【21】永き時の始まり

「まったくもうー限界だわ。黙ってきいてたけど、あの女の高慢ちきな態度、全然変わってなくて我慢できない~!」


 青い青い空を眺めていたリセルは、突如響いた声で我に返った。


「だ、誰だ?」

 辺りを慌てて見回すが、そこには人の姿も気配もない。

 もとより誰もいないはずである。

「あら、あんた私を探してるの? ここよ、ここ」

「ここって言われても……」

 リセルは戸惑いがちに周囲を見回した。けれど辺りはさわさわと森を茂らせる木の葉や草が揺れているだけである。


「どこみてんのよ。あんた、私を抱えている事を忘れちゃったの?」

「!」

 リセルはどきりとした胸に右手を当てた。

 脳裏に長くつややかな金髪を伸ばした少女の姿が浮かんできた。

 年の頃は、今やすっかり忘れていたが、丁度リセルが少女に姿を変えられた時と同じ十三才ぐらい。意志の強そうなきりっとした青い瞳に、形の良い桃色の唇が小憎たらしげな笑みを浮かべていた。


「ルディオール……いや、アルヴィーズ?」

 リセルは己の身体に封じ込めた太陽神の『半身』を、どう呼ぼうか一瞬迷った。


「どっちで呼ぼうがあんたの好きにするがいいわ。でも、私はあの女の所に戻る気は、幾億の朝と夜が過ぎて、あんたがついに死ぬ時が来ても来ないから。あんたも私を抱えた以上、その覚悟はできてるんでしょうね? リーちゃん」

「……えっ?」

 リセルは思わず叫んだ。急に目眩がしてその場に倒れそうになる。


「なっ、何だその呼び方は! わたしは……!」

「リセルだから『リーちゃん』。いいでしょ、可愛くて?」

 少女は純真で無垢な笑みを浮かべ小首を傾げた。

 リセルは髪を振り乱して地団駄を踏んだ。

「可愛いって……別にわたしは、可愛く呼ばれなくていい!」

「いーじゃない、リーちゃん。呼びやすくて気に入っちゃった」

 少女は両手を合わせ、思案顔になった。


「あんたがリーちゃんなら、そうだ! 私は『ルー』にしようかしら。もしくは『ルディ』。アルヴィって呼ばれるのはあの女を思い出してすっごく抵抗があるし、『ルディオール』なんてちっとも可愛くないんだもの。ねえ、リーちゃん、どっちがいい?」

「……どっちでも。好きにしろ」


 リセルは頭の中で響く少女の声を閉め出そうと意識を集中した。

 彼女のおしゃべりを聞いていたら気が狂うかもしれない。

 もしくは、これからの長い時を彼女とすごすことに悲観して、自殺願望を抱くかもしれない。


「ちょ、ちょっとリーちゃん! あんた、私を無視する気?」

「無視はしないが、一人になりたいだけだ」

「じゃあ、私の名前を決めてからにして頂戴。『ルー』はアルヴィーズの『半身』とか、適当に呼ばれるのは嫌!」

「……」

 リセルは大きく溜息をついた。

 名前を決めろと言われたって、もう自分で言ってるじゃないか。

 リセルは苦笑いを浮かべながらつぶやいた。


「後で相手をするから、今は眠ってくれ。『ルー』」

「あ、やっぱり『ルー』にするのね! ……わかったわよ、リーちゃん」

 少女は機嫌悪そうに、けれど笑みを浮かべて返事をした。

「ねえ、リーちゃん」

 リセルは小さく舌打ちした。

 名前を決めたら一人にさせてくれるんじゃなかったのか。


「これからどうするの?」

 リセルの顔はますますしかめっ面になった。

「……それを決めるために、一人になりたいんだ」

「あ、王都に行く時は気をつけた方がいいわよ。私、国王の意識を操って、リーちゃんの手配書をばらまいちゃったから。きゃ、私って優しい~」

「……なん……だって……?」

 少女――いや、ルーは、ちょっとすねたように口を尖らせた。


「だって、リーちゃんったらこんな『安全地帯』に逃げ込んで、ちっとも私の所に帰ってこないんですもの! でも、大神殿を崩したのも、その床に闇の世界へ通じる穴を開けたのも、みーんなリーちゃんのやったことでしょ?」

 リセルは頭を抱えた。

 それだけは違う。絶対に違う。

 床の穴は自分のせいかもしれないが、大神殿だけは絶対に違う(と思いたい)。


「でも、ルー。さっきアルヴィーズが、大神殿の崩壊は地震のせいだと人々に思わせてくれるようにしてくれたんだ」

「それがなんだっていうの?」

 リセルはぎょっとしてルーに問いかけた。


「だから……わたしが王都に行っても、その件で捕えられることは……」

「さあねぇ~。あの女が『手配書』まで燃やしてくれたかどうか、私にはわからないわ。王都に行って捕まったって、私のせいじゃないわよ?」

「……うう」

 リセルは目を閉じて呻いた。

 これからの永い人生、一生お尋ね者として生きていかねばならないのか。

「仕方ないじゃない。これも自業自得よ」

「ううう」

 それを言われたらぐうの音も出ない。


 リセルは深く深く溜息をついた。エレディーンじゃないが、自分もこの森に縛り付けられる定めなのだろうか。

 物思いに沈むリセルとは対照的に、ルーのおしゃべりはとめどなく続く。今までずっと一人きりでいた反動なのかもしれない。


「王都でもどこでも行くのはあんたの勝手だから好きにしなさいよ。でもリーちゃんって、どっか行きたい所があったんじゃなかったっけ? 感じるわよ。心の奥底に深く沈んだ思いがある……これは……誰? 黒い髪の……きゃっ!」

 ルーは床に這わせた手のひらに、青白い光がほとばしったのを見て叫び声を上げた。


「何するの! リーちゃん。危ないじゃない!」

「……それ以上、わたしの心に触れるな。お前を傷つける気はないが、わたしがわたしでいられなくなる」

 リセルは胸を押さえ、その場に膝を付いた。

 ルーに触れられた時、耐え難い痛みが走った。今はまだ癒えない傷がそこにある。

 忘れたくない人の記憶がそこにある。


「リーちゃん……?」

 ルーが小声で囁いた。具合を案じるかのように。

「ごめんね。痛かったの?」

「……なんでもない」

「わざとじゃないの。ただ、リーちゃんが、そうしたかったような気がしただけなの。誰かと約束してたみたいに」

 リセルは顔を上げた。

 ふと、振り返る。

 そこには頂きにうっすらと雪を冠る『神の山』がそびえ立っていた。


『ルディオールを封じ込める事ができたら――ルーグ、わたしは……』

『まあ、焦る事はない。いつか、自分の目で壁画を見に行ったらどうだ。神殿を管理しているアルディシスなら場所を知っているだろうから、落ち着いたら案内してもらうといい』


 リセルは山を見上げたまま立ち上がった。

 天に向かって伸びる金色の柱のように、日の光が裾野を照らしている。

 一瞬、頷くアルヴィーズの横顔が見えたような気がした。


「ルー、行く所が決まったよ」

「えっ、何処にするの?」

 心なしかわくわくしているような口調。

 無理もない。彼女はリセルが想像するよりずっと長い間、あの暗い空間に封じられていたのだから。


「取りあえず、『神の山』のアルヴィーズの神殿だ」

 はっとルーが真っ青な両目を見開いて絶句した。

「どうしてあの女の本拠地に、私が行かなくちゃならないのよー!」

 リセルはにやりと笑みを浮かべた。


「大丈夫。今はわたしの中にいるんだから。もっとも、出たくてもお前はわたしの中から出る事はできない。わたし自身が封印そのものだからな。アルヴィーズだってお前を無理矢理ここから出す事はできないよ。現にさっきアルヴィーズが来た時、そうしなかっただろう?」

「なっ、なによ! 人の弱味につけこむなんて、リーちゃん、最低!」

「ルー、お前は人ではなくて『神』だろう?」

「『神』ってなによ。私はあんたの中にいる限り、何もできないの。ふーんだ。もうリーちゃんなんて知らない!」

 行く先が気にくわないせいか、ようやくルーは大人しくなった。


「やれやれ。これから大変だな」

 ルーがふて寝をはじめたので、やっと一人きりになれることをリセルは喜んだ。

「さて、『神の山』まで魔法を使うか、それとも自分の足で歩こうか。どっちがいいと思う、ルー?」

「……」

「返事なし、か。そうだな……」

 リセルは空を見上げた。太陽はちょうど頭上に差しかかろうかというくらいだから、そろそろ正午を過ぎた頃だろうか。

 

   ◆ 


 黒髪の神殿騎士は腕を組み、飄々とした顔を珍しく不機嫌そうに歪めていた。

『まだ正午を少しすぎた頃だ』

『だから?』

 リセルに追いついたルーグはちらりとその顔を眺め、何かを憂えるように溜息を吐くと立ち止まった。

『あの巫女さんと一緒に、昼ご飯を食べてから出立したって構わないだろう? 今までいろいろ世話になったんだし、そんなに急がなくても『彼奴』は現世から消えたりしない』


   ◆


 リセルは振り返り、懐かし気に「神の山」の麓を――正確には昨日ルーグと共に下ってきた山道を見つめた。自然と足がそちらに向かって歩く。

 絨毯のように生える緑の下草を踏みしめながら、今度はひとり、神殿に向かうために黙って山道を登る。


 一時間ぐらい登ったある場所で、リセルはふと足を止めた。

 考え事に耽っていたせいで、危うく崖から転落しかけたのをルーグに助けてもらった所だ。ここは相変わらず緑の木々の葉が生い茂り、その下が絶壁になっていることを微塵も感じさせない。そして道の傍らに生い茂る長細い葉の薬草をみて、リセルは苦笑いを浮かべた。


 サキキュロック。

 ルーグが『さわやかな臭い』といって、傷口に塗布するのを嫌がった薬草だ。

 見る景色すべてにルーグの存在を思い出してしまう。彼と過ごした日は一週間にも満たなかったというのに。思い出に浸りながら、リセルはついに「神の山」の神殿に入る北側の通用口の前にたどり着いた。ここにもリセルが初めて神殿を訪れた時のように、複雑な幾何学模様が刻み込まれた二本の水晶柱が門のようにそびえ立っている。


 ルディオールの呪いをかけられていたときは、この水晶柱のそばまで行く事がとても辛かった。今はつぶやきひとつ聞こえて来ない。リセルはそれに安堵しながら、通用口の弧を描いた鉄の扉まで近付いた。

 扉の隣には小さなくぼみがあり、一本の赤い紐が垂れ下がっている。呼び鈴の紐だ。


 リセルはそれを握りしめて、ふと思った。

 アルディシスに訊ねられるだろうか。

 ルディオールを無事に封じ込めた事を。

 そしてルーグはもうこの世に存在しない事を。


 リセルは呼び鈴の紐を引っ張った。

 隠しても仕方ない。訊ねられたら答えるまでだ。

 紐を引いて暫くしてから、通用口の扉が開いた。

 懐かしいアルディシスの顔がそこにあった。

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