黒潮のエトピリカ
峠のシェルパ
第1話
正しいものは強くない、強いから正しいのだ。
人々は曲がりくねって複雑な一歩ん路の迷路を歩んでいるに過ぎない…
その日は有給を取らされて起きたのは昼過ぎだった。
なんて事ない普通の家庭の長男として生まれて悪目立ちも勿論良い目立ち方もせず、
親に反抗心を燃やして「なんとかババァ、なんとかジジイ」などという言葉も見つからずに平穏無事にいわゆるサラリーマンになった自分は三十路になろうとしているのに何も成せていないでいた。
まぁ、社会人ってのは来た仕事さえこなしていれば何も文句は言われないのだろうとたかをくくっていたのだが、真実は小説より奇なりという言葉がぴったりでお昼時に放送している奥様方向けのドラマが優しく見える程度に人間関係の浮き沈みが激しく、減点方式の罰ゲームを延々と繰り返しているかの様で、俺の点数は残り何点なのか数えながら、親元を離れて都会から距離の有る海辺の小さな町から2時間程掛けて通っている。
疲れから来たであろう出勤日と有給休暇の混濁を乗り越えて意識は覚醒したが、体と心が黄色信号を点滅させているので暫く放っておけば惰眠を続けられるかと思ったがばっちり講じたはずの防寒対策がそのサービスを終了させており実はこれそのままなら凍死する危険性がありそうなので手元のスイッチで暖房機を付けて閉じたカーテンの隙間から呑気に差し込む明るい陽射しを鬱陶しがりながら天井を拝んだ。
「やることねぇなぁ…」
起きても趣味と言えるほどひとつのことに熱中出来ない類いの人間で長く続いた試しが無い、そんな俺はテレビもスマホも見る気力を失っている。
受け手が情報を取捨選択するのではなく、情報が受け手を取捨選択している様な屁理屈を言って俺は自堕落な休日を送っている。
入った会社もブラックと言うほどでもないしそれなりにものはもらっているが、縁もゆかりもまるで無い土地で住めば都と我慢してはや数年、もう少し都心に進出したいものだが…
ただ家賃が相場より低い上に始発駅のため確実に着席出来るという点と景色が良いのを売りにしていたアパートの窓から見える風景には一週間程で飽きてしまう始末、高台にあるのは良いんだけども駅から上ってこなくちゃ行けないので行きはよいよい帰りは怖いで家でなにかやろうとする元気を残さないのである。
「冬に行ったってなんの目の保養にもなりゃしねぇ、風は強いし降りていっても半ば観光地で飯は高い人は多いとこりゃあ家から出ませんぜぃ…」
近所付き合いもそこそこに自治会などの面倒事は輪番制なので新参ものにはまだ回ってくる心配もないので大丈夫なのだ。
絶賛暇をもて余す午前の終わり、とはいえ折角の有給なので無駄にはしたくない。
有給を消化しないと管理課から目玉を食らうので半強制的に上司に取らされて同僚から白い目で見られながら休んだのだが…あいつら怒ってんだろうなぁ…
日がな一日何もすることがない日は年寄り臭いが散歩にでも行くのが日課になっている、決まった所を行くのではなくてふらっと着の身着のまま気の向くままに俺は見知らぬ街を歩く、しばらく市街地から山間に入ってつらつら進むとやっぱり俺には何となく馴染まないと薄々感じた。
ここは静かで住民の皆がこの地に住むことを望んでいて各々が目的を達成する為に暮らしているような活気と歴史の交差する街で新鮮さもなければ確固たる信念もない、ただ漫然と死までの時間を過ごしているのではないかと俺は見知らぬ空を見上げて白い溜め息を吐いた。
「何をしても駄目なときってたまにあるけれどあれだそれ今だわ…」
時間はあるので神社の御朱印集めができるという情報を聞き、俺は中学生の時からの相棒である赤い自転車を転がしてみたのだが三社目で時間外になってしまい中途半端な結果となってしまって失意の中で早くも傾いた太陽に恨み節を吐いて帰宅の途についていた。
貴重な休みなのだから一日寝溜めするか思いっきり活動するとかあるんだろうが今からなにかやりたいこと…酒でも飲みに行きたいが連休というわけでもなし下手にアルコールが入ったまんま明日しゅう出来ないので深酒できない、知り合いもこっちには殆ど連絡付かない奴に急にこっち来いって言っても平日なので十中八九来れないだろし…「また一人で寝酒かね」
寒空を切る鳶には夜をともに過ごすものがいるのかともの悲しいさに浸る…気も何処かへ去った。
「冬の海なんて見てもしゃーないと思うんだけどな…」
まぁ、今日だけは水平線に沈み行く夕暮れを俺一人が独占出来るのであればそれもまた良いかね…?
流石にこの真冬と海側から来る風のある今日は地元の住民位しか知らないあの外れにある砂浜には誰もいないだろう、地元の住人の一部はその浜を磯女の浜と読んで近づこうとしないが、
文字通り黄昏時に黄昏るはうってつけの場所と時間帯だし冷えた体は熱燗を一本作って干物を肴に温まりそのまま早めに布団を被ってしまおう、それがいい。
完全な思いつきではあるがそのままアパートに戻るのも癪だったので
ゆっくり自転車を走らせて俺は浜辺へ向かった…
暫くして北風が塩を含む風に変わると水平線と砂浜の先で夕陽が空を焼いて青色を茜に変えていた、まだ日没までは時間がある…
人気のないこともさることながら穴場になっているこの浜辺へ足を運んだのはいつぶりだろう、最近は会社とアパートとの往復位しかしてなかったな…
「はぁぁ…洗われる様な汚い心を持っ
た覚えはないがなんとも良い風景だな」
砂浜の入り口に日没までの数十分を一人で過ごす、冬の海の持っている物悲しい雰囲気も相まってこの世の終わりを待っている気になるってのは映画の見すぎだな、特に洋画。
「青春の馬鹿野郎ー!ってそんな大きな声は出したくないわ、疲れるし」
何に対して断りをいれているのか自分にも分からないが省エネと言われる今の若者にありがちな疲れることは出来るだけしなくない、何にも労力と意識を割いて生きていたくないのは果たして俺だけなのだろうか。
根拠こそないものの、この歳になって人生経験なさと達成感のなさから来るこのからからになった自分の劣等感に虚無感は絶対に青春とかいう意味と意義の分からないまま突入した時期のせいにして俺は何かから泣いて逃げ出してしまいたくなる、
目の前に広がる海の雄大さが俺を感傷に浸らせ溺れさせていくなんてそんなわけないだろ、俺は通常運転で浜の砂を踏みしめていく…
吸い込まれそうな魅力のある落陽と夕焼けを滲ませて海色にしてしまう水平線、今俺はこの世に一人で生きている、あぁもういいか…別に俺がこの場から姿を消したとて困るのは実家の親位なもんだ。
正月に届いた地元の友人の年賀状に女友達だった奴と写ってその真ん中に見慣れない首も座ってねぇ乳幼児がおったってなんざ聞いてないし、何があったかなんて知りたくもないね!
あぁ、太陽にでも吠えてやろうかね負け犬の口上をさ!
俺は磯の臭いを感じながら冷ややかな空気で胸一杯に吸い込んで一気に全身全霊を持って…近所迷惑なんて考えずにカモメに届けようと腹に力を込めたその時だ、
…デ…コ…
「ゲッホゲホ!!グフッ!…む、噎せ…!?」
肺に吸い込んだ空気が何処かへ入る予定に無かった場所にでも入ったのか、それとも風に流れてきた空耳に驚いたのか、
突然その場で咳き込んで思ったより長く続くからまぁ、息が持たない。
軽く酸欠になりながらも1度呼吸を元の落ち着いたものに戻せたので一先ず助かった…
死ぬかと思った、普段ディスクワークが主だったしあまり声を出すことはしてこなかったが、だからって感情を吐露することすら許されないのか…
なんだこれ…笑えない、笑えないぞ。
風がおかしな方向へふらふらと俺の周辺を飛び交う、なんて俺がこんなことで悲観的にならなきゃならんのだ…
「はぁぁ…馬鹿みたいだな俺は…」
この先仕事だけを考えて暮らせていけなくも無い…望まず・挑まず・考えずに非活動的三原則なんてただの惰弱と衰退しか産み出さないのだろう、それは仕事からリタイアした際に俺に死よりも退屈で緩慢な余生を送らせる気か…
絵から飛び出してきたかの様に見ていて不安になるほど綺麗すぎる風景だ。
こんなことで落ち込む様な奴でも必要もなかったはずなのに今日は不自然に思考がひとつの方向へ鈍化して体に鉛でも仕込んだかのようで重くなっていく…このまま何処かへ沈んでいってしまう…そんな気がする。
って身体機能がいつの間にか落ちていて呼吸困難で死にかけるとか死神でも笑わねぇよそんな死因は…
コ…ヨ………デ……
ここに来て何を変なことを考えんだろと
不思議と口元が上がってクスクスとひとりでに不気味な笑いがこみ上げてさ、
乾きと諦めを謳って潤いを求める体は無意識に足が動いている、フラフラと何処へ向かうのか…
こんなな行動と考えは馬鹿げてる、と頭のなかでは分かっているのに体は神経を乗っ取られたかのよいか
「なんかもうこれはあれだ…駄目だこれ…」
サ…キ……ナ………イ…?
手放したい不満と不安を含んだが黒く霧となって溜まる…溜まる、
まとわりつき、引き剥がし、自分を構成する物質を溶かしてゆく…どろどろとした黒い液体、
男が疲労からきたのであろう貧血が引き起こした目眩と立ち眩みの中で濡れた黒髪を垂らした顔の無い女に手招きされていた。
あれが幻覚だろうと迷妄だろうと俺の脳が憐れにも錯乱した結果だろうと俺にとってはどうでもいい。
例えこれ自分が死ぬ前の脳内麻薬であったとしても気にするものか、これが頭の防衛機能なのだろう、前々から神経が参っていることに今更ながら気がついたが…
自分の足元に刺すような冷たさよりも胸一杯に突如堰を切った劣等感と悪寒に押し流されつつあってその感覚は彼にはもう届かない。
オイデ…オイデ…オイデヨ…クルシイノハ…イヤダロウ…?
ウタカタノユメ…ソコニハナイヨ…
不自然に霞がかった意識は風に流れてきた空耳に志向して男の歩みを受け入れる。
さながらセイレーンか磯女にでも誘惑され虜になってしまった餌は自分の無価値さに気づいてしまった。
考えることは疲れる。慰めるものもなくかといって他人のふりを下へ見下すだけの厚顔を持たず不安定さに安住して精神の負荷を切り離したが…憐れな機械のなり損ないは紅染まる逢魔時に仮生の手にかかる…
我々の生は所詮胡蝶の夢、醒めぬ夢など無いのに罪を重ね合わせて先へ先へ…美しい水平線の向こうへ…
「もしもし…お兄さん、一体そんなラフな格好で亀の背にのって竜宮城にでも行くつもりですか?」
若い女の子の声と肩を二・三度叩かれて遠退いて海中に沈んでいた意識が急激にに釣り上げられて浜へと戻って来て少しだけ間が空いたあとですっかり海に浸かっている自分のくるぶしから下の感覚が戻ってきて凍傷になりかねないものをかかえ慌てて海から離れた。
「だいじょ…うぶそうじゃないですね、何かあったんですか?」
心配そうに声をかける少女を他所に胸に溜まった寒気と頭にかかった靄を払うのとを同時にできず今しがた起こった出来事が全く理解できずに案外自分の頭の中で混乱が起きているらしく少女との応対にしどろもどろしてしまっていたがこれは決して俺が女の人との会話が苦手だとかそんなことでは決して無いのだ。
「あぁ、平気だが…すこし目眩がしてしまってどうにも貧血になったらしい、最近あまり運動の方を積極的にしていなかったから急に砂浜でランニングなんてしてみたら動悸やら目眩やらで意識保つの危うくなるわ…いや~助かりましたよ~」
なんてだいぶ心にもないこと言ったぞ俺、ついでに営業スマイルなんかしちゃってどう見たっておかしいだろうその言い訳…苦し紛れとはいっても流石にそれは…
「あ…」大丈夫だ俺はわかってる。
無事に変人扱いされるんだー畜生め、
「あ…そうなんですか? 昔とった杵柄を使って経験だけで行動すると体がついていかなくって痛い目にあうって父が言っていましたが腰は特に気をつけないと癖になるみたいですからね」
動機も収まってきたので少女の姿を確認しようと振り返るとそこには砂浜に似合わぬブーツに黒の暖かそうなPコートを羽織った、髪の少し短い子が俺の背後に立っていた、髪の色よりも気になったのはその瞳の色だ、髪の色も色素が薄く茶色がかってはいるが瞳の色なんて緑がかっているそれに俺は驚いたがそんなことは少しも気にしない様子で眠いのか表情はあまり豊かそうではないが、もしかしてそれは元々感情が現れにくいからなのだろうか。
「そうか、ぎっくり腰とかにはくれぐれも気を付けるとしよう」
存外普通に反応が返ってきたな、てっきり引かれるかと思うくらいわざとらしい反応をしたんだけど。
「まぁまぁ、それはこの際置いときまして…こんなことで夕凪に体を冷やされて体調を崩されては大変ですから近くの暖める場所とか洋服を買える場所に行きましょう」
自分の住んでいるアパートからここまでは10km無い位だがズボンの膝下まで海水の侵入を許してしまったこの状態で海辺を自転車で走ってみろ…明日の欠勤は確定申告になってしまいかねない。
「ええと、ありがとうそれじゃぁ…な?」
土地勘が未だに無いので遭難などしないように携帯でGoogle先生に頼りながら行くしかないね
