第27話
「白妙は、もうかるたをやりたくないのか?」
「急に何?」
白妙は、不服そうに応じた。
星会を始めようと立ってから、千秋は天体望遠鏡の組み立てを開始した。
小型のものらしく、専用の鞄から、部品を取り出して、いそいそと組み立てているが、ちょっとタイミングが遅かったのだろう、暗さのせいで手間取っている。平野先生が手伝いたそうに見守っているが、なんとか我慢している様子だった。
その様子が珍しいのか、泉美が熱心に見入っていた。
一方で、貫行と白妙は、レジャーマットに腰を降ろしていた。
ちょっと疲れた、というのもある。女子勢の自転車講習会と歌会に、思いの外体力をもっていかれた。歌会が終わったことの安堵感もあり、あまり動きたくない気分だった。
少し離れた位置に、白妙が座っていた。彼女が動かない理由はわからない。もう、不貞腐れているわけでもないだろうが、あまり、メカチックなものに興味がないのかもしれない。
気まずかったわけでもないが、なんとなく聞いてみたかった。
貫行が話しかけた理由は、その程度のものだった。
別に返答がなくてもかまわなかった。ただ、尋ねてみたくて、つい、口から溢れたもので、相談に乗ってあげようとか、そういう意図はない。
むしろ、脳裏をかすめたのは、潮崎先輩との会話。
潮崎先輩の、矛盾した決意が、どうにもひっかかっていたのだった。
白妙はどうだろう。
同じような葛藤を抱えているからこそ、まだ、ここにいるのではないだろうか。
いくら、先生との約束だろうが、かるたをやりたくないのであれば、もう来なければいい。約束を理由にして、かるたの世界に触れていたい。そんな、意思と無意識の矛盾に苦しんでいるのではないだろうか。
勝手な妄想であるけれども、貫行は、決して大きく外れてはいないのではないかと思っていた。
「そんなの――」
言いかけて、白妙は口をつぐんだ。
そんなの当たり前じゃない。
そう言いかけたのだろうか。
なぜ止めたのか、何が止めたのか、上っ面で放てばよい言葉を、放てなかった白妙の心境の変化に、貫行は興味があった。
白妙は、しばらく沈黙していた。
怒っているようにも見えて、悩んでいるようにも見えて、ふとすると何も考えていないようにも見えた。
けれども、実際は、迷っていたようで、
「そんなの、わからないですよ」
白妙は、そっけなく告げた。
「だって、ずっとかるたをやってきたんですもん。かるたをやって、かるたのことを考えて、勝って負けて、悩んで、練習して、また、かるたをやって。ずっと、かるたを中心に生きてきたんだから」
白妙の独白は、そのまま、潮崎先輩の言葉と重なった。
どうして、彼女達は、自らの中心を一つに決めてしまうのだろう。それこそ、まるで太陽系のように、天の川銀河のように、中心を定めてくるくると回りたがる。
それが世界の真理だとでもいわんがごとく。
中心が一つしかないから、その中心がなくなると、もう回れない。彼女の世界が停止して、宇宙の藻屑となってしまう。
それでも時間は止まらないから、ただ漂う。意味もわからず、意思もなく、こんな深い夜の底で、赤毛を風に揺らす少女は、ただ星空を眺めるしかなかった。
「じゃ、やめたくないのか?」
「だから、わからないって言っているでしょ」
今度は即答だった。
「この部に入らされたときは、絶対にやめてやるって、思ってたけれどもね。あんときは、ちょっとムキになっていたし、正直ちゃんと考えられていなかったけれど、あのくそ教師に負けたときは、死んでもやめてやるって心に決めたわ」
うん、それは見てたから、すごくわかる。
「だけど、千秋先輩と喧嘩して、何だかすっきりしちゃった。鬱憤を張らせたから、かな。何だか、怒っていたことがバカらしくなっちゃって」
「そのわりに、あの後もしばらく怒ってたみたいだけど」
「え? 別に怒ってなかったけれど」
「……」
「……何よ」
「いや」
ただ目つきがわるかっただけか。
「はぁ、それでいろいろと悩んでいるときに、あんたが、歌詠みの会やるとか言い出すから、もう大迷惑よ。仮に私が怒っていたとしたら、あんたにだけよ」
さいですか。
「仕方なく参加してみれば、自転車に乗らされて転ばされるし、セクハラさせるし、歌を詠まされてバカにされるし、寒いし、虫は多いしで、ひどい目にあわされたわ」
セクハラはしていない。
「けど――」
白妙は、膝を抱えて、すっと顔を埋めた。
「まぁ、久々に楽しかったかな」
それは、始めて聞く声だったけれど、きっと白妙の声だったから、貫行は、そうか、とだけ応えておいた。
「こら、君達! 何を黄昏れているんだい? やっと星会の準備ができたというのに」
千秋は、ランプに赤い布を巻いて、光量を抑えていた。既に暗かった川辺が、いっそう暗さを増す。闇が、ぞくっと背筋に恐怖をもたらした。しかし、それも束の間、目が闇に慣れるに従って、夜空の星の白さが際立ってくる。
「私は、ここでいいわ」
白妙は空を見上げていた。
「ここで十分」
「そうかい?」
白妙が言うのもわかる。
昼間と違って、空の高さがわからないから、空と大地の境目がわからない。闇の中に溶け出すものだから、空がやけに近く感じる。星に手が届きそうな錯覚の中で、貫行は、空に散らばる無数の星々を眺めていた。
あまりにも壮大で、色鮮やかな夜空におりる霜。
薄く夜空に横たわる天の川。
かささぎの群れが架空の彼方から、羽ばたいてくる。
あそこに橋を架けよう。
羽を紡いで、星を渡る夜の橋を。
「ふふ、圧巻だろ」
夜空を抱かんばかりに、千秋は、両の手をめいっぱいに掲げてみせた。
「あの一つ一つに光が、銀河を渡ってきた距離と、地球に降り注がれるまで時間は、途方もなく遠くて、果てしなく長くて、そして、織りなす輝きはまさに美の集大成だ。これを白妙ちゃんに見せたかったんだよ」
「私に?」
「この壮大な宇宙の神秘の前では、千秋達、人間なんて、ちっぽけなものだと思うだろ? そのちっぽけな人間の諍いや悩みや、ましてや勝った負けたなんