【10】慈悲の雨に消えた言葉(1)
「神の山」の周囲には壁のように「聖なる森」と呼ばれる木々が取り囲んでいる。リセルとルーグはほとんど会話をすることなく歩き続け「神の山」を約三時間かけて下った。
岩の間から流れる冷たい清水で喉を潤して小休憩をとった後、リセルは一人、森の緑を眺めながら、低い木が作る木陰の下であぐらを組んで座った。
ルーグは相変わらずリセルの様子をうかがうように、少し離れた木の下に立っていた。だが立ち去ろうとする気配はない。どうやら彼は今まで通りリセルに同行するつもりらしい。
リセルは小さく溜息をついて、ルーグの方へ振り返った。
「ルーグ」
「どうした?」
「これから瞑想に入るから、三十分ほどわたしに声をかけないでくれ」
「瞑想? こんな時にか?」
意外な答えだったのか、ルーグの顔に驚きが広がっていくのが見えた。
「ちょっと王都の方角を探りにいくだけだ。意識だけを鳥のように飛ばしてね」
「……ほう」
「でも注意事項がある。わたしが瞑想状態に入ったら、絶対に声をかけるな。身体に触るな。外からの刺激は厳禁なんだ。魂が身体に戻れなくなることもあるし、意識のないわたしは、自分の力を制御することもできない。下手をすれば魔力を暴走させ、ここ一帯を焼け野原にするかもしれないからな」
「……わかった」
本当に理解してくれただろうか。
ルーグの素直にうなずく顔を見ながら、リセルは再び森の方へ向き直った。
ゆっくりと目を閉じる。
瞑想中のリセルは無防備になる。
だからできるだけやりたくないが、『ルディオール』の力がどれほどの範囲まで及んでいるか知っておきたい。
よって瞑想するならここしかない。
邪悪な意識に染まった者は決して入ることができない、「聖なる森」に囲まれたこの場所でしか。
木陰を落とす木の葉が風に揺られてそよそよと語り合っている。
リセルの背丈を超える巨石の間から、水晶の玉のように伝い落ちる清水が、琴をつま弾く心地よい音色をたてている。
それらの音を聞きながら、リセルは自分の意識を周囲の自然に溶け込ませていく。
この地を流れる空気となったように。
ふわっと身体が浮き上がる感覚――実際に空を飛んでいるわけではないが、魂だけとなったリセルは空から地上を見下ろしていた。
足元には山頂が白く冠雪した「神の山」とそれらをぐるりと囲む緑色の帯――「聖なる森」が見える。空は雲一つなくどこまでも澄みきった青色をして、アルヴィーズの力が感じられるやわらかな太陽の光が降り注いでいた。
リセルは次に「神の山」の反対側――エルウエストディアスの王都がある南の空へ視線を向けた。ちょうど「聖なる森」が途切れるあたりから、そこは一変して黒い暗雲が立ち込め、霧のように空気がよどんでいた。
真っ黒な雲しか見えない。
それはとても密度が濃いせいなのか、太陽の光すらも吸い込まれているのだった。
リセルは唇を噛みしめた。
アルヴィーズはこの地界に降臨しない。神自身がリセルに語ったように、『ルディオール』と直接戦うことはこの地を破壊することになるからだ。
だからアルヴィーズは神界に留まり、だが『ルディオール』を封じるだけの力をこめた剣をリセルに託した。リセルは右手が熱を帯びたように疼くのを感じた。
王都をすっぽりと覆い隠す黒雲の向こう側から、冷たい憎悪に満ちた『視線』を感じた。
それは不意に射かけられた氷の矢のようにリセルの心臓をめがけ飛んできた。
リセルは右手をかざし、自らに向けられたその『視線』を受け止めた。
ぞくりと冷たい風が背中を一気に駆け抜ける。
暗闇に赤く光る二つの目がこちらを見ていた。
その目には見覚えがあった。
地上に沈む夕日のように純粋な赤で、暗き赤。
リセルは確実に自らの死を意識した『瞬間』を思い出す。
その目の主は殺そうと思えばリセルを殺すことができたのだ。
母リスティスが邪魔しなければ――。
『
ただ一つへの憎しみに駆られた感情が、地の底から響く声でリセルに語りかける。
『あのおんなを』
『この地上に』
『お前が喚ばないのなら、ひきずりだしてやる』
『そして、地中深く埋めてやる』
『今度は私の番だ』
『私が”アルヴィーズ”となる番だ』
幾つもの声が重なってそれは周囲の闇を震わせた。
リセルはいつしか自分の意識が、暗き雲に覆われた王都の方へ引き寄せられるのを感じた。
そろそろ地上に戻らなければ、ルディオールに魂を捕えられる。
細長い手のような黒い霧が、いくつもリセルめがけて伸びてきた。
リセルはアルヴィーズから託された剣が宿る右手をふりかざし、襲いかかるそれらを瞬時に消し去った。だがその一回の攻防でリセルは限界を感じた。
地上に降りた神と魂だけの自分。力の差がありすぎる。
「……っ!」
急に目の前が真っ暗になって、とてつもなく長い落下をリセルは感じていた。
どうやら地上に残してきた体が、瞑想状態を破られたらしい。
(くそっ……! あれほど外からの刺激は厳禁だって言ったのに!)
目覚めはきっと最悪のものになるだろう。
目覚めることができれば、だが。
◆◆◆
一体いつまで待てばいいのか。ルーグは黄昏れ始めた空を見つつ、相変わらず木の下で座しているリセルの様子をうかがった。
彼はそこにいるが魂はない。『抜け殻』の身体だけが残されている。
弱くなった陽の光が、どことなく中性的なリセルの顔を照らしていた。
そう。
ルディオールの呪いが解けた時、一瞬戸惑ったのは彼の顔だった。
それは記憶の中でしか覚えていない、ある者とよく似ていた。
「エレディーンの末裔か」
ルーグは一時間以上座っていた木の下からゆっくりと立ち上がった。肩を覆う黒いマントが、ひきしまった体をなでるようにするりと落ちる。
「何か用かな」
ルーグは聖なる森から現れた、十人程の人間に向かって呼びかけた。
彼等は畑を耕すためのすきやくわ、太い木の棒、穀物を刈り取る鎌を手にしてこちらへ歩いてくる。質素な木綿のシャツとズボンに身を包んだ彼等は、この森の近くの集落に住む農民のようだ。中には作業用の前掛けとスカーフを頭に被った女性の姿も混じっている。
ルーグは困ったように眉根を寄せた。
どうもいやな雰囲気だ。
彼等は一直線にルーグ――ではなく、木の下に座るリセルの方へ歩いていくからだ。
「待て。一体何の用だ」
ルーグは先頭に立って歩いてきた、すきを肩に担いだ男に向かって呼びかけた。彼等の様子はただ事ではない。
男は頭髪を短く刈り込み、白くなった無精髭を生やしていた。落ち窪んだ目にはやり場のない怒りと動揺、不安が宿っていた。それはこの男だけではなく、他の男や女も同じような目をしていた。
「その少年を連れていく」
男は唸るような低い声でルーグに言った。
邪魔すれば容赦なくその『武器』で殴るというわけか。
ルーグはまあまあと、諭すように柔らかな口調で再び男に話しかけた。
「一体どうしてだ? 彼が何かあんた達に恨まれるようなことでもしたというのか?」
男はうるさそうにルーグを睨んだ。
「いいからそこをどいて少年を我々に引き渡せ。そうすればあんたには危害を加えない」
男はルーグを押し退け、リセルに近付こうとした。
だがルーグは男の腕を掴んで捻り上げると、あっさりとその身体を地面に叩きつけた。
「そ、村長っ!」
後ろに立っていた二十代の青年が叫び声を上げた。
「何をするんだい!」
「そっちこそ、なぜ彼を連れていこうとする。わけを話せ」
「うう……」
ルーグの足元で、投げ飛ばされた男――村長がうめき声を上げた。
「命令だ……王様の」
「何?」
村長はルーグの手を振り払い、その場にどっかと腰を下ろした。
ズボンのポケットを探って、くしゃくしゃになった紙を取り出す。
ルーグは村長からそれを受け取って素早く文面に目を走らせた。
そこにはリセルの年齢、身体的特徴と、彼が大神殿を崩壊させ、多くの神官達を殺したかどにより、見かけた者は直ちに警備隊へ通報するようにと書かれていた。
生死問わず。
どちらの場合でも、この農民達が十年は遊んで暮らせる程の巨額の賞金を支払うと、国王自らの印章が下の方に書き加えられていた。
「金のためか」
ルーグは村長の顔に向かって丸めた手配書を投げつけた。
「違う! 俺達はどうしてもその少年を連れていかなくてはならないんだ」
村長は怒りに顔を赤く染めながら立ち上がった。
「この少年を聖なる森の近くで見た。そんな知らせが王都に入ったらしく、沢山の兵隊が村に来た。だったら自分らでここまでくればいいのに、奴らは俺達の家族を人質にして、俺達にあの少年を捕まえてくるようにいいやがった!」
「不気味な兵隊なんだよ! みんな青白い顔をして、ぎらぎらした目をして」
村長の後ろにいた中年の女性が、目にうっすらと涙をためてつぶやいた。
「悪いがあの少年を連れて帰らなければ、俺達の家族が殺される」
村長がルーグに向かって再び掴み掛かってきた。
「……くそっ!」
同時にルーグの足元には二人の女性が飛びかかり、動きを封じようと手を伸ばす。
ルーグは身体を
すきは幸い村長の頭を掠めたが、同時にその動きは、彼等に道を開けることとなった。
ルーグの脇を数名の女性達が走っていく。
「しまった!」
ルーグは村長の首に手刀を降り下ろして失神させながら、降り下ろされたすきとくわを銀の剣の柄で受け止めた。
首だけ振り返り、リセルが相変わらず目を閉じたまま座っているのに舌打ちする。
彼はまだ帰って来ない。
(リセル、早く帰ってこい。死にたくなければ)
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