掛け持ち無能従者!
中田祐三
第1話
全ての生物が死に絶えたかのような新月の晩。
その暗鬱とした暗闇の中で何かが山中を走っていた。 それは四つんばいで疾風のように走っている。
その存在から小動物達は逃げ回り、熊や猪のような大型の獣も彼に気づかれないように気配を消してそれが通り過ぎるのを待っている。
やがて彼は山頂近くのやや大きな木に昇り、それを昇りきると、赤い瞳を下げ、墨で塗られたように真っ黒い山を見下ろした。
ハアと口から白い吐息を中空に漏らしたそれは今夜の食事を探していたが、昨日は鹿、一昨日は猪と食べており、ほとほとそれらの味に飽きていた。
いかんせん山の獣達は食いではあるものの味がよろしくない。
やはり美味といえば人、特に若い女の血肉はとても柔らかく、どこをとっても食えないというところが無い。
極上の獲物であるが、そんな人間が山の奥に来ることは無く、たまに麓辺りにまで下りて通りかかった者をさらい、巣に持ち帰って食べるくらいだった。
そういえばこの山に来て三ヶ月……そろそろ新しい巣を見つけて移動する時期だろうか。
いつまでも同じ場所で狩りを続けていると獲物が警戒し始め、やりづらくなる上に自分のような者を追う存在にも気づかれるかもしれない。
そうだ早速明日にでもこの山を降りて別の山に移り住むとしよう……そのためにも今日は記念になるようなすばらしい獲物が食べたいものだな。
身体を揺するとその巨体によって昇っている木が少し揺れた。
かつて彼が同じ種の仲間と同じように山の落ち葉や土の下を駆けずり回り、様々な天敵の存在に脅かされていたときとは違い、すでに身体は小型の熊くらいにまで成長している。
灰色の体毛と蛇のようにチョロリと長く伸びた尻尾、そして発達した前歯だけがかつての彼の姿を思い出させてくれる。
ありふれた小動物でしかなかったはずの彼はすでに本来の寿命の十倍、数十年以上生きているのだ。
本来ならありえないことではあるが、古今東西何事にも例外はあり、それが彼であった。
そしてここ日本ではそのような者を指す言葉が存在する。
『妖怪変化』
そう、彼はまさしく本来の寿命を超え、すでに別の種、別の存在へと成り代わったのだった。 身体はかつての数十倍、知能も発生し、何より彼が妖怪変化という言葉が似合うのは先ほど彼が言っていた人を食い、それが美味だと感じることだ。
彼は山のどの獣達にも負けない程の力を持っていたが、また慎重でもあった。
かつてまだネズミという種だったころに培ってきた臆病さが妖怪に変化したいまでさえ根底に設置されており、それにより彼は命を落とさずに今なお生存しているのだった。
彼はこの山最後の獲物を、赤い瞳をよおく凝らして探していると、明かりもまだらな山道をとても柔らかそうな肉をした小娘が歩いているのを確認し、狂喜した。
齢数十年を誇る山鼠の化身である彼は元小動物としての警戒心の強さで決して獲物を逃したことはない。
住む場所とて転々としている彼にとって久方の人間の獲物であるあれも、今までと同様に彼が何者かさえわからないうちに爪で切り裂かれ、強力な前歯で頭を丸かじりされる運命だった……。
彼の昇っている木が大きく揺れる、ゆらゆらと揺れた木の頂点ではネズミの姿をした化け物がしなやかな筋肉を使って勢いをつけていた。
このまま一気に獲物の前までジャンプするつもりなのだ。
そして獲物は突然目の前に現われた自分を見てきっと悲鳴を上げるだろうが、それを一瞬だけ聞いたらすぐに頭ごと丸かじりにしてくれよう。
そして食い残したしゃれこうべに俺の名前を刻み付けてやろう。
獲物の絶望を考えて下卑た快感がわいてくる。 それは何とすばらしい快感なのだろうか……。
ニヤアっと笑ったような表情をした彼は十分に勢いをつけ、筋肉を収縮させて一気に跳ね上がった。
そして目測どおりに獲物の目の前へと着地すると、その赤くぎらぎら光る瞳で恐怖の顔をする獲物を見据えた。
だが期待と反して獲物の反応は見たことの無い物だった。
獲物が自分を見た瞬間に笑ったのだ。
何故笑う? 疑問に思った瞬間に前足には針が刺さっていた。
何だこれは?
疑問が走る前に彼は走り出していた。
動物としての本能が、およそその種類としてはありえないほどの長寿で得た経験で彼は頭がそう思う前にそこから走り出していた……逃げ出していたのだ。
何故この俺が……! もう一度歯噛みするが、反面、逃げ出したことは正解だったということもまた本能で理解していた。
あいつらはあれだ……かつて山の中で自分とはまた違う化身の者と話したときに聞いたあれのことなんだろう。 そいつは静かに、震えるようにあいつらの名前を言った。
その一族の名前を言ったのだ……。
しばらく住み続けていた山を走り続け、彼は人間が作った道路と呼ばれる道に降り立つ。
山の中では走りづらい、人間では追いつけぬだろうが、それでもあいつらなら何かしらやってくるかもしれん。
ならばいっそのこと、この人間が作った道を走り抜けたほうがいい。
硬い地面が心地よく足の踏ん張りを助け、木々や石、他の動物達が跋扈している山の中と比べれば数段は早く走れる。
あいつらが来る前にこの山から走り去らないと……自分は…….
ぶるっと身震いして全身の筋肉を縮こませて一気に走り出す。
油断は出来ない、もっと速く……できるだけ速く……じゃないと、あいつらが……。
途端、前足が爆ぜた。 不恰好の姿でアスファルトの上を滑っていく。
硬い地面に削られて擦りむいた傷が身体中に出来た。
何故自分の足が……? 彼の前足はまるで獰猛な獣に食いちぎられたかのように無くなっていた。
そこで彼は思い出したのだった。
この前足は先程きらきらと光る何かがついた針が刺さっていた場所……。
起き上がろうとした彼の全身に例の針が飛んできて刺さる。
それらは正確に彼の残された前足部、両後足部、背中、そして頭と突き刺さっている。
この数十年感じたことのない感情が湧き出てきた。
かつて自分がただの小動物であったころ隣りあわせで常に一緒にいたもの……死の恐怖…。
それがいま彼の脳内を支配していた。
「思ったとおり、道路の方に出てきてくれたわね」
まるで自分が来ることを知っていたかのように勝ち誇った笑みで先程の小娘が道路へと出てくる。
髪を後ろで結わえて勝気そうな小娘だった。
「よろしいのですか?他の方々が到着する前に姿を見せるべきではないのでは?」
小娘の後ろから同じ年齢くらいの小僧が心配そうに声をかけていた。
こちらは小娘よりもやや背が高く、小娘とは対照的な陰気そうな顔をしていた。
こいつらが……自分を……数十年生きたこの惨落様を……。
彼の心の中で死の恐怖が消え去り、激しい憤怒の気持ちが沸いてくる。
「おっと、動くんじゃないわよ……そこから何かしようというならあんたの身体に突き刺さった爆針が火を噴くわよ」
笑みを浮かべる小娘にますます憎悪の念が強くなってくる。
「月代様……あまり挑発を……」
「大丈夫よ……すでに急所には爆針を……」
小娘が自分から目を離した瞬間に彼はそれまで十分に縮ませていた全身のバネを使ってまだあどけない顔をした小娘の首元へと飛びつく。
「なっ!こいつ……まだこんな力が?」
「だから言わんこっちゃない!この……離れ……」
彼は強引に千切れた前足で男を弾き飛ばす。 意外にあっさり男は吹っ飛ばされてそのまま動けなくなっていた。
「小娘~、この惨落様を舐めるなよ……たとえこのまま息絶えようともお前だけは道連れにしてくれるわ!」
「あら、そう……そんなことよりあんた獣臭いのよ、鼠は鼠らしく大人しくチーズでもかじってなさい!」
大口開けて小娘の頭を噛み砕こうとする彼に娘がはき捨てるように叫ぶ。
それを虚勢と思った彼が笑い捨て、彼はさらに口を大きく広げて彼女の頭にかじりつこうとするその瞬間、
「グハッ!おのれ……」
途端彼の身体から力が抜けて地面に転がる。
まるで毒が回ったかのように彼はビクビクと痙攣する……でも目だけは爛々と燃やしながらアスファルトの上を転げまわっている。
「月代様……ご無事でございますか?」
少女の前に大柄な坊主頭の中年男が降り立った。
手には数珠を握っており、その数珠と同じものが彼の首に巻きついている。
「さすが、日間さんの縛巻数珠ね」
「いえ、月代様の爆針も見事でした……全針が急所に刺さっている。さすがです」
「いや~それほどでも……」
照れたように頭をかく少女の姿に日間と呼ばれた中年男がニッコリと微笑む。
「おのれ……忌々しき人間共が……この恨み屈辱は生涯忘れぬぞ」
惨落と呼ばれる山鼠が憎憎しげに少女達を睨む。
「あらそう、でもあんたの生涯はもう終わるからずいぶん短かったわね」
少女は興味なさげに何やら文言を唱え始める。 日間と呼ばれた男も一緒に唱え始めている。
「おのれ…青海一族め…たとえ滅んだとしても七代先まで祟ってくれるわ…覚えておれよこの惨落の名前を……」
「家は初代のころからそう言われてるから今更一つ増えてもどうってことないわよ!はい、さようなら~」
小馬鹿にしたような態度に惨落がもう一度叫ぼうとしたときに、全身に刺さっていた爆針が一斉に点火して彼の身体をズタズタにした。
「全くこんな小物にやられそうになるなんて本当に腹立つわ」
「それにしても無事でよかったですな……御身は大切な青海家の当主になる御身体なのですから」
「うん……これからは気をつけるわ」
「うんうん、頼みますぞ。拙僧も期待しておりまするぞ……さてと、あの役立たずを起こすか」
ニコニコしていた日間が大変厳しい顔で後ろに倒れている少年を睨みつける。
「起きろ!錬」
少年はいつの間にか集まっていた他の青海家の面々によって介抱されていて、気絶から目が覚めていた。
「この役立たずめ……月代様の従者であるお前が主の何も役に立たないでいることを恥じよ」
「はい……申し訳ありません」
明かりの下で照らされた顔は青ざめていて、ダメージがまだ残っていることが容易に推測された。
日間は冷たく一瞥して月代の元へと行き優しく彼女を、迎えに来た車に乗せる。
月代が少し心配そうに錬と呼ばれた少年を見るが、日間の大きな身体で遮られて姿を確認することはできなかったが……。
月代を乗せた車は本家のある蒼月という土地へと帰って行く。
その車を見送った日間がまだ青い顔で立ち上がれないでいる錬の前に来て見下すように見下ろす。
「まったく……いくら月代様が認めないとはいえ、こんな役立たずの従者をクビにできないとはな」
「俺もいい加減辞めたいんですけどね……」
苦痛で顔を歪ませながら錬も答える。
「ふん…だが月代様は優しいお方だからな、お前が従者をクビになってしまえば里から追い出されると思ってクビに出来ないのかもしれんな」
それだけはき捨てると日間は別の車に乗込んで去っていく。
錬も彼を介抱してくれた仲間達と共に別の車に乗ってその場を後にする。
車は誰も居ない夜の山道を走る。
誰も錬と呼ばれた少年に話かけることもなく、まるでそこに居ないかのように思い思いに話をしていた。 その中で少年は窓の外に見える暗闇に向かいボソっと呟いた。
「里を追い出してくれるんなら願ったりかなったりなんだけど……」
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