悪魔の小瓶

音水薫

第1話

幼き主が、僕を呼ぶ声が聞こえた。

 年末も近付き、家来総出で屋敷の煤払いの最中であった。客間の掃除を命じられていた僕は、掃除機を使用中だった為、空耳なのではと思いつつも掃除機のスイッチを切り、確認のために脚立の先を見上げると、もはやサボっているのではないかと疑念が浮かぶほど時間を掛けて照明を磨いている先輩と目が合う。

「随分と丁寧な仕事ですね」

「うむ。一点の曇りも残さん」

 嫌味だと分かっていながら、ものともしない。僕たち二人しかいないこの空間で、先輩に真面目な働きを期待しても無駄だろう。

 それよりも、と先の疑問を口にしようとするのを先輩は片手で制し、既に知っていたかのように答える。

「お嬢様がお呼びだぞ」

「はい……しかしまだ仕事が」

「後は俺がやっとくから早く行け。じゃないと俺がお嬢様に怒られるんだよ。理不尽なことにな」

 煩わしそうに、追い払う仕草をしながら脚立から降り、僕から掃除機をひったくる。

 一礼し、客間から出ると、掃除の済んだ廊下をきょろきょろしながら歩く主を見つけた。

「あぁ、よかったわ。どこに行ったのかと」

パタパタとこちらに駆け寄るお嬢様は年齢よりも幼く見える。

「掃除中は埃が舞うので部屋から出ないようにとおっしゃったはずですが」

「廊下はもう掃除済みだもの。約束は破ってないわ」

 今日一日有効な約束のつもりだったのだけれど、とは言えず。

「そんなことよりも、あなたに用事があってね。部屋にいらして」

 一体どういった用なのでしょう、などと聞くことはせず、後に続いて部屋へと向かう。


 部屋に入ると、既に片付けたはずなのに、机の上は鮮やかな色彩に彩られていた。

 ゆがんだ形やくしゃくしゃに丸められたもの、ピシッとした三角形のものなど、様々な形が見られる。

「折り紙に挑戦してみたのだけれど、上手くいかなくてね。日本では折り紙が折れないと結婚できないと耳にしたから」

 あぁ、また間違った日本の知識を仕入れてしまわれて。誰の仕業だろう。いや、無知なのをいいことに、妙なことを吹き込むのは教育係を務める僕の父だろう。以前も、侍や忍者が現代にもいると信じて疑わなかったお嬢様の誤解を解くのに大変な労力を要した。父の言葉を鵜呑みにしないようにと、あれほど言ったのに。

「日本では皆、成人前に折り紙検定一級の資格を取得するとも聞いたわ」

 若干興奮の色を見せつつ語るお嬢様に「それは初耳ですね」とも言えず、どう訂正したらいいものか思案する。

「鶴くらいなら私でも出来そうだと思ったのだけれど、ダメね。あなたは成人までまだ猶予があるけれど、資格は持っているのかしら」

 資格の存在すら寡聞にして聞いたことがない僕だけど、鶴くらいなら容易い。母の趣味が折り紙だったこともあり、多少高度なものだって折ることが出来る。

「資格はありませんが、ある程度なら可能です」

「本当に? だったら悪魔を折ってほしいのだけれど」

 急に難易度があがった。

「それは……」

 上級者向けで、所要時間は一時間かかると言われる代物だ。二、三十体折ってようやく形になるようなものを、一度もチャレンジしたことのない自分が作るなど、到底無理な話だろう。

