紅葉の島にて



「ほら、気をつけてな」

「ありがとうね」


 クロエは先を歩いていたソウジロウの手をとって、そっと船を降りる。この船はアトランティス本島と近くの小島を結ぶ定期船のひとつなのだ。


 天気は晴れ。風は控えめ。短いとはいえ、快適な船上だった。



 クロエたちの今日のデート場所は、この小島。

 アトランティス本島のすぐ近くにあり、もともとはダンジョンがいくつかあるということで開拓され発展したのだが、今では自然保護が進められていてちょっとした観光地となっている。

 ここの山に、今日は紅葉を見に来たのだ。


「結構山を歩くみたいだな。大丈夫か?」

「うん、問題ないよ。対策はしてあるもん」


 今日は山歩きということで、クロエはかかとが低めのブーツを履いてきている。それに加えて、スカートの裾は短め。もちろん、寒くないようにコートとストールもばっちりだ。今年父に作ってもらった秋コートは、腰のリボンが可愛くてとてもお気に入りだった。

 ソウジロウも、いつもと同じように自分で仕立てたのであろうグレーのスーツに、秋コート、それにいつも持っているステッキ。

 彼は今日も美人さんで、隣を歩くのがとてもうれしくてたまらない。



「ソウジロウ、今日も手袋してないんでしょ。手をつなごうよ」

「……あぁ、そうだな」

 そう呟いて彼がそっと差し出す手は、いつも少しひんやりとしている。

「いつもあったかい手だな、クロエは」

「ソウジロウの手は、ちょっとひんやりしてるよね。あんまり体冷やしたらいけないよ。ちゃんと体を温めるようなものを食べるんだよ」

「……わかってる」

 クロエのコートのポケットには、手袋が入っているけれど、これでいい。

 一人で手袋をするよりも、二人で手をつないで指先だけではなく心も温めるほうがずっといい。



「クロエはここに来たことがあるのか?」

「うん、小さい頃とか何度かね。お父さんの仕事の都合であまり遠くに出かけられない分、こういうところにはよく連れてきてもらったんだよね」

 そんな話をしながら、整備が行き届いた山道をどんどん登る。

 ゆるく傾斜はあるが、地面はかなり踏み固められていて石ころもほとんど見えない。あったとしても、それらは踏まれて道に埋まってしまっている。石畳の道よりよほど歩きやすいぐらいだ。


 道中の看板で道を確認し、また二人で山を登る。

 目的地はもうすぐのはず。


 周りをよく見ると、老夫婦や小さい子供を連れた家族連れ、それにクロエたちのような若いカップルも多い。

 みんな一様に、楽しそうな顔をしている。大切な人とともに、いい時間を送っているのだろう。



 と、紅葉する木々の向こうに、青くきらめくものが見えてきた。


 そう。そこが、今日の目的である『青の鏡』と呼ばれる湖なのだ。



「これは……凄いな。本当に青いぞ」

「でしょ」


 この小さな湖――――『青の鏡』は恐ろしく透明度が高い。そのために、湖の底に沈んだ倒木さえもはっきりと目視することができるのだ。だが、なぜこんなにも青く輝いているのかはいまだもって解明されていない。水底にはサファイアでできたダンジョンがあるからだ、なんて説も飛び出しているが、真相は不明である。


 燃えるような紅葉の木々に囲まれた、真っ青に輝く湖。

 鏡のような水面に映る、赤や黄色、そして緑がどこまでも美しい。

 時折、葉が落ちては小さな波紋を作って、ゆっくりと水底に沈んでいく。そんな様さえも、まるで絵画のようで。



「綺麗だな……」

「でしょ、ソウジロウと一緒に見たかったの」

 クロエがそう言うと、ソウジロウはきゅっと握る手にわずかに力を込めた。どうしてだろうか、妙に切なさを感じてしまうのは。


「あぁ、ありがとう。……アトランティス諸島には人の手が入って整備されている美しさもあれば、こういう自然の美しさも残っている。そこが俺は好きだ」

「そっか」


 そこで言葉を止めればよかったのかもしれない。だが、クロエはどうしても言わずにいられなかった。


「それじゃあ、ずっとこっちに住めばいいよ」


 彼の顔を見つめて、そう言うと……ソウジロウは一瞬びくりと動きを止めて、それからとても苦しそうに、呼吸に詰まっているかのような表情になって、うつむいてしまう。

「それは――その――だが――」


 短い呼吸の中から、彼は意味をなさない言葉をつぶやき続ける。


 ごめん、ソウジロウ。私はあなたを苦しめたかったわけじゃないの、ただ私は、ずっとあなたといられたらいいのにって言いたくて。それだけで。


 彼に言うべき言葉を頭の中で必死に探す。

 だけど、どれも適切じゃないような気がして、口に出せない。


「クロエ」

「……え」


 うつむいていた彼が顔を上げ、クロエの名を呼んだ。


「俺は、技術を学んでスメラミクニに持ち帰るために、アトランティスに来た」

「そっか」


 そっか、彼は――卒業後は、帰ってしまうのだ。


 その事実を噛みしめると、クロエの胸には大きな穴があいたかのような気持ちになる。ひゅうひゅうと穴を通る風さえも感じられるような。



「ちょっと寒いね。なにか温かいものでもお腹にいれてから、街に降りようよ。お店はそこらにいっぱい出てるから」

「そうだな」

 クロエはわざと明るくそう言って、彼の手を引っ張ってたくさんある山の茶屋の一つへと向かう。




 彼の足を引っ張りたくない。

 クロエが好きになったのは、一生懸命に学ぶ彼なのだから。

 だから――帰らないでなんて、そんなわがままでソウジロウを引き止める訳にはいかない。


 ただ、今だけは。

 彼はクロエの恋人……なのだ。



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