君が知らないこの町で -2
「あれ?」
最初に気づいたのは、おさげだった。
「ねぇ、雨が降っていないよ」
そういえば、雨音がしない。蝙蝠傘から空を仰ぐ。分厚い鼠色の雲が今日も空を占領していた。だが、顔に雨は当たらない。
「本当だ。降っていない」
赤毛が水たまりを指した。波紋がない静かな水たまりに、ボクたち「けんしょうごっこ隊」は顔を見合わせた。
「あめの魔法がかかっているのは、まち。そとがちかいから、まほうは、うすれる」
だから、ここでは雨が降っていない。彼女の説明に納得してから、魔法人形は魔法の雨が降っているから動けることを思い出した。雨が止めば、彼女はただの人形になる。けれど、彼女は普段通り。変わった様子はない。ボクたち三人について来ている。
こちらの視線に気づいたのか、彼女は屈み、ボクにだけ聞こえる声で囁いた。
「まちの魔法はとけていない。だから、ここにきてもワタシはうごける」
「そうなんだ」
「少年は、やさしいんだな」
素っ気なく返したのに、どうしてそんなことを言ってくるのだろう。ちらりと一瞥した彼女は口元を綻ばせていた。目を疑った。頬が一気に熱くなった。
「少年は、たのしいか」
「急に、なに」
「あのこどもたちといっしょにいる少年は、たのしそうに、みえる」
彼女はボクの何が知りたいのだろう。怪訝に思ったが、動揺のほうが強かった。柄にもなく本音が零れる。
「……楽しいさ」
だから、一緒にいるんだよ。
ボクは傘の柄を強く握りしめた。
「おさげちゃん、問題です。雨が降っていないってことは?」
「傘を閉じてもいい!」
水たまりの前で会話をしていた赤毛とおさげが、青色と黄色の傘を同時に閉じた。二人は笑いだし、駆けだした。
「すごい、すごいよ! 雨が降ってない!」
「すげぇ! 走っても濡れない!」
からからと二人の笑い声が響く。そうだ。二人の言う通り、雨が降っていなければ傘を差す必要はない。当たり前の話が彼らにとっては当たり前ではない。雨降り町にいる限り、ずっと雨に捕らわれ続ける。
ずいぶん前に、おさげはこの町が好きだと言った。でも、このまま雨が降り続ければ沈む日が来るだろう。おさげも赤毛と同じように、町を出ていかなければならなくなる。「けんしょうごっこ」の思い出が水の底に沈むのだ。
子どもはいずれ大人になる。
赤毛はボクよりさらに背が高くなる。同じ身長のおさげも、ボクを追い越すのだ。
ボクは彼らと同じ時間を共有できない。
だって、ボクは。
人では、ないのだから。
「ムギ君、お姉さん!」
おさげが手を振る。
「早くしないとおいていくぞ!」
赤毛がボクたちを呼ぶ。
おさげの姉が残した「あめふりまちのひみつ」のノートには、記されていない点があった。
あれらの姿は人の目には見えないが、人を食べることで食べた人間の体を得られる。
体を得たあれらは、晴れの日以外はその体を保てる。
ただし、あくまでも仮初め。成長はできない。
そして、この世界の住民ではないからバスの運転手のような同類の存在を見分けられる。
ボクは、この町に紛れ込んだ異質な存在だ。
「妖精」と呼ばれる、化け物だ。
「転んだって知らないぞ!」
肩を竦めてから、大声で注意した。
ボクは、ここにいたかった。
遊びたかっただけなんだ。
「お姉さんも、行こう」
でも、わかっている。
ボクは帰らなくてはいけない。彼女がただの人形に戻りたいと望むように、在るべき場所に戻るべきなのだろう。
「少年」
「何?」
「少年は、ほんとうに、魔法をときたいか」
何を今更、尋ねてくるんだろう。昨夜、答えたじゃないか。魔法を解きたいと望む彼女に同意したじゃないか。
隠し事をしている彼女に、意地悪な質問をした。
「ねぇ、魔法が解けたらどうなると思う?」
「あめがやんで、はれる」
「お姉さんは?」
「人形になる」
「ボクは?」
彼女は答えなかった。いや、答えられなかった。
異質な存在が同類を見分けられるのなら、彼女だって薄々気づいているのだろう。
「少年」
「お姉さん。ボクは「ボク」だよ」
なんて浅はかで脆い答えなのだろう。
彼女は先程のように笑ってはくれなかった。
※ ※ ※
あの子は湖に落ちてきた。
捨てられた町が沈む湖の底へぶくぶくと気泡を吐きながら落ちてきた。薄い青色の膜がかかった水の世界で、廃墟となった町に少年が降ってきたのだ。時々、遺体が降ってくることはあったが、あのとき、あの子はまだ生きていた。