「こんな時間に何をしていたのかはあんまり深く聞きませんけど…貴方因みにいくつですか?」「年齢? 聞いてどうするんですかそんなこと」「敬語を使い続けるか否かの基準として有効ではありませんか?」「…なるほど」
とは言え少女の恰好や雰囲気から察するにまだ二十歳にもなっていないのではないだろうか、それならば俺がよっぽど童顔なのか…?いやいや、そんなこと無いだろ、いくら疲れた若者が多くなっているとは言ったって無精髭引き下げた学生中々いないっだろ…
平日のこの時間に学校の制服も着ずに君こそ何をやっているんだと言いたくなったが自分の実年齢よりも少しだけ見栄を張りたくなるのは恐らく俺の歳くらいからだと思う。
「そうですかならば一応の敬意は込めましょう…ところでお名前は?」
一応ってなんだ一応って、さらりと個人情報を答えてしまいそうになって口を噤む。
何が目的でこの子は俺に名前とかその他諸々聞いてきたんだ?第一、この場所は地元の住民もあまり来ないって話じゃなかったのか?
「名前…教えてくださいますよね?」「俺の名前は寿限無」「冗談はそのやつれた顔位にしてください、もう少しで骸骨に見間違う位には顔色悪いんですから」
「し、初対面の目上の人にそこまで皮肉をいうのか…」「相手にされないので」
「ぐぬぬ…分かった。よしかわみなとだ、吉川南斗。どこにでもありそうな名前だろ?」
自虐しながら少女へ目線をやるとマフラーで半分隠れた口元が動いているようだが…何を呟いているかは全くの不明である。
「そうですか、でははたしも…私も名乗らなくては失礼になりますから…かさいなぎ、葛西凪です、あんまり周囲では聞かない貴重な名前ですね。
因みに学生ですけど自由制服の学校ですのでこんな格好なんですけどお兄さんは…
高等遊民ですか?」
葛西さんね、こんな湿気った三十手前のおっさん相手にしてないーでとっとと青春真っ盛りのラブコメして来なさいって、
「うん…?高等遊民て、それニートですよね葛西君?」
「そうですか?果たしてものごとは言い様ですよ吉川さん、撤退は転進に全滅は玉砕に美化されますから」
「ちっとも肯定的になってないなそれ、それに付け加えていっておくと案外と土日休日の休みの業種ってあんまりないから」
へー、そうなんですかと関心の無さそうな生返事か聞こえてこいつは俺を目上に見てないなという結果がはっきりした。
「一応これでも年収も同期の中じゃそこそこある方なんだぞ、預金もある」
大人の張れる意地なんて金位しかないんだぞ。
「人は持っているお金で判断できませんよ、見えにくくともその心で判断するべきです。」「至言だな」「金言ですよ」
おかしいな、俺はこんなにも話している相手に対して身構えずにいれたのかと疑問が浮かぶ。
最近仕事先でしか声を発することなかったし、同期や後輩との関係もあまり突っ込んだものではなくて淡白なものだったので自分の思う最低限の文言しか交わしていなかったというのに…ナゼだろう、あの緑色がかった不思議な目を見ていると自分の心を見透かされているような見通されているような気がして言葉があとからあとから紡ぎ出されてしまう。
「さて、急がないと風邪ひいてそうですので移動しましょうか」
くるりと踊り子のように回れ右をして葛西は溜め息を白く宙に浮かべて俺の愛車(赤い自転車)のとなりに止まっている水色のちょこんとした小さな自転車、そういえば葛西平均より少し背丈の高い俺に対してかなり身長差があるよな…まぁ、高校生なんてまだ子供だしな、態度とかまだま背伸びしたいお年頃なのだろう。
「そう…だな、葛西さんよろしく頼む」
「ではではご案内しまーす」
ダウナーなのかドライなのかこの子はよくわからないな…
何でもない一日が夕暮れとともに終わろうとしている、あのままもしかしてなんて事は考えたくは無いが、自分は今本来であるならば海底で横たわり、魚の餌にでもなっていたのではないかと考えるとどうも背筋が寒くなる。
寒くなるというか…足の感覚無くなってきてるんだがこれは…どうしたものか。
「私、この時間になるとあそこの海岸へよくいくんですよ」
海岸沿いの道を高校生と思われる少女と自転車で軽快に漕いでいく。
俺の愛車のライトは白熱灯のぼおっとした今にも消えそうで夕闇を照らせていないのに対して葛西号に至ってはLEDの白色電灯、なんとまぁ時代を感じてしまう
「ほう、それまたどうしてなんだい?
