いちばん好きなひと

霜月ミツカ

1

 隣に眠る男のいびきで目を醒ます。閉じていると大きな口は、開いていると公害レベルの音を出すとは知らなかった。


 きのう血を流した部分が少し痛む。わたしの望む相手はこのひとではなかった。きょう大学に行ってあのひとの顔を見たら泣いてしまうかもしれない。自棄になったとかそういうことではきっとない。終わらせたい気持ちがひとつあったからだ。


 安斎くんはきれい。性別という垣根を飛び越え、美の最終到達点に行くことを許されたひとだ。「男なのに女より可愛い」と性別の尺度で彼を測るひとがいるけれど、もはやそういうレベルではない。小さな顔の中にどのバランスを間違えることもなく、丁寧に配置された目と鼻と口。目は大きく、睫毛は長く、唇は薄く、少しの丸みを持った高い鼻と、描写してしまえば凡庸に感じるかもしれないけれど、それに表情筋の動きが加わると彼のきれいさには誰も敵わないと知る。


 わたしがマネージャーとして所属するフットサルサークルで「岬くんが安斎くんと付き合っているのではないか」という噂が流れたのは、最初に「安斎くんが岬くんのことが好き」というところから始まった。それが次第に「岬くんも安斎くんのことが好き」になり、いまに至る。そんなの、男子同士の同性愛が好きなひとの妄想の範疇を越えないと思ったけれど、最近ではほんとうかもしれないと思いはじめた。


 岬くんは口数が多くない。顔はずば抜けていいわけではないけれど整ってはいる。鼻が高く、目は奥二重で、すっきりしている。ただ、身長が高くて、一八〇センチは越えている。適度に鍛えられた体をしているのは服の上からでもわかる。一緒にいても相手を緊張させない、穏やかな雰囲気を持っている。だからか、岬くんに好意を寄せている女の子は何人か知っている。将のことばを借りると「尋常じゃなくモテる」。話によると中学二年生から大学一年生まで彼女が途絶えたことはない。そんな岬くんが大学二年から、大学三年の夏、いまに至るまで彼女がいない。誰が告白しても好きなひとがいるからと言って断るらしいし、岬くんが誰を好きか誰も知らない。そういうこともあって、勝手に安斎くんと付き合っているという噂に発展した。


 わたしは岬くんが好きだ。将と付き合うことになったいまでも、岬くんのほうが好き。将とキスをするとき目を瞑って岬くんのことを考える。岬くんはどういう唇の感触をしているのかと妄想する。「誰が告白しても断る」ということを知って、わたしも告白するのをやめた。岬くんが好きなひとはわたしだと思えるほどじぶんに自信もないし、可能性は限りなく低い。わたしは岬くんとあまり話さないし、岬くんはわたしのことなんて見てない。


 昼休みはフットサルサークルの一部のひとたちで三号館の前のベンチに集まる。決めているわけではないけれどみんな勝手に集まってくる。学校の中にあるコンビニで買ってくるひとが大多数だけれど、清美だけはじぶんで作ったものを持ってくる。わたしがサンドイッチを食べていると岬くんが来た。


「お疲れー」


 寝不足なのか、声がいつもより低くて、けだるそうに言った。


「あれ、将は?」


 わたしはもう将と一セットみたいな扱いだ。


「きょう、休みなんだって」


「そっか」


 岬くんはビニール袋からおにぎりをひとつ取り出して食べ始めた。きょうも幾つ買ったのかわからないけど重そうだった。岬くんはよく食べる。


 きのう、将と寝てしまったという事実が夢だったらいいのにと思う。泣かなくて済んだけれどこころの中がむず痒い。どうして、こういうときに限って岬くんと二人きりになってしまうんだろう。


 ベンチから二〇メートルくらい離れたところから安斎くんが歩いて来る。熱いのにマーブル柄の長袖のパーカーを羽織ってフードを被り、俯き気味。そういう姿を見てもきれいだと思う。岬くんは気にする様子がなかった。


「安斎くんだよ」


 わたしがそう言うと興味なさそうに「ああ」と言って鞄の中を漁っていた。


 近づいてくる安斎くんが顔をあげた。ベンチに岬くんがいることを知っているからだ。いつもは三号館の二階の踊り場から見ている。わたしは安斎くんが岬くんをいつも見ているのを知っている。安斎くんは岬くんではなく、わたしを睨んだ。その目の色に体が硬直した。妬かれているのかもしれない。でも、わたしなんかに妬いてどうするんだろう。


 突然岬くんが立ち上がって、安斎くんのほうに駆けて行った。岬くんを見ると安斎くんはさっきわたしに見せた表情と一変して、ものすごくきれいに笑った。ああ、好きなんだなってわかる。目尻をさげ、甘えるような顔をする。一方岬くんは後ろ姿でよくわからない。何かを安斎くんに渡して、片手をあげて戻ってきた。