人には姿が見えないただの妖精だったボクは、突然の子どもの来訪に呆気にとられ、湖の底から見上げていた。
ボクは、いつからここにいるのだろう。
魔法の雨が原因で、人と妖精の世界の境界線が曖昧になった。それが原因なのかわからないが、気づいたら湖の畔にいた。
ひとりはつまらない。子どもの輪に交じって遊ぶうちに、ボクも自分の町が欲しくなった。
ひとりはさみしい。湖の底に捨てられた町に住み着き、子どもと遊べない時間は人の真似事をして遊んだ。ガラクタ山に行き、捨てられたものを湖に持ち込んで自分の部屋を作ってみた。
仲間はいた。いや、同類はいた。ボクのように雨降り町にこっそり紛れ込んでいた。妖精の世界には色々な奴らがいる。たいていの奴らは意思の疎通が図れなかった。同類であっても「妖精」ではない。人とは違う異質な存在。それだけが同じだった。同類は増えたり減ったりして一定数はいた。自分の世界の帰り方を知っていたのかもしれないし、ボクのように忘れたのかもしれない。人を巻き込む奴もいたが、巻き込まれていないのに魔法のせいにする人もいた。
あの子の手には懐中時計があった。水上からあの子を必死に呼ぶ声が聞こえた。おそらく父親だ。
ボクはあの子を知っていた。
何度か輪に交じって遊んだ覚えがある。いつもにこにこ笑って、自分の意見を言わない子どもだった。そして、時々忘れられていた。かくれんぼは見つからずにおいていかれていた。鬼ごっこは誰も追いかけてくれなかった。ボクみたいに透明じゃないのに存在感が薄い子だった。「顔が可愛いから」という理由で誘われて、誰もあの子を知ろうとはしなかった。
水上からくぐもって聞こえる父親の声が、途中から懺悔になっていた。こんなはずじゃなかった。許してくれと。なぜ謝っているのだろう。ただでさえ、生きている子どもが落ちてきて湖の中が騒がしいのに。そんなに叫んだら皆が驚くじゃないか。眠っているあいつらが起きてしまう。
ところで、あの子は何をしているのだろう。どうして沈んでいるのだろう。死体ごっこかなと思ったとき、ふと、気づいた。
あぁ、そうだ。人は水中では生きられない。
あの子は、死ぬ。
ボクはあの子に近づいた。掴もうとした手は、体をすり抜けてしまう。物は掴めても人には触れられない存在だ。
子どもは水をたくさん飲み込んでいた。落ちてくる遺体と同じ顔になってきている。
「どうしてここにいるの」
どうせ聞こえやしない。返事なんていつものように返ってこないと思いながら、話しかけていた。
「おかあさん……」
子どもの口が動いた。
虚ろな青の目は、ここにはいない別人を見ていた。
懐中時計があの子の手から離れる。咄嗟に掴み、聞こえない透明な声で問いかけた。
「ねぇ、君は死んでしまうの?」
答えはわかっているのに、なぜか聞きたくなった。あの子は死ぬ。人は死ぬ。体が人形のように動かなくなって、やがて腐っていく。腐る前に湖に捨てられ、ホタル魚が食べてしまう。
この子も、ホタル魚に食べられる。
だめだよ。
そんなの、寂しいじゃないか。
ボクは、また君と遊びたいのに。
「死ぬな。死んだらだめだ!」
落ちていくあの子にいくら声をかけても声は届かない。妖精だから助けられない。
あの子の意識が途切れる寸前、ボクは確かに目が合った。
「お母さんを、一人にしないであげて」
水上から聞こえる懺悔はやがて涙声になった。やめろよ。騒ぐなよ。眠っているあいつらが、ホタル魚が、起きてしまうじゃないか。
それで、この子の望みはどうなるのだろう。
かくれんぼでおいていかれるだけじゃない。遺体はホタル魚に食べられて、人の記憶から薄れて、捨てられた町のように、ボクみたいに「いるのにいない」存在になってしまうのだろうか。
だったら、せめて。
ボクがこの子を覚えてあげよう。
「その願い叶えてあげるよ」
ボクは神様じゃない。
人から見れば異質な存在だ。
だけど、その存在は子ども好きで。
食べた子どもの姿になる妖精だ。
君が母親を一人にしないでと望むなら。
君の体を得て、君に成り代わるよ。
この町の魔法の雨が、許す限り。
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