「あら、出来ないの? 日本人なのに」

 しょんぼり、と擬音が聞こえてきそうなほど目に見えて落胆された。その日本人に対する折り紙スキルへの信頼はどこから来たのですか。

「申し訳ありません。自分はこちらでの生活のほうが長いもので」

「そうだったわね。無理を言ってごめんなさい」

 掌を返したように笑みを浮かべる。

「ところで、何故また悪魔など」

「あら、知らない? 小瓶の悪魔のお話」

「はい、皆目見当が付きません」

 執事の無知に機嫌を損ねることはなく、説明好きのお嬢様は、むしろ期待通りの返事だと言わんばかりにニヤつく。そして、胸を反らし、その下で腕組みながら得意げに話す。

「小瓶に閉じ込められた悪魔を解放してあげると、お礼に願いを三つ叶えてくれるのよ」

 なるほど、それを折り紙で再現しようとしたわけだ。

「ですが、それはランプの魔人では?」

「言い質問ね」

 狙い通りと、何度も満足げに頷く。それから、天井を指さすように、顔の前で自分の人差し指をピッと立てると、真剣なまなざしで語る。

「そう思ってしまうのも致し方ない話。だけれどこの悪魔の小瓶、ランプの魔人にはない続きがあるのよ」

「続き、ですか」

 首肯すると、なぜか周りを気にする素振りを見せる。

「いかがしました?」

「もっと近くに」

 聞かれてはまずい話だという風に、顔を合わせて声を潜める。ただの演出なのだろうけど。

「三つの願いを叶えた後、魂を奪われてしまうのよ。で、抜け殻になった肉体を乗っ取って、その人に成り済ますんですって」

「それは恐ろしい話ですね」

 お嬢様に合わせて、小声で返す。

「えぇ、本当にね。もし私が身体を乗っ取られてしまったとしても、誰も気づいてはくれないのでしょうね。物語と同じように、気が触れたと思われるだけなのかしら」

 自分だけは気付き、助けて差し上げます。とは口に出来なかった。

「かもしれませんね」

「むぅ」

 頬を膨らませ、不満であることをアピールされる。

「実は乗っ取られたと思われていた状態がその人間の本性で、悪魔なんて最初から居なかった。と言うのが物語のセオリーですかね」

「ふぅん」

 髪をいじりながら生返事。僕はフォローのつもりだったのだけれど、どうやら的外れだったらしく、本格的にいじけ始めてしまった。

「見返りを求めない魔人のほうが安全ですね」

 チラチラとこちらを窺うような視線を送ってくる。この話に関しては一家言あるのかもしれない。

「悪魔ではなく、魔人を作ってみましょうか」

 まあ、出来はしないのだけれど。

「でも、悪魔は私の代わりをしてくれるのよ」

 悪魔の肩を持つようだ。代わりという表現は些か生ぬるいと言わざるを得ないと思うけれど。

「私の代わりに、この屋敷に囚われてくれる」

 やはり、お嬢様はこの屋敷を窮屈に感じているのだろうか。窓の外を見つめている、憂いを帯びた表情がやけに美しく、胸が締め付けられる。

「小瓶の悪魔から、屋敷の悪魔に二階級特進と言ったところかしら」

 渾身のブラックジョークだったらしく、先ほどの表情から一転、ドヤ顔で僕の顔を覗きこんでくる。しかし、笑う気にはならなかった。

「お屋敷は嫌いですか」

「そんなこと」

 やけに大きく息を吐いた。ヤレヤレだぜといった風に。

「屋敷は窮屈だけれど、あなたが居るから退屈では無いの。私が嫌なのは政略結婚。次女だから、それ以外に使い道がないと解ってはいるのだけれど。それでもわたしは恋愛がしたい」

「使うだなんて、旦那様もお嬢様のことを思って、」

「はいはい、聞き厭きたわ、そのセリフ」

 深いため息をつく。明るい話題はないかと考えると、明日の予定が浮かんできた。

「明日はパーティーですね。とびきりの御洒落をしましょう」

「いいわよ、別に。明日も主役はお姉様でしょう?」

「明日のパーティーは旦那様がお嬢様のために開くものですよ?」

「それでも、参加者はお姉様のご機嫌を取るでしょうね」

「お嬢様……」

「いいのよ、慣れてる。行きたくないなんて子供みたいなことはもう言わないから」

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