Muse Night:origin

夕澄ライ編『嘘吐きグランギニョル』

#1

 深い霧が街行く人々の視界を遮る夜、少年は辺りを不安げに見渡しながら歩いている。月は顔を隠し、周りにぼんやりと浮かぶ儚げな街灯の火だけが足元を照らしていた。


「坊や、迷子かい?」


 石畳の歩道に胡坐あぐらをかいた男は、ネイビーのニットキャップに半分隠した瞳を少年に向けた。


「この辺、一人で歩いてると危ないよ。人攫いが出るんだ……。怖いよね?」


 無精髭に隠れた薄い唇の端をニッと歪めながら、男は少年に近づく。ポケットから取り出したレモン・キャンディーを手渡し、通りの向かいに停めてあるワゴン車を指さした。


「家まで送ってくよ! 歩くと時間かかるだろ?」


 少年はコクリと頷き、ワインレッドの瞳を嬉しそうに細める。懐に銃を隠したままで。


    *    *    *


「父さん……。もうちょい仕送り用意してくれよ!」


 頭を抱える少年の目の前の机には、預金通帳が置かれている。

 一ヶ月の振り込み額は5桁で、彼ら兄弟の生活費を補填するには少し厳しい。


「食費に洋服代、光熱費だろ? これだけ引かれて……。残金少なすぎない!?」


 彼らの余裕のない生活には理由がある。母親は弟が生まれて間もなく病死し、父親は不治の放浪癖で長らく宿無しである。

 すなわち、残った二人の生活は、兄である夕澄ライの双肩にかかっていた。


「兄さん、もうすぐクリスマスだよね……」


 黒縁の眼鏡を掛けた少年——夕澄ハクトは、頭を抱える兄の背中におずおずと話しかけた。


「あぁ……そう言えばそうだったな。何か欲しいもの、あるか?」

「いや、要らないよ。なんにも要らない……!」


 ハクトは右眉を上げ、ポケットの紙片を乱雑にゴミ箱に捨てた。ライは弟の〈嘘吐きのサイン〉を見定める。


「あのさ。お兄ちゃん、ちょっと銀行に行ってくるから……! 留守番しててな?」


 ライは歯痒さを隠すように、逃げるように家を出た。


 地下鉄に吸い込まれていく人々を目で追いながら、ライは自身のお気に入りの場所へ向かった。

 オフィスビルが立ち並ぶ幹線道路を抜け、コンビニとレンタルビデオ店の間の小道を通り抜ける。コンクリートの壁が窮屈な道をさらに圧迫する都会の隙間で、彼はポータブルMDプレイヤーから流れるロックバンドの歌声を聴いていた。「欠落感」という単語を繰り返すサビが特徴的な曲である。

 彼は自問した。自分たちの生活に足りないものはなんだ?

 金が無い。それ自体はひどく単純な悩みであるはずだ。しかし、彼の幼さはその不幸な欠落を解決する方法を知らなかった。働かせてもらえる場所を探そうにも、彼は未だ12歳、義務教育の途中だ。生活のために資金が必要だということはわかってはいるものの、彼に道を踏み外す覚悟はなかったのである。福祉が打ち切られつつあるこの国において、貧しいことはそのまま罪に直結しつつあるのだ。


