第26話 麻酔のツボがあればよかったな
「麻酔のツボがあればよかったな」
朝、
……どういう意味ですか、と赤くなった葉名の手の
「だが、お前のその往生際の悪いところも嫌いじゃない」
と言って、葉名の手の甲に唇を寄せてきた。
ひーっ。
やめてください、そういうのっ。
照れるではないですかっ、とうつむく葉名を准は抱き寄せる。
准の声が耳許で聞こえてきた。
「さっき、目を覚ましてから、お前の両親のことを考えてたんだ。
長年連れ添ってれば、いろいろあるよな、夫婦って」
と言ったあとで、そりゃそうだよな、と准は言う。
「恋人として、付き合ってるだけなら、いつか飽きたり揉めたりして別れたりするのに。
夫婦になったら、基本、死ぬまで、ずっと一緒にいるわけだからな。
だから――
なにかあって当たり前だと思って、俺たちは頑張ろう」
葉名を抱いたまま、目を閉じ、准は言ってくる。
こんな日が来るなんて思わなかったなー、と葉名は、ぼんやり思っていた。
社長に笑いながら、ソリを押されて、突き落とされたときには……。
ふいに准は葉名の顎に手をかけ、視線を合わせようとした。
「はっ、恥ずかしいので、やめてくださいっ」
と葉名が目をそらし言うと、
「どうした。
俺の顔が見られないのか。
……まさか、もう、なにかやましいことがあるとか?」
と今、おのれが言った、夫婦なら、いつかなにかがあって当たり前、という言葉の罠におのれがはまってうろたえる。
「いや、昨日の夜からずっと一緒でしたよね……」
と呆れたように言いながらも、実はちょっとぎくりとしていた。
そうだ。
まだ、あれを捨ててない、と気がついたからだ。
寝室を出た准は、
「そうだ。
昨日、引き出しの中、ぶちまけたままだったな」
とあちこちに鉛筆が転がったリビングの惨状を見て言う。
「でも、結構捨てましたよ」
と言うと、
「じゃあ、残りを缶にでも入れて、しまっとけ」
と言われたので、そういえば、最近流行りの工具入れみたいなお洒落な缶ケースがあったな、とパントリーを探す。
後ろから覗いた准が、
「お、そういや、此処に毛布があったな。
ちょっと寒かったんだよな」
とパントリーにあった毛布を引っ張ると、なにかがぱたり、と落ちてきた。
げっ、と葉名は固まる。
例の交換日記だ。
カゴの向こうに落としたつもりが、転がって、毛布の上に載っていたようだ。
「あっ、お前っ。
捨てたんじゃなかったのかっ。
さては、他のゴミも捨てられなくて、何処かに隠してるんじゃないのか?」
と言いながら、准はパラパラとそれをめくる。
ひいっ、と葉名が固まったとき、准の手が止まった。
「……女子、男に点数つけるなよ」
「す、すみません」
誰が格好いいとか、美奈ちゃんたちが点数をつけていたのだ。
「お、俺は百点じゃないか」
と気を良くした社長だったが、次のページをめくり、
「……『社長なんて、かわいいだけじゃん』」
その視線が少し上を見た。
上の方に、そのページを書いた人物の名前が載っているからだ。
「きりしま はな……」
そうっと逃げようとしたとき、准があのときと同じような笑顔で自分を呼んだ。
「葉名、ちょっと来い」
そう手招きする。
ソリを押したときと同じ、あの笑顔で――。
たたたたたたられました、交換日記にも。
「捨てときゃよかったと思わないか? そんなもの」
と准は朝の商店街で誠二に愚痴る。
「こいつ、生意気にも、俺に向かって、可愛いだけじゃんとか言いやがったんだぞ」
言ってません。
書いただけです……と思いながらも、
「申し訳ございません」
と葉名は今日何度目かの謝罪をした。
「大丈夫です。
今は可愛くないですよ」
と言って、
「……いや、余計悪いだろ、それ」
と言われてしまったが。
この商店街に、早朝から開いているパン屋さんがあると聞いていたので、焼きたてパンを買いに来たら、もうお花屋さんも開いていたのだ。
「っていうか、パントリーに毛布があるところから間違ってるよねー」
と店の前を掃いていた誠二が言う。
「そういえば、うちの親に聞いたんだけどさ。