 付き合っている、という事実が嘘ではないんじゃないかとまた思ってしまった。


 岬くんは何事もなかったように二つ目のおにぎりを食べ始めた。


「付き合ってるの?」


「え?」


 岬くんはちっとも動揺しない。ああ、嘘かな。そう期待してしまった。


「みんな、そう言ってるから」


 わたしはお茶を含んで飲みこんだ。


「わ、わたしそういうの偏見ないし」


 必死過ぎたのか声が裏返ってしまった。


「付き合ってないよ」


 岬くんは優しい声で言った。


「あいつが、俺のことなんて好きになるはずないじゃん」


「まさか」


 それを本気で言っているとしたら岬くんはとんでもなく鈍感だ。


「見てるだけでわかるよ。安斎くんは絶対岬くんのこと好きだって。みんなもそう言ってるし」


「そうかな」


 岬くんはふだんからあまり笑わない。笑わないというか愛想笑いをしない。みんなみたいに困ったときに笑ってみせたり、会ったときに笑ったりとか、そういう笑いをしない。だから偶に誰かが岬くんを笑わせるのを見ると嬉しくなる。安斎くんも岬くんを笑わせるのかな。


「いまも、睨まれたし。安斎くんに」


 そう言うと「気の所為でしょ」と言われた。


 偶然、あんなに怨念のこもった目でひとを見るはずない。だから気のせいではない。


 次々にサークルメンバーが集まってくるけれど、岬くんの存在だけをわたしは感じていた。ほかの子と喋っても、岬くんのことが気になって仕方がなかった。どうしてこんなに好きなのか、わからない。


 わたしと安斎くんは同じゼミだった。八人のゼミで男女が半々。だけど江田くんが「時雨ちゃんいるなら男三、女五だなー」と言っていた。それを安斎くんは無視していた。彼は、非常にクールなんだと最初の頃は思っていた。だけど岬くんの前では飼い主に甘える猫みたいになるのを何度か見かけて知っていた。


 ゼミで飲み会をやることが決まっていたが、安斎くんは欠席を表明していた。誰が理由をきいても「用事がある」の一点張りだった。


 ゼミの帰り、江田くんと、中石くんと三人で途中まで一緒だった。


「体売ってるんだってな、安斎って」


「ああ、そういう噂あるよな」


 安斎くんはきれいだけど、ゲイだというだけでいろんなひとにいろんなことを言われている。


「感じ悪いよな。安斎ってほんと」


 ああいう態度をするのはみんながからかうから仕方がないんだと思っていた。


「オカマならもっと明るくしてろよって感じだよな」


わたしたちより先にゼミ室を出た安斎くんが立ち止まって窓の外を見ていた。唇にも目にも怒りの色を浮かべている。その視線の先には岬くんが誰かといるんだろう。


 四号館への渡り廊下で二人は「俺らこっちだから」と言って左折した。わたしは直進して、安斎くんの近くまで行って窓の外を見た。岬くんが知らない女の子と話していた。やっぱり岬くんは話しながら笑っていない。


 わたしの存在に気がつくと安斎くんは歩き出してしまった。


「安斎くん」


 呼びかけると立ち止まり、振り返った。


「岬くんと、付き合ってるってほんと?」


 こんな嗅ぎまわるようなことをしたら岬くんにも嫌われる。でもいい。だってもう岬くんがわたしを好きになるなんてこと絶対ないし、いまわたしは将と付き合っているから告白なんてできない。


「なんで」


 激昂するわけでも静かな怒りに満ちた顔でわたしを見た。


「みんな、そう言ってるから、ほんとなのかな、って」


 ことばを重ねるにつれて声が小さくなる。安斎くんはイライラした表情になって、何も言わずに早歩きで行ってしまった。


 悪いことをしてしまった。体の底から罪悪感が溢れ出てくる。


 あんなにきれいな安斎くんが岬くんのことが好きで、だけど男の子だという理由で岬くんに想いを伝えられないなら、可哀相だ。可哀相だと思うことがもはや失礼。わたしよりも、さっき話していた子よりも安斎くんはずっときれいだ。それなのに好きなひとに好かれないならきれいでも意味ないから悲しい。


 外に出ると日が暮れはじめていた。夏の夕暮れが好きだ。青色が薄くなり、オレンジが強くなる。溶けあう色が絶妙で、夏はそれがとりわけ美しい。グラウンドに行けばサークルのみんなが集まり始めている頃だろう。岬くんは最近サークルには来ない。アルバイトが忙しいと言っていた。