『ねぇ、なんの曲聴いてんの?』


 頭上で不意に聞こえた声の主は、小さなコウモリの姿をしていた。ライは顔を上げずに、MDの手書きラベルを声の主に向ける。


『へぇ、いいセンスしてるじゃん!』

「この歌詞とか良くない? めっちゃ共感できるんだよな……」


 ライはお気に入りのバンドについてのあれこれをコウモリに向けて語りだす。コウモリは一頻り頷いたあと、静かに疑問を呈した。


『あのさぁ、未知の生物が近くにいることにもうちょっと驚いてよ……!』

「大丈夫、昔からお前みたいな奴は見えてるから」

『えっ、素質持ち? この街でよく寄生されなかったね!?』

「父さんに『このタイプの生物は悪魔みたいな存在だから近づくな』って昔から言われてるんだよ……!」

『なるほどね。親子揃って素質持ちですか……』


 コウモリはライの隣にふわりと着地すると、少し意地の悪そうな笑みを浮かべた。


『ねぇねぇ、なんか願い事とかない? ディークの特性なら知ってるでしょ? 願いなら、なんでも叶えられるよ〜……?』

「その願い叶えたら、俺の自我は乗っ取られるんだろ?」

『うっ……。その辺は、なるべく痛くしないように善処します……!』

「下心見え見えなんだよ!」


 彼女は諦めない。別のアプローチをライに仕掛けていく。青い瞳がさらに輝いた。


『例えばさぁ、“ヒーローになりたい”的な願いはどう? この年代の男の子って、みんなそういう願望あるでしょ!?』

「却下。悪いヤツらだって賢くなってきてるんだから、ヒーローがいても滅多に姿なんて見せないでしょ?」

『この街には、そういう奴らがいっぱい居るんだけどなー……』

「それに、世のため人のために自己犠牲するなんてバカバカしいだろ! “みんなを守る”ような願いなんてする奴、この時代に居る?」

『キミ、めちゃくちゃ捻くれてるって言われない……?』


 意気消沈するコウモリの提案をきっぱりと断ろうとしたライは、少し思い悩んで呟いた。


「でも、ちょっとお金は欲しいかな? とりあえず、弟のクリスマスプレゼントを買えるだけの金が……」

『なるほど、人間の美しい兄弟愛だねー。何があったか知らないけど、その願いを叶えましょう! 君の心の欠落ラック、埋めてあげましょう!』


 ライの胸に、コウモリの影が流れ込んでくる。魂の半分を割譲したような感覚の中、ライは血に染まる二丁拳銃のビジョンを確かに感じた。


「で、これで願いが叶うのか?」

『よし、まずは銀行強盗でもする?』

「いや、合法的な手段で稼がせろよ!」

『えー、それで叶えちゃえば手っ取り早く乗っ取れるのに……』

「そうやって何でも簡略化する風潮、嫌い! とりあえず銀行寄って帰るから、それまでに稼ぐ方法考えとけよ!」

『はいはい……』


    *    *    *


 都市銀行の広いロビーでは、老若男女さまざまな人が思い思いの時間を過ごしていた。

不機嫌な子供をあやす母親や、携帯を肩で挟みながら苛ついて話すサラリーマン、眼鏡をかけた長身の男と背筋をぴんと伸ばした恰幅のいいロマンスグレーの紳士など、バラエティに富んだ群衆の中、ライは行列のできているATMに並んでいる。


「そういえばさ、お前って名前あるの?」

『いや、私はオリジナルだから名前は継承してなくてね……。それがどうしたの?』

「名前が無いんじゃ今後呼びにくいだろ? だから、名前を付けようかなって……」

『いいの!? カワイイ名前にしてね……?』

「よし、メキシコに吹く熱風! という意味でサン……」

『却下』

「はいはい、了解……。夕澄……ユウズミ……ミューズ……! “ミューズ”でいこう!」

『ミューズ、女神の名前だっけ? まぁ、他の候補よりはマシか……』


 ライたちが名付けに関する熱い議論を小声で交わしていた瞬間、背後で悲鳴が響く。


「おい、てめぇらァ! 動くんじゃねぇぜ!!」

 目出し帽を被った男は、黒光りする銃を構えながら叫んだ。その傍らに浮いている小さなイタチが、嗜めるように呟く。

『おいおい、手荒な真似は辞めとけよ。お前が逮捕されちまったら、身体を乗っ取る意味が無いじゃねぇか……』


 イタチの忠告を意に介すことなく、男は受付の係員に銃を突きつける。瞳の焦点が合わず、何らかの薬物の影響下にあることは明白だった。

「金だ……!! このバッグに金をありったけ詰め込むんだ!」

 ほとんど顕になっている目を血走らせながら、男は唾を飛ばしてまくし立てる。

 恐怖による静寂が訪れる構内に、眼鏡の男が椅子を引く音が響いた。


『おお、同じ悩みだよライくん! 先にやられちゃったね!』

「ミューズ、ちょっと黙ってて!」


 ぎちぎちと詰まったボストンバッグに満足そうな笑みを向け、男は少し思案した。


「おい、もうすぐ警察が来るんだろ? お前らは人質だ。解放されたきゃ、警察に身代金を払ってくれって泣きついてみろよ!」


 男は銃の安全装置を解除しつつ、サラリーマンの客に110番をするよう脅した。泣き声混じりの通報をするサラリーマンの声は、銃を突きつける度に上擦っていく。


「つ、通報完了しました……」

「ブラボー。じゃあ、死んでもらえるか? ギャハハハハ!!」


 銃口が揺れ、男は引き金に指を掛ける。


「あのさ、早く帰ってくれない? 可愛い弟が、家で待ってんだよ……」


 ライはひらりと銃口の先に立ちふさがり、僅かに怒りの混じった声を上げた。


「あぁ!? なんだガキ。俺に言いたいことがあんのか!?」

「聞こえなかった? マジで、邪魔。俺は、早く帰って家計のやりくりしなきゃいけないんだよ。12歳にして家計管理する辛さわかってんのか?」

 口調の端に余裕の色を残しながら、ライはミューズに尋ねる。

「なぁ、前言撤回していい? 悪をぶっ倒すヒーローになるのも悪くないかな、って!」


「おいおい、喧嘩売る相手を間違えたな? 俺はチャカ持ってんだぜ、丸腰のお前がどうやって勝つんだよ……!?」

『おい、アイツもお前と同類だぞ!? 同類のディークノアだぞ!?』


 イタチの焦りより、男の慢心が勝ったようだ。余裕ぶる男の眼前には、強く握った拳を男の方へ向けるライの姿があった。


「何がしてぇんだよォォォ!!」

「もう遅いよ」


 男の叫びは銃声にかき消された。


 刹那、男は手元から吹き飛んで床に落ちるハンドガンを視認する。その銃に大穴が空いていることを確認した瞬間、男の身体は崩れ落ちた。一瞬の隙を突き、鳩尾を硬いもので殴られたのだ。


「よーし、帰ろっか!」

『キミ、なんで二丁拳銃なんて使えるの……?』

「最近面白い映画を観たんだよ……」


 常人は視認することができないが、彼は二丁のリボルバーを確かに握っていた。一丁で敵の銃を撃ち抜き、もう一丁をナックルダスターめいた打撃武器として用いたのだ。敵の認識外からの一撃は、非力な少年の攻撃でも大の男を昏倒させうる。それが肉体を強化された存在であるディークノアなら、尚更だ。


 数分後、赤色灯のサイレンが殺到しだす銀行前を抜けようとしたライに、恰幅のいい紳士が声を掛ける。


「君、もしかしてディークノアかい?」


 振り向いたライは、警察手帳を向けた眼鏡の男に挙動不審になった。

「……罪状は何ですか? 暴行罪? 銃刀法違反? 今回は正当防衛ってことになりませんかね……?」

 目に見えて焦るライに、紳士は笑って答える。

「いや、君を逮捕しに来たわけじゃないんだ。捜査協力をお願いしたくてね……」


「〈DCCC 代表理事 志柄木しがらき憲芳けんほう〉……?」

「“ディークノア犯罪対策委員会”だよ。官民一体の自警団みたいな物だね」


 志柄木と名乗る紳士は、名刺を片手にライに微笑みかける。柔和な笑みの中に犯罪を憎む確かな熱意がある表情だ、とライは思う。


「最近横行してるディークノアの犯罪は、まだ法で裁けないんだ。彼らの存在は、生物学的に立証されてないからね……」

「そういう事件や事故を処理するのがそのナントカっていう組織だとして、その人たちが俺に何の用です?」

「そんな悪いディークノアに対抗できるような素質持ちはなかなか見つからなくてね、僕の周りでかき集めても数えられるほどしかいなかったんだ。なぁ、南雲くん?」

「えぇ、私も視えるようになったのはつい最近ですから……」


 南雲という几帳面さがスーツを着たような長身の男は、溜め息を発しながら口を開く。彼もさして若くないようだ。どちらかと言えば後方支援のような風格を感じさせ、ライは老紳士が声を掛けた理由を掴み始める。


