拳が途中で止まる。
声がした方に視線を移すと、遠くから一人の人物が駆けて来るのが見えた。
「ッ!」
その人物が何者かわかると、渡辺は目を大きく見開き、拳を下ろす。
すると、一心不乱にその人物に向かって走り出した。
「「ハァ……ハァ……!」」
お互いが息を切らせて走る。
渡辺はとっくに体力の限界でとても走れる身体ではなかったが、それでも、途中で何度も転びそうになりながらも、足を懸命に前に出した。
そして、二人は手の届く距離にまで近づくと、立ち止まり互いに涙を流して見つめ合った。
アルカトラズに投獄されてから、渡辺はずっと怒りの表情しか浮かべてこなかった。
しかし今、ようやく渡辺は怒り以外の表情を見せた。
笑顔。
それも、涙でくしゃくしゃになった。
渡辺の前に立つ人物もまた、涙色の笑みで顔いっぱいを満たしていた。嬉しさと悲しさで溢れていた。
渡辺に再会できたのがとても嬉しくて。
同時に酷く傷付いた姿に心を傷めて。
「……ショウマァ!」
「ミカ!」
二人は互いを強く抱き締めた。
渡辺はもう二度と奪われまいと、ミカを両腕で強く包み込み。
ミカはもう二度と離れたくないと、渡辺の服を両手で強く掴む。
「会いたかった! 会いたかったよぉ!」
「ああ! ああ!!」
まるで子供のように泣きじゃくる二人。
そんなたくさんの涙に溺れていく内に、渡辺の張り詰めていた身体から力が抜けていく。
大切な人が無事に帰ってきてくれた安心感。安堵に全身を満たされて、渡辺は穏やかに静かに眠るように目を閉じ、意識を手放した。
急に重くなった渡辺にミカは少し動揺したが、
「そうだね……こんなにボロボロになるまで……ショウマは頑張ったんだもんね……たくさん休んでね……」
優しく耳元で呟いて、ミカは渡辺を抱き支えるのだった。
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