ラウン・ボルゾー編『人造ペシミズム』

#1

 三枝トオルが冷たいベッドから這い出たとき、狭い窓から見える太陽は雲に隠れていた。彼は時計を確認し、床の上に転がる缶ビールのむくろに小さく舌打ちをする。


「頭痛てぇ……」


 昨日の記憶がないが、忘れたいだけだろう。中古のブラウン管テレビは青い画面を写し続け、『劇団アルカトピア』というテープの貼られた小さなビデオカメラがテレビ台に堂々と鎮座する。トオルはその光景に顔をしかめながら、胃のあたりから湧き上がってくる嫌悪感を便器に吐き戻した。

 時計の針は五時を指していた。午前か、午後か、ふと彼はそれを気にしたが、すぐに思い直した。そんなこと、どうだって良いじゃないか。どちらにしろ今日の練習はないのだから。

 ワンルームの穴蔵に潜む猛獣は、心の奥に怠惰を飼っていたのである。


 電話の音は、彼のもやのかかった意識を現実に振り戻すには十分すぎる音量だった。トオルは欠伸あくびを噛み殺すと、受話器の前で何回か発声練習をする。


「もしもし?」

『もしもし、三枝?』

「あー、おー……。久しぶりだな……」


 電話の向こうの声は、トオルに強烈なノスタルジーを感じさせた。十数年前から変わらない友人の声が緩やかだった青春をフラッシュバックさせ、彼の口元を少し綻ばせる。


『お前さ、今何やってんの?』

「俺? 劇団員……」

『劇団員!? あー、お前昔から俳優やりたいって言ってたもんな! いやー、凄いな……。俺なんて、しがないサラリーマンだぜ?』


 いったい何が凄いのだろう。トオルは、旧友の言葉と無造作に転がった缶ビールを交互に見比べる。


『いや、その歳で夢追える奴ってホント凄いよ! 収入は……あっ、お前んとこの親御さん金持ってたもんな。まったく、俺もお前みたいになりたいよ〜! 夢追い続けてぇよ!』


 その声は、素直なリスペクトの中に潜む微かな悪意を浮かび上がらせた。ミルクにタバスコを一滴落としたような悪意のスパイスは、トオルの内蔵にするりと染み込み、気分を落ち込ませる。

 夢を追いかけてるんじゃなく、現実から逃げてるんだよ。彼はその言葉をぐっと飲み込み、会話を続ける。


『でも、そろそろ自分で金稼いだらどうだ? いい稼ぎ先があるんだよ。俺の知り合いの求人情報マニアに聞いたんだけど……』


 旧友の言葉に促されるまま、彼は耳に入った情報を脳内で反復した。


    *    *    *


 電車とバスを乗り継ぎ、どれだけ歩いただろう。モータリゼーションの波に乗ったついでに舗装された郊外の歩道を歩けば、視界は中心部の喧騒とは程遠いのどかな街並みに変わっていく。土地代は安そうだが、ベッドタウンとしての利便性はそこまでなさそうな町だ。それを考慮しても、そこのはずれにある大きな屋敷は、彼の想像を優に超える費用がかかっているだろう。


「マジで幽霊屋敷って感じだな……」


 伸び放題の芝生や葉の全て落ちた柳、カーテンによって夕陽さえも遮られた外観を観ると、近所の人に道を尋ねた時の怪訝な顔の意味もなんとなく理解出来た。


「大丈夫かよ……。廃墟とかじゃなきゃいいけど……」


 彼は買ったばかりのリクルートスーツのネクタイを締め直し、獅子の装飾が施されたドアに近づく。そして、意を決して、力の限りドアノッカーを叩いた。


「成程。君が昨日の電話の相手か」

「はい! 三枝さえぐさトオルと申します。今日はよろしくお願いします!」


 開け放したドアの向こうから応対した長身の男は、トオルがアポ取りの電話をした時と同じような事務的な早口で彼を迎える。

 継ぎ接ぎだらけの白衣を着崩した男だ。鷲鼻の陰に鎮座する瞳は、往年の映画スターを想起させる。年齢を重ねているが、端正な顔だ。


「挨拶はいらない。無駄なことは嫌いなんだ……」


 燃え盛る燭台が取り囲まれるように配置されたエントランスを通過し、彼らは正面の階段脇にある応接室に入る。


「さて、面接を始めようか」


 トオルの眼前で椅子に腰掛ける男は、玄関先でアルベルト・ボルゾーと名乗った。白髪混じりの金髪を一つに束ね、眉間に皺を寄せながら手元の履歴書を確認している。


「君は、なぜここに来たんだい?」

「はい、友人の紹介で……」

「過程を聞いてるんじゃないんだよ。目的は何かな?」

「すいません。住み込みで高い給料が払われると聞きまして……」


 トオルは焦っていた。狼狽していた、そう言い換えてもいいかもしれない。彼の人生に面接は無縁のものであったし、準備もほとんどしてこなかったのだ。新品のワイシャツに汗が滲む。