「〈素質持ち〉は昔から一定層いたそうなんだけど、古代では神の御姿を見ることのできる神職者や生贄となり、近代では狂人として社会から爪弾きにされてるんだよ。調べていくと、どうも先天性の人と後天性の人がいるようだ。何かきっかけがあって視えるようになった人は散見されるんだが、先天性はとても稀少レアだ」

「つまり、俺で人体実験でもするつもりですか?」

 南雲の唇がわずかに歪んだ。志柄木はそれを気にせず、会話を続ける。

「いや、君を実働隊として雇いたいんだ! 私たちで協力して、凶悪犯の身柄を拘束する。もちろん、それなりの報酬は払うよ!」

『えっ、ヒーローになりつつ稼げるんですか!? ライくん、願ってもない条件じゃん!』


 突如現れたコウモリに対して、志柄木は少し驚いたような表情を見せる。


「君のパートナー、コウモリだったのか……。まさか、君の名前は……」

「俺ですか? ライ、夕澄來です!」

「夕澄!? 君、不未彦ふみひこの知り合いかい!?」

「知り合いっていうか、父親なんだけど……」

「はぁ、確かにどことなく似ている……。なるほど、君の実力が高いことも肯ける。なおさら気に入ったよ!」


 老紳士は頬を緩め、何か懐かしむように目を細める。ライはあまり父親に関心がないため、少し語気を強めて答えた。


「親父と俺の実力は関係ないですよね? あの放浪癖のせいで今めちゃくちゃ苦労してるんですよ……!」


 足早にその場を去ろうとするライの背中に、志柄木は小さく声をかける。


「君の弟、小学生ぐらいかな?」

「そうですけど、それが何か……?」

「『笛吹き男』には気をつけた方がいいよ……!」


 笛吹き男、その聞き覚えのない単語にライは振り向いた。不吉な予感がするのだ。


「知ってるかな? 二ヶ月前からこの街で子どもの失踪が相次いでるんだ。昨日、二十件目が発生した……」

 首を横に振るライに、南雲は焦りの色を見せた。

「志柄木さん、それは機密事項です!」

「良いんだ。どうせマスコミに嗅ぎつかれるんなら、早めに知っておいたほうがいい。失踪した少年少女はたいてい一週間ほどで見つかるんだけど、何も話さなくなるんだ……」

「何も……」

「話さないというより、“話せない”んだよ。口が利けなくなってしまう。外傷はないんだが、亡霊のようにその場に存在するだけになってしまう」


 志柄木は憤りを隠せないかのように、唇を噛んだ。


「恐怖やストレスを感じたことによるPTSDですかね……?」

「その線も考えられるんだけど、僕はもう一つの可能性を考えている。『何者かに心を奪われた』という可能性を……」


 志柄木はここまで話し、ライの方を見据える。その視線は真っ直ぐ彼の瞳孔を捉え、事件への静かな怒りを伝える。


「つまり、その事件に関する重要人物が“笛吹き男”だと?」

「うん。それぞれの子が行方不明となった場所には、決まってディークの反応があるんだよ。それと、スモーク加工の施された窓がついてるワゴン車もね……」

「まさか、誘拐……?」

「そう、誘拐だ。そこで、君にはおとり捜査をしてもらうかもしれない」


 志柄木の高らかな宣言に、南雲の声が重なる。


「やめましょうよ! こんな素人に危険な捜査をさせる必要はない! それに、まだ子どもですよ!?」

「もちろん、なるべくそんな手段は使わないように最善を尽くすさ……!」


 あたふたと焦る南雲を尻目に、ライは志柄木に一つの疑問を静かにぶつけた。

「で、一回あたりの報酬はいくら?」


 黙って指を三本立てる老紳士に、彼は大きく肯く。


「弟が安全に暮らせるよう、やってやりますよ……!!」

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