確か御近所さん達はあそこは妖怪の棲む海岸とか言ってだけど…」
妖怪というのはオーバーにしてもあの海岸で死亡事故が発生しやすいのは確かでなんでも海岸の形状として離岸流が発生しやすいのだとか…それを妖怪と言わん気持ちは分からないでもない、未知というものに対して興味と同時に尊敬と恐怖を持つのがさも人間らしい…
「ふっ…あの砂浜にいるのが妖怪なら吉川さんはさしずめ悪魔ですね」
なんで悪魔呼ばわりされるのかは深くは聞かないでおこう…
ゆらゆら交差する不規則な薄明かりと白色の無機質な光、夜の闇が冷たく舞い降りていくなかで時おり自動車が速度を上げて夕闇の静寂を切り裂いていく、
ポツポツと会話らしい会話を途切れさせながら安い量販店へ俺達は向かった。
「膝から下が控え目に言って感覚無いし凍傷とかしてる気がするんだが…これ大丈夫か?」
自転車降りるのにも一苦労だ、今は何ともない…凍傷とまではいかないがしもやけ位は出来てるだろうし…
「本当になんで真冬の海にサーファーなどでもない人が着の身着のまま入ってるんですか」
日頃点検をしているはずのわが愛車の足取りはかなり重い、
凍えて自分の両足は鈍くなっているのは確かにそうなのだが自転車の速度に比例する
電球のその明るさは行ったり来たりを繰り返す。
「意外と葛西さん話すのお好きなんですね」
自分の話、今の就職先とか学生時代のちょっとした友人とのばか騒ぎした話など…面白いのか面白くないのかは
分からないが葛西さんは適当な相槌を返してきたのを
「いいえ、あまり」「あ…え、そうなのか?」
「しかし人の経験というのは聞いていて自分に置き換えたり反面教師になったりしますから無駄にはなりません、
全てが傾聴するに値するかは微妙ですけど聞いていて面白いと思ったので貴方はアタリです」「アタリとは…?」
「はい、文字通りの意味ですよ?」
なんか調子が狂うというか不思議な子だな…
「それより足は大丈夫ですか」「それより…ね」「えぇ、それより大事なことですので」
それ、俺の今までの話は要らなかったってことでいいのか…トホホ
葛西さんは海岸側と背後を一度だけ確認すると信号待ちで交差点の前で停止する。
正直足取りが重くなってきていて彼女が走らせる自転車に追い付けなくなっていたが単に足がかじかんでいるだけ…だよな?
あの綺麗な海岸に戻りたいなんて俺はちっとも感じてなんかいない…多分
「本当に大丈夫ですね?周りに…何か…いえこれ以上は止めておきましょう。」
葛西さんは一体なんの心配をしているのだ?