大じいじが妙なこと言ってるらしいよ」
と言って、誠二は例の金印の話をしてきた。
「何処にあるんだろうね、その金印」
と言う誠二に、准は、莫迦だな、と言う。
「ほんとにそんなもので決めるわけないだろうが。
っていうか、今までコツコツ社長業をやってきたのに、そんな阿呆なことで、跡継ぎが決まってたまるか」
ま、そりゃそうだよなー、と思いながら、葉名は小さな木の椅子の上に並べられ、百四十円で売られている小さな観葉植物を見た。
ハートの形の葉っぱが可愛い。
「あ、それ、クワズイモだよ。
可愛いでしょ。
生きた加湿器とも言われているから、乾燥した季節には持ってこいだよ。
それ、まだ小さいけど、あっという間に成長するよ。
だから、別名、出世イモって言われて――」
と言いかけ、誠二は准を見て、葉名を見た。
「准と別れたら売ってあげるよ」
……どんな花屋だ。
ああでも、と葉名は足許の青いバケツに入った榊を見ながら言った。
「運気を上げるなら、こういうのの方が、すぐ効きそうですよね」
「いや、それは、またなにか違わない?」
と苦笑いして、誠二が言う。
まあ、確かに。
榊で祓ったら、この人自体が消えてなくなりそうだが……。
「ほら、葉名。
早く戻って食べないと遅れるだろ」
と言いながら、准は、さっさと歩き出す。
が、開店の準備をしているお肉屋さんに呼び止められ、結局、足を止めて話していた。
その横顔を見ながら誠二に言う。
「ありがとうございます。
社長に、金印の話してくださって」
わざわざ敵にそんなこと教える必要もなかったのに。
「いや、大じいじの
僕だけが知ってて黙ってるって気持ち悪いじゃない」
と言う誠二に笑う。
「……いい人ですね、誠二さん」
「いい人にはなりたくないんだけどね」
と言い、誠二は眉をひそめた。
「あれ?
いい人になって、運気を上げるんじゃなかったんですか?」
と葉名が訊くと、
「でもさ。
女の子は悪い男が好きじゃない。
葉名さんも結局、あいつに引っかかっちゃったでしょ」
と言って、誠二は肉屋のおじさんと笑って話している准を見る。
いや、引っかかったとか……
そういうわけではないんですけどね、と思いながら、葉名は赤くなり、うつむいた。
お昼休み、葉名はいつものように小会議室で食べたあと、行こうと思っていたところがあったのだが――。
今日は敦子の同期も同席していて、香港旅行で買ったとかいう指輪を敦子に見せていた。
「可愛い。
はめてみていい?」
と言う敦子に、彼女は、いいよー、と軽く返事をしていた。
「彼氏からのだったら、絶対、はめさせないけどね」
彼氏、という言葉に、涼子が熱い瞳でこちらを見てくる。
いや、そのまなざしは葉名ではなく、葉名の兄に向けられているものだったが。
『おにいさまによろしくね、葉名』
と今朝も会うなり言われてしまった。
おにいちゃんめ、と思った葉名は気づいた敦子は、図書室で借りてきた雑誌を広げ、そこに出ているお店の話を笑いながら、みんなとしていたが、その手許が怪しく動いている。
顔は微笑んでいる敦子に向かい、葉名は、ぽそりと言った。
「……はずれなくなりましたね」
敦子がぎくりとした顔をする。
友だちの指輪をはめたまま、抜けなくなったようだ。
「ツボを押してあげます」
と言うと、はあ? という顔を全員がした。
いや、今、このツボ押すと、余計なこと思い出しそうなんですけどね、とひとり赤くなりながら、押してみたが、外れなかったので、裁縫道具から糸を取り出し、あのときのように指に巻いてみた。
「あっ、すごい、取れたわっ。
ありがとう、葉名っ」
とか、
「すごいじゃないの、桐島。
こんなワザ知ってたなんてっ」
とみんなに言われて、いやあ、と照れた葉名は、
「この間、社長にこれで指輪とってもらったんで」
とうっかり言って、
「……あんた、社長になにさせてんの?」
と言われてしまった。
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