「……車の免許などは?」

「持ってますけど、ペーパードライバーでして……」

「そうか。……君は夢を持っているかい?」

「はい?」

「夢だよ。野望とか、欲望とか、そういう物だ……」

「夢ですか……。一応、『俳優になりたい』と志してまして、劇団員をやっていました」

「一応、ね……」


 ボルゾー氏はさらに眉根を寄せた。なんだろう、何か不手際をやらかしてしまったのかな。トオルの鼓動が速くなる。


「因みに、何をやっていたんだ?」

「『ラ・マンチャの男』をやらせて頂いてました。台詞なんて一言しかない端役でしたけど……」

「……なるほど」


 履歴書が裏返された。ボルゾー氏は大きく息を吐くと、唐突な質問を投げる。


「君、私の肩に乗っているものが何かわかるかい?」

「えっ、あっ、えっ……? 何も見えませんけど……」


 彼は目を凝らし、面接官の肩を見つめる。何も見えない。目を瞬き、もう一度注視しても、視界に変化はない。彼は透視能力の診断に使うESPカードを思い出した。


「見えないか……。素質なし、と」


 そう呟く男の表情を見て、トオルは顔をしかめる。何か下手を打ったのだろうか。

 既に緊張はピークに達し、発した言葉が幻聴のように部屋の隅から聞こえだす始末だ。相手の反応も芳しくなければ、採用される自信もない。今はただ、すぐにこの場から離れたいという思いが彼の心臓を縮める。


「これが最後の質問になる。ある思考実験をしてもらいたいんだ」

「思考実験……」


 ボルゾー氏はそう言うと、床に置いたかばんをごそごそと探った。


「ここに、200万の札束と自動小銃がある。装填されている弾丸は一発だけだ」


 インクの匂いが部屋に充満した。二つの札束の上に無造作に置かれた銃は、その身にトオルの青い顔を映している。


「例えば、『これをすべて使い切って最大多数を幸福にしろ』と私が言ったとする。君なら、どうする?」


 今のトオルは何も考えられない状態にある。頭が真っ白になる、という陳腐な表現がそのまま当てはまってしまうほどに、彼は余裕をなくしていた。


「この質問をされた聖人は、『銃を売り、その金と200万を寄付する』と答えた。だが、売られた銃は人殺しに使われるだろう。それに、たったこれだけの金で何人を幸福にできる?」


 トオルは答えない。否、答えることができない。


「ある悪党は、『銃を片手に金持ちを襲い、得た金を一晩で使う』と答えた。経済を回してやるんだ、と言っていた。今の奴は強盗殺人で服役しているよ。さぁ、君はどうする?」


 彼は真っ白になった頭で思考を巡らせ続ける。意図のわからない質問に、最適な回答などあるはずがない。それをわかっているはずなのに、彼の脳細胞は最適解を考え続けている。


「いいか? この質問は思考実験だ。モラルだとか、道徳観だとか、そういった物はどうでもいいんだ。掃いて捨てるほどの価値もないんだよ、そんな物には。だから、君ならどうするか、それだけを聞かせて欲しい」


 その瞬間、トオルの緊張の糸はぷつりと切れた。彼は男を睨み付け、唇を歪めて笑顔を作った。


「私なら? そうですねぇ……,。『出題者に銃を突きつけて財産を有るだけ降ろさせ、200万とともに全部燃やす』なんてどうでしょう?」

「……その心は?」

「この社会は下手に動かさない方が良いんですよ。そのままにしておけばバランスは取れているのに、誰かを幸福にしようだなんて烏滸がましい。それを理解した上で、何かをしようとする偽善者だとか、そいつらを焚きつける暇なブルジョワどもは、一度痛い目を見るべきだと思いませんか?」


 言ってしまった。心と頭が出した結論を自らの口が言い放った筈であるのに、口から離れた瞬間に後悔となって返ってくる。今のトオルの表情が滑稽であることは彼自身が痛覚していた。思考実験に詭弁で対抗したことになるからだ。

 だが、これが彼の本音であるのだ。彼の見ている世界は、天国でもなければ地獄でもない。現状に不満はあるが、変えようとは思っていない。むしろ、世界は自分ひとりの努力ではどうにもならないほどに肥大化している。無理に変えるのはバカがやることだ。彼はそう考えていた。


「なるほど、君は私の仕事を全否定してくれるわけだ。……まったく、気に入ったよ!」

「はい?」

「採用だよ、採用! その思想、最低だね! 向上心もなければ、ハングリー精神も無い。素質もないし、野望もない。私はこういう若者が一番嫌いで、大好きだ!」


 ニコニコと笑うボルゾー氏の姿を直視し、トオルは困惑を隠しきれない。どうやら、気に入られたようだ。


「試すような物言いをして悪かったね。さて、さっそく今日から仕事をやってもらおうか……!」

「えっと、仕事は確か……」

「あぁ、うちの娘の話し相手になってほしいんだ」


    *    *    *


「そうだ、家は引き払わなくて大丈夫か?」


 埃をかぶった階段を上りながら、ボルゾー氏は不意にそう尋ねる。


「今日の仕事終わったら一旦帰って良いですか? まだ荷物とか置いたままなので……」

「構わんよ。今日は顔見せ程度でいいんだ」


 トオルは周囲をキョロキョロと見渡し、そこかしこに引かれたカーテンに若干の違和感を覚える。曇天の空はさほど眩しいとも言えず、人目を気にしなければならないほど住宅が密接しているわけではない。何か事情があるのだろうか。目の前の雇い主に若干の不信感を抱きながら、彼がオレンジのネームプレートが掛けられたドアをノックする様子を眺める。


「ラウン、入るよ」


 部屋の主である少女は、隅に置かれたベッドに膝を抱えて座っていた。ブロンドの長髪に顔を遮られているが、辛うじて見える鼻の形が綺麗だった。


「あっ、とーさん……と、誰?」


 顔を上げて不思議がる少女の姿を見た瞬間、トオルは心拍数が跳ね上がるのを感じた。


 彼女を端的に表すなら、『病的なまでに可憐な少女』だ。純白のワンピースから伸びる四肢は華奢で、触れれば儚く散ってしまう花のようだ。大きな瞳が左右に動き、立ち尽くすトオルの姿を捉えるまで、彼は言葉を失っていた。


「ほら、この前言っただろう? 君の友達を呼んで来るって!」

「あぁ、話し相手の人か。よろしくね!」

「……あっ、はい! 三枝トオルです。よろしくお願いしますっ!」


 硬直した脳細胞に血液がなだれ込んでいく。なんとか絞り出した声は空回りし、先ほどとは違ったベクトルの緊張が襲いかかっている。


「よろしくね、トオル。私はラウン。ラウン・ボルゾー……!」


 ラウンと名乗った少女はベッドから降り立ち、トオルに向かってぺこりと会釈をする。


「じゃあ、今から喋ろっか? だから、とーさんは下がってて!」

「そうだね。あとは若い二人で楽しんでくれよ」


 娘の前で破顔するボルゾー氏は、そのままくるりとその身を翻して階段を降りていく。ドア越しに聞こえる足音が遠ざかっていくのを確認すると、ラウンはトオルの経験した中で最大の笑顔を彼に向けた。


「理想の死に方って、なんだと思う?」


    *    *    *


轢殺れきさつは痛いじゃん! 水死は苦しいと思うし、首吊りが現実的かなぁ……」

「はぁ……」


 俺は何の話をしているのだろう。トオルは聞き役に徹しながら考えていた。目の前の美少女は延々と死について語り続けているし、その話に相槌を打つトオルの姿は傍から見たら滑稽そのものだ。


「でもさぁ、死ぬならやっぱり綺麗に死にたいよね! ……ってことで!!」


 ラウンが突然背後のカーテンを引くと、曇り空を裂くように射す夕陽が部屋に忍び込んできた。


「お嬢様、何を……?」


 唖然とするトオルの背後を人影が横切る。ラウンに降り注ぐ陽光が再びカーテンに遮られ、息を切らせて安堵するボルゾー氏の姿がそこにあった。


「トオルくん、降りてきてくれ……。少し、話し合おうじゃないか……」


 応接室で腕を組むボルゾー氏の姿は、トオルの胃を痛ませる要因の一つになった。雇い主は小さくため息を吐きながら、何かを話そうと思考を巡らせている。


「トオルくん、すまない。今回は説明していなかった私のミスだ……」

「説明、と言いますと……?」

「娘の“体質”についての説明だよ」


 ボルゾー氏は大きく息を吐くと、できるだけ平常心を保ちつつ語りだす。


「娘は、紫外線過敏症なんだ。極度の日光アレルギーで、あの子の細胞そのものが日光を浴びることを想定してないんだよ……」

「細胞そのものが……?」

「あぁ。身体組織が日光に対して強烈な拒否反応を起こす、という奇病だ。最悪の場合、死に至る危険性が高い」

「死に至る……」

「だから、あの子を外に出したことは無かった。でも、そうするとあの子は退屈するだろう? 君を呼んだ理由、わかってくれたかい?」

「なるほど……。治療法はないんですか?」

「私はそれを探す仕事をしているんだよ……!」

「医療系のお仕事ですか?」

「当たらずとも遠からずだね。私は細胞生物学者を生業としている……」


 トオルは応接室の内装を改めて見渡し、調度品に所々埃が被っていることに気づく。滅多に使われることがないのか、掃除は必要最小限なのかもしれない。


「ところで、うちの娘は会ってみてどうだった?」

「なんというか、その……独創的ですよね」

「独創的……。そうだね、その通りだ」


 ボルゾー氏は笑いをこらえながら、トオルの返答を噛み締めている。

「あんなに喜んで話す娘を見るのは久しぶりだったよ。明日も来てくれるかい?」

「もちろんですよ。独創的でエキセントリックなあの子と話してると、こっちも楽しいんで……」

「そうか、それなら良かったよ。また明日、よろしくね……」


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