自転車のスタンドを上げて店へ急ぎ適当な靴下とジーパンを購入しそのまま着替ることにした。
野口英世が二・三人旅立って思わぬ出資をしてしまったが背に腹は返られないからな…
「とほほ、休日だってのに散々な目にあったよ、明日も早いしちっとも休めてないわ…」
「それはそれ、これはこれですよ。
物事は切り替えと諦めと度合いが大事なんだ…!ってさっき言っていたじゃないですか?」
「まぁ、理論上の実際に実現可能かは結構シビアなところあるからね?」
連れてきてくれたお礼にと店舗外の自動販売機で温かい飲み物をおごる、
コーヒーを取り敢えず買って葛西さんに何が良いかと聞いてみると「」
「いや~なんというか…魔が差したんだよ」「…魔が差したというより「魔に差された」というのが案外正しいのかもしれませんよ…?」
葛西さんはまた変な言い回しをするなと思いながらすっかり暮れてしまった宵の闇を見上げて空が少し高くなった気がする。
なにやら言葉に出来ない閉塞感の迷路からはまだ出られそうに無いけれど少なくとも終点の位置を確認出来たので良しとしよう、
俺達は買い物袋に濡れた服を入れて試着室を利用して着替えて店を後にする、
「今日はなんだか付き合わせてしまったみたいですまなかったね葛西さん?」
人と仕事以外で話したのは久しぶりでしかも女の子というのはなんとも新鮮だがこんな非日常的な体験はこれでいいのだ、さっさと安い発泡酒でも煽ろう。
「あ…そうですね、それでは吉川さん…この辺で」
ここまでこんなおっさんに付き合わせてちゃってすまないねと帰りの方向を確かめながら葛西さんに声をかけて俺はちっとも心の動かす必要のない安穏とした通常営業へもどることしか考えていなかった。
「…え?いや…あの…」
これまで口籠ることなんて無かった葛西さんが何故か口から言葉が出なくなった、饒舌多弁ではないけれどこの子は多分言いたいことははっきり言うだろうが何か言いにくいことでも有るのだろうか…まさか社会の窓が!?
「よ、吉川さんの恰好が変だとかそういうことを言いたいんではないんです、ええっと…吉川さん…」
自転車から手を離して少女互いの距離を確かめる様に、自分の立場を確かめるように、少しずつ男に近づいていく、低く唸り声を上げる夜風が男の心拍を余計に駆り立てる、感情を少しづつ、少しづつ高鳴らせる…
「吉川さん、貴方は自分を見つめ直し自分を卑下して憐れみ、遠ざけ、憂うのは余り褒められたことではありませんからね、貴方を見ていると…なんだか不安になります。
どっか木枯らしに吹かれて飛んでいってしまいそう…というのは流石に冗談ですが!
私、おんなじ周期で動くので機械みたいとよく言われるんです。
もしかしたら…もしかしたら!来週もあの砂浜に立ち寄るかもしれません、お休みとかありましたら…その時はお願いしますね?」
俺の返事も聞かないままに葛西さんは一度だけ此方を向いて穏やかに微笑みを向けると急に恥ずかしくなったのかどうかは分からないけれど彼女の翡翠の瞳は宵闇へ残像を残しながら消えていった…
「…何だったんだろうか、今日の出来事は…?」
ポツンと冴えない男が一人、洋服の量販店の駐輪場に残された。
少しだけ遠出をしたばかりに折角の休日に午後から活動をしたらにわかに死にたくなり、奇行に走った末に女の子に救われて彼女にコーディネートされた服装でこんな場所に立っているなんて…
ここはどこのどの辺なんだろうかと携帯で確認したら海岸のさらに南で家から小一時間は確実に掛かる距離、正直足取りは軽くない。
「葛西…凪か…」
吐く息は白くすぐに夜に紛れてしまう、
さっきまでそこにいた自分より若い異性の姿はもうない。
久しぶりに煙草が欲しくなったのはなぜだろうか、買いにいこうとしてコンビニに寄ろうとも考えたが何時の間にやらスーパーにて自炊の準備をしているという不思議。
健康志向なぞしてどうなるんだというひねくれた悪魔の囁きを押し潰して適当に具材を集めて帰路へ着いた…
「しらかば~あおぞぉら、み~なぁみかか~ぜぇ」
かなり古い曲だがふと頭に浮かんだ曲を鼻唄を取り敢えず口ずさんでみる、
アパートの自室の鍵を開けて気の抜けた「ただいま~」の挨拶を久しぶりにした。
「夕飯は~水炊き~アヒルにあるのは~水掻き~」
余裕を持てる事を目指そうとするのはこの話には蛇足な気がするがもう少しだけお付き合い願おう、俺という諦めてばかりの人間が少しぐらいは何かを求めるようになっても…いいだろうか…。
何の気の無しに人は変わるものなのかと俺が後々思うきっかけになった物語。
因みに…
「あ…またこんなとこまで来たんですか…
ふふ、相当お暇な人とみましたが吉川さんつい高等遊民の仲間入りを果たしたんですか?」
ある曜日の黄昏時、絵画から飛び出してきたかの様な輝かしい夕日の前に人知れずの白浜で青年と少女が物語を紡ぎだしていた。
どこにもない、ここにしかない物語
この日常の続きはまた気の向いたらにするとすよう、それでは。
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