 その日、グラウンドに行かず大学の近くにある将の家に向かう。チャイムを鳴らすと将が出てきた。


「おはよう」


 朝と変わらない白いシャツにジャージを履いていた。


「もう夜だよ」


 休みだから一日中寝ていたのかもしれない。だらしのないひとだ。


 将は岬くんと仲がいい。そして、将は、いままで出会った人間の中で誰よりもわたしに好意を寄せてくる。最初はわたしのどこがいいのかと悩んだし、将のアプローチが激しすぎて向きあえずにいた。だけど、将と付き合うことによって、岬くんのことに諦めがつくならいいのだと思っていた。


「わたし好きなひとがいる」


 最初に告白されたとき、そう言ったけれど将はまったく諦める様子がなかった。あまりにしつこかったのでこの前とうとうOKしてしまった。


 岬くんに比べると一〇センチも背が低く、野暮ったい顔をしていて、しかも大きい。友だちは多いけれど女の子にもモテない。「茂田と付き合ってるってマジ?」とよく言われる。岬くんと付き合えばそういうことを言われずに済むんだろう。将はいいひとだ。いいひとの彼と付き合えてわたしは幸せだ、そう思うようにしている。


 将の家にはゲームが散乱している。プレイステーション2やXBOX。


 ベッドに座る将の隣がわたしの場所だ。彼がゲームをしているのを見ているのは好きだ。わたしが小学生の頃に比べるとどんどん画質がよくなり、キャラクターはかっこよくなっている。わたしでは動かせないものを将は動かすことができる。そういうのを見るとこのひとも悪くないと思う。


「サークル行かなかったの?」


「行ってもしょうがないかなって」


「俺がいないから?」


 岬くんがいないからだよ。


「そうだよ」


 わたしが嘘をつくと将が嬉しそうに笑う。


 わたしのことを好きなひとにいままで出会わなかったから知らなかったけれど、そのひとを褒めたりすると異常に喜んでくれる。それは嬉しかった。


「岬と会った?」


「会ったよ」


「元気だった?」


「なんでそんなこと訊くの?」


 岬くんは男にもモテるのかもしれない。


「最近誘ってもウチに来ねえから」


 この家には岬くんが来たことがある。そう思うと不思議だった。


ベッドの向かいにテレビがあるだけの部屋。申し訳程度にキッチンがあって、その向かいの小さい扉を開けるとユニットバスがある。こんな狭くて汚い部屋に、わたしの好きなひとが来ている。同じ空間で、この汚い空気を吸った。


「とうとう彼女できたんかな」


 心臓がゆるく震えた。


 将とふたりきりになっても、わたしは岬くんのことが忘れられない。逆に将といると岬くんのことばかり考えてしまう。将はわたしといるけれど、岬くんは安斎くんといるのかな。


「やっぱり岬くんと安斎くんって付き合ってるのかな?」


「やっぱりって。お前もあんな噂信じてるのかよ」


 画面の中では人間のかたちをしたキャラクターがモンスターと戦っている。


「岬ってガチでホモじゃないぜ。知ってんだろ、由宇ちゃんと付き合ってたの」


 由宇さんはとんでもなくスタイルのいい美人だ。安斎くんとは違って、女の子の綺麗の最終地点に達しているひと。


「でも安斎くんって女の子みたいじゃん」


「関係ないだろ。岬のそれに好きな女のタイプ知ってるか?」


「知らない」


 岬くんの好きなタイプなんて想像したこともなかった。


「顔が可愛い子だぞ。あんな草食恐竜みたいな顔してそんなこと言うんだぜ? クズだよ。クズクズ」


 親しいからか、将は岬くんをそう貶した。わたしの体温が急激にあがるのがわかった。いくら友だちでも岬くんを悪く言わないでほしかった。


「あてはまってるじゃん。安斎くん」


「あと胸が小さい子がいいんだって。男なのにそんなこと言うなんて変態の極みだぞ」


 わたしは小声で「あてはまってるじゃん」と繰り返した。


 わたしは可愛くないから岬くんの好きなタイプではない。将から言わせるとわたしは可愛いらしい。もの好きだ。こんなにもじぶんを愛してくれる将をなぜこんなにも愛せないのかじぶんが憎い。


 ボスらしき敵を倒し終わると将は


「きょう帰るの?」


 と訊いた?


 きょう泊まるのは無理そうだ。だってきのうもしたんだ。というか、きのう、はじめてしたんだ。


「女の子の日だから」


 そんなの大嘘だ。それなのにうわーまじかよーと将が言う。


「男の子の日はないんだぜ」


「知らないよ」


 将を足蹴にして家を出た。男の子の日はない。なぜか安斎くんの顔が浮かんでしまった。


 はじめてを失えば踏ん切りがつくと思った。でも実際セックスなんてどうってことないことで、期待した祭りが全然そうでもなくてがっかりしたときの感覚に似ていた。諦められないどころかきょうも岬くんのことをたくさん考えてしまった。


 きょうあなたは誰といるんだろう。誰のことが好きなんだろう。誰にも言わないからわたしにだけ、教えてほしかった。

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