邂逅の森
天柳李海
【1】神殿騎士
汗ばんだ首筋にひやりとした冷気を感じた。
カラカラ。
カラカラ。
一片の光もない漆黒の空から、乾いた骨を鳴らし合う音のようなものが聞こえてくる。
「まだだ……はぁ……はぁ……もっとたくさん、引き寄せないと」
少女は背丈を超える長い草が茂った野をよろめきながら駆けた。人目を避けるため羽織った藍色のマントの上で、一本の三つ編みにした雪のように白く輝く髪が揺れている。
なるべく街道を避け山道を選んできたが、森が途切れてしまった。やむを得ない選択だったのだ。この草原をつっきらなければ、太陽神の住まう『聖なる森』へ入る事ができない。
カラカラ……。
背後から乾ききった骨がいくつも鳴っているような音が聞こえる。
逃げまどう少女の、温かな血潮を瞬時に凍らせる快感を得ようと、集まってきた霧の蛇たちが笑っているのだ。
疲労と恐怖で震える足を意思の力で動かしながら、少女は紅の瞳を細めた。本当ならとっくの昔に、この小さな体は力尽きて倒れている。
けれど今は逃げ切らなければならない。目的を果たすために何が何でも。
(あともう少し)
少女は決して後ろを振り返らなかった。
振り返らずともわかる。霧の蛇たちはもはや津波のように数を増し、背後に迫ってきている。そして彼等の放つ冷たいおぞましい気に触れれば、自分の心臓は速やかに鼓動を止めるのだ。
少女は草原をついに走り抜けた。
そのまま、
けれど霧の蛇たちは追跡を諦めようとせず、乾いた声を高らかに上げながらその背に迫った。
(――皮肉なものだ)
少女はふっと唇に笑みを浮かべた。
(私は夜の闇を昼間と同じように見る事ができる。お前達の主からこの目を与えられたのだ。それを今は呪うがいい――
時が満ちた。少女は走るのをやめた。
そこは森が開けた場所で、天を仰げば星のない真っ黒で不気味な空が見える。
ざざざっ……!
しんしんとした冷気の渦が少女を見る間に取り囲んだ。
それは落ち窪んだ暗い眼光の奥で青白い炎を揺らめかせている。
けれど少女は生命なき彼等の姿を見てはいなかった。
瞳を閉じ、全身で彼等の気配を感じながら、小さな体に宿るありったけの力をかき集めていた。
(――消え失せろ!)
少女は紅の両目を見開くと、目前に迫った霧の蛇達に向かって両手を突き出した。
「その息吹もてすべてを
少女の体を死の冷気で包み込もうとしていた霧の蛇達は、小さな手から発せられた炎の渦に反対に包み込まれた。金と緋の輝く炎は
「ふ……ふふふ……ふっ」
世界が――回る。
少女は星一つ見えない暗闇の空を睨み付けた。
背中から地面に倒れたことに気付かないまま。
大地を覆う柔らかな草が、体を労るように受け止めてくれた。
霧の蛇達を消滅させた安堵感と、二日間続いた逃避行の疲れのせいか、少女は急速に眠気を感じた。
(眠っちゃ……だめ、だ)
少女は塞がりかけた目蓋を意志の力で押し上げようとした。
本当はこの眠りに身を任せたい。すべてを忘れて今は眠りたい。
だがその眠りを他ならぬ自分が妨げている。
何かがおかしかったのだ。
頭の中で鳴り響く警鐘はさらに激しさを増していく。
疲れのせいじゃない。この眠気は。
少女はいつしか自分の歯がかたかたと音を立てている事に気付いた。
寒いのだ。
さっきから。
頬を撫でる風が。
「……はっ!」
少女は瞳を見開き、冷えきった手足に力を込めて地を転がった。
身体が動く事に正直驚く。
冷気を伴った白い霧の塊が、少女の頬に当るぎりぎりの所で通りすぎた。
「まだ……いたのか!」
カラカラ。
骨と骨を打ち鳴らす声を上げ、一匹の霧の蛇が、先程まで少女が倒れていた所でゆらゆらと揺れている。まるで
(全部しとめたつもりだったのに)
なんとか立ち上がった少女はゆっくりと後ずさった。
が、霧の蛇の青白い炎の目は少女を捕らえたままだ。
(逃げなければ)
焦る気持ちとは裏腹に、疲れきった体はいうことをきかない。
膝をがくがく震えさせながら、少女はひたすら後ずさりを続け、肩甲骨に固いものがぶつかったことに気付かないまま足を動かした。
額から滴り落ちる冷たい汗が気持ち悪い。
少女は再び意識が鈍るのを感じた。寄りかかった木に爪を立てながら、その場に崩れ落ちそうになるのをこらえるが、もう限界かもしれない。
この小さな身体には何度も無理を強いた。
今一度、目の前の幽鬼を消失させる魔力を
(やはり、ダメかもしれない)
木の幹に背中を預け、呪文を紡ごうと開いた口からは息ももれない。
暗闇の中で揺れる青白い炎は、少女の目前にあった。
霧の蛇がその体を横に広げ変化させる。少女の生命を吸うために。
少女の視界は霧の蛇が
いや、変わろうとした時、白き闇を一筋の光が斬った。
おぞましい絶叫をあげて霧の蛇が辺りに四散する。木の幹にもたれ、かすかな意識を繋ぎ留めながら少女は見た。黒いマントを着た何者かが、白銀の光を宿す剣を手にして目の前に立っているのを。
「大丈夫かい? お嬢ちゃん」
襟足まで伸びた黒い髪をふわりと揺らし、目の前の男は白い手袋をはめたそれを少女に向かって差し出した。
薄暗くて顔は良く見えないが声が若い。多分、二十過ぎの青年だろうか。
「……お嬢ちゃんって、呼ぶな」
少女はその手を拒むように払いのけようとしたが、すでに体力が尽きていた。
「おっと。危ない」
前に傾いだ少女の体を、黒髪の青年は剣を持たない方の手で受け止めた。
「……放せ」
少女の細い手が青年の腕を掴んだ。口から出た言葉とは裏腹に、少女が弱っているのは誰の目からみても明らかだった。
「まあ少し休みなさい。アレがきたら私が追い払ってやるから」
黒髪の青年は少女に向かって、まるで自分の小さな妹に話し掛けるような優しい口調で言った。少女は青年の腕を掴む事でようやく立っている状態だった。その時、少女は冷たい金属の感触を頬に感じた。青年の首から何かが下がっている。
「あんた……まさか……」
少女は青年の顔を――正確にはその首元から下げられている剣の形をした銀の首飾りを見つめていた。彼が右手に持っている剣を小さくしたような、同じ形のものだった。
「あんた、
少女の顔を覗き込む青年は、肯定とも言える穏やかな笑みを浮かべてうなずいた。
同時に少女の意識は眠りの沼へと落ちていった。
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