冬の朝・白いノート・おいわい
彼の朝と手紙
刀を 振るう。
ひたすら横に振るい、同じところで止める。
そしてまた刀を振るう。
いや、実際には蒼司郎は刀を握っていない。
そこに刀があるものとして構え、そして振るう。
存在せぬ刀が、初冬の朝の冷たい空気を切り裂いた。
……近所から奇異の目で見られていることは、蒼司郎だってとっくに知っている。
それどころか、おなじ下宿生からもいまだに物珍しがられる、特にリオルドだ。
下宿の女主人であるマダム・テレーズは特別気にしていないことだけが救いか。
「ふぅ……」
朝の鍛錬を終えて、汗を拭く。手ぬぐいとともに傍らに置いていた懐中時計は、朝食の時間の少し前を示していた。いつも通りだ。
「おはよう。今日もお疲れ様ですね、ソウジロウさん」
「おはようございます。マダム・テレーズ」
テーブルにはすでにフランス式の朝食が並んでいた。
軽くトーストしたバゲットに、バターと何種類かのジャム。卵料理と、ハムあるいはベーコンを焼いたもの。新鮮な野菜を盛り合わせたサラダ。フレッシュなチーズ。野菜を煮込んだスープ。それに今日はリンゴのタルトがついている。
ヨーロッパや合衆国ではどこも朝からこのぐらい食べるのかと思っていたが、そうでもないらしかった。こんなにしっかりと食べる国や地域ばかりでもないし、こんなにしっかりした食事が出る下宿ばかりでもないらしい。
いつも通りたっぷりの朝食を終えて、自分の部屋に戻る。
この部屋は下宿としてはそれなりに広く、それなりに良い部屋らしい。確かに、大きな窓があっていつも日の光が入るし、くすんだ水色と白の壁紙も嫌みが無い。家具は暗茶色の落ち着いたものでまとめられており、大きな机は勉強机としても作業机としても重宝していた。
そしてその机の上には竹製の一輪挿し花瓶があり、本棚にはシンプルな黒茶碗が小さな座布団に鎮座しており、壁には額に入った浮世絵が飾られている。
本当は西洋趣味でまとめたかったのだが、定期的に実家から送られてくる
リオルドはとても喜んでいるが、蒼司郎本人としてはちょっと納得がいかない。
手早く、クローゼットから取り出した制服に着替える。
いや……着替えるところまではいいのだ。問題はこの後にある。
「ネクタイ……」
アルストロメリア学園の一年生であるころを示す赤いネクタイを手に、蒼司郎はしばし心を無にする。
「……!」
ネクタイを首に掛ける。
交差させる。
くるりと、巻き付けて――
「……よし、今日はちゃんと出来たな」
小さな壁掛け鏡をのぞきこみ、ネクタイの結び目を調節する。
蒼司郎は、ネクタイが苦手なのだった。
故郷でもそれなりに洋装する機会はあったが、人に結ばせていたり、ループタイを使ったりしてすませていたのだ。
……学園に三年間通えば、ネクタイを結ぶことも慣れるんだろうか。
そんな事を考えながら、蒼司郎は
「あぁ、ソウジロウさん。ちょっと待って。これを」
玄関扉のノブに手をかけたちょうどその時、マダム・テレーズに呼び止められる。
「ソウジロウさんにお手紙が届いていましたよ。……本当は昨日届いていたのだけど、うちの女中の手違いで渡し忘れていたの。申し訳ないわね」
「いえ」
マダムから分厚い手紙を受け取り、そのままかばんにいれる。実家からのいつもの手紙だ。学園で読めば良いだろう。
アトランティス本島は、すっかり冬の空気だ。
雪こそめったに降らないそうだが、風が冷たくてコートや防寒具がなければとても外を歩けない。
蒼司郎の冬用コートは黒のトレンチコートだ。
皇御国でよく着ていたとんびコートというのも気に入っているのだが、学園の制服にはきっちりしたトレンチコートが最も合う、というのが蒼司郎の意見である。
それに、実家から送られてきた襟巻きを合わせている。名前の『蒼』に合わせてくれたようで、美しい瑠璃色のしっとりとした手触りの品。
あとは革の手袋でもあればいいのだろうが、指先が完全に自由にならないのがどうにも苦手で、あまり手袋はつけていない。
校舎へと続く、完全に葉を落とした木々が並ぶ道を歩いていると、足下をふわふわの白い毛玉――もとい白い猫がすばやく駆け抜けていく。
いつもこのあたりで見かけるが、あの白猫はどこに住んでいるのだろうか。もう冬だが、ちゃんと温かいねぐらにいるのだろうか。餌は足りているのだろうか。
最初の授業までは、まだ時間がある。
蒼司郎は校舎へ入らずに、中庭へ向かうことにした。
確か、中庭には東屋があり、そこにはベンチも備え付けられていたはずだ。
実家からの手紙を読むなら、人の多い校舎内よりは静かな外で読んだ方がいいだろう。
ベンチに腰掛け、かばんから先程の手紙を取り出す。
封筒は、手触り優しく懐かしい和紙でできていた。
何枚もの便箋を取り出して、ゆっくり読み始める。
最初は父から。次に母の書いた手紙。どちらも、蒼司郎が異国の地でちゃんとやっているか、体調は崩していないかといった内容。
それから、兄の手紙。真面目さと几帳面さが感じられる四角い文字で、きちんと学んでくるように、遊んでばかりいないように、などと書かれている。
最後に、年の離れた妹からの手紙だ。蒼司郎が家を離れるときには泣きじゃくっていた、まだ小さな妹。
どうやらずいぶんと文字が上達したようで、彼女からの手紙が一番分厚い。
新しくお付きとなった女中から、たくさん歌や詩を教えてもらっているという。
その中には、蒼司郎が『彼女』に教えた詩もある。
……『彼女』はとても頭が良くて、すぐにいろんな詩を覚えた。そして、蒼司郎が教えた詩をよく暗唱していた。
「……あいつ、元気にしてるんだな」
「誰のこと?」
「!!」
その声に、蒼司郎はベンチからすぐさま距離を取り――
「……な、なんか、ごめん……のぞくつもりじゃなかったんだけど、つい」
緑色のおさげ髪、緑色の瞳、ミルクのような白い肌。アルストロメリアの女子制服。
「クロエか。おどかさないでくれ。……これだけ気配を消せるのもたいしたものだな」
「ごめん、ほんとごめんね。ソウジロウが中庭に来るのがみえたから、ちょっとびっくりさせたくなっちゃって……それで、あいつっていうのは、向こうでの友達?」
「……まさか俺、英語で独り言を言ってたのか」
蒼司郎は軽く頭を抱えた。もしかして卒業までこちらにいたら、皇御国の言葉を忘れているのではなかろうか。
「……まぁ、あいつは友達というか……遊び相手を兼ねたお付きの女中だな」
蒼司郎は、ひとつひとつ順番に思い出すように語る。
「あいつは俺と同じ年でな。よくいろんなところに引っ張り回してた。よくあいつにドレスを――
「ふぅん」
クロエが、なめらかな動きでベンチに座る。
「お付きの女中さんがいたってことは、ソウジロウの家はもしかしてお金持ちなの?」
「まぁ、一応。ヨーロッパでいうところの爵位持ち貴族ということになる」
「そうなんだ」
自分から聞いたのに、クロエは興味なさそうにそう呟いて、ベンチから立ち上がりどこかに行ってしまった。
「……やっぱり、変なやつだな」
蒼司郎はその言葉は、冬の澄んだ空に溶けて消えた。
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