第3話
開けておいた図書室の窓から深夜の学校に忍び込むのは、ちょっとした恐怖だった。乙茂内もキツネさんも百目鬼先輩もいるが、百目鬼先輩は正直驚かしてくる方だろうから、その後ろをてってけと美術室に向かって歩く。
そこには明かりがついていた。
「時間を掛けたってない物は描けないものよ、ナルコレプシーちゃん」
びくんっと肩を揺らし、椅子が引きずられる音が響く。
ぼんやりとクロッキー帳に向かっていたのは、鳴子先輩だった。
夜に忍び込んで絵をかいていたから、あのクマなのか。なんとなく適当に納得する。
「なっ……あんた達、昼間のッ」
「探偵部と呼んでくれて構わなくてよ。まあ、そう知名度のある部ではないけれど」
「何を、何でこんなところにっ」
「貴女と同じ理由よ、それは」
「私は――」
「絵が描きたいんでしょう?」
鳴子先輩は芯の太い鉛筆をぎゅっと握る。
「あなたは花瓶を題材に絵を描いていた。繊細な花柄は自分の技術向上に大いに向いていた。くる日もくる日も書き続けていたのは、耳目ちゃんのネットワークで調べがついているわ。何かにとりつかれたように花を描き込んでいる。進学志望は、美大なんですってね。だから自分の技術をどうしても鍛えたかった。そのためには学校に泊まり込むこともあった。ねえ、ナルコレプシーちゃん」
「う、あ」
「だけど花瓶がその角度を変えたことで、すべては台無しになってしまった」
はっ、と乙茂内が息を吸う音が響く。
花瓶を取って台を吹いた。
それが、彼女の芸術には許しがたいことだったんだろう。
「怒り任せに花瓶を叩き割ったところで、クロッキーは完成しない。本当。もうちょっとだったのに、そこは同情するわ。でもね」
キツネさんはゆっくりと歩く。
鳴子先輩は椅子を引いて立ち上がり、逃げるように後退する。
だけどキツネさんの狙いは、クロッキーの方だった。
あの鋭い爪が、ページを剥ぎ取り、破いて行く。
俺達は全員、それを見ているだけだ。
鳴子先輩ですら呆然としている。
乙茂内が俺の陰に隠れた。
びりびり言う重い紙の音が、怖かったのかもしれない。
「諦めは肝心よ、ナルコレプシーちゃん」
キツネさんはにっこりと笑って紙片をばら撒き、その光る爪で鳴子先輩の顎を取った。
「次のページには次の絵が待っている。なんならあの台でも描けば良いわ。ささくれた個所とフラットな面、描き分けの練習にはうってつけでしょう?」
「あ、ああああああああ、あんた、何てこと、あんた、あああああと少しだったのに、あと少しで私の『芸術』は完成するはずだったのにッ!」
「あら、芸術に完成はなくってよ、ナルコレプシーちゃん」
くすくす笑いながら、キツネさんは言う。
「美大に入ってもクロッキー一枚で錯乱するような子は付いていけなくってよ。あなたはただ絵を描き続けられればそれで良いと思ったのかもしれないけれど、その後の事は考えていない。芸術家のハンプティ・ダンプティなんてごろごろしているわ。彼らを支えるのは矜持。メンタル。満足しないこと。貴女には何があるのかしら」
「あああああああああ」
「何にもないなら、進学先を変えた方が良くってよ。でなければ中身の腐った卵になるだけだもの」
キツネさんは俺達の元に、ゆったり歩きながら戻って来る。
その後ろを。
キャンパスを振り上げた鳴子先輩が、狙った。
俺は急いでキツネさんの手を引っ張り、美術室から出させる。それから入れ替わるようにキャンパスの前に出て、少し足を崩し、鳴子先輩の膝を思いっきり蹴った。皿まで割れたって良いだろう、彼女の芸術に足はいらない。
「ぎゃあああああああああ!」
こちとら中学まではサッカー部だったんだ、その蹴りは大分強烈だっただろう。膝を抑えて悶絶している鳴子先輩の手から落ちたキャンパスががしゃんっと音を立てる。キツネさんをどうにかしたって花瓶も絵も戻らないって言うのに、怒りはキツネさんに向かった。多分八つ当たりだ。絵を破られたことが彼女の沸点を超えさせたのだろう。ただでさえ苛立った原因が、違っても。
乙茂内は俺の腕に縋りつく。言えないだろう、自分が動機だったなんて。キツネさんも百目鬼も、それについては触れない。公然の秘密だ。探偵部に限り。
「皿は割れていないわね、ただ痛いだけ。哮太君は中々怖いのねぇ」
「怖いもの知らずのキツネさんに言われても説得力ないです」
「あらあら、私だって怖いものはあるわよ?」
「あるんですか?」
「私は私以外、すべてが怖い」
ぺろっと尖った爪を舐めて、キツネさんは冗談のように、韜晦するように、にっこりと笑ってそう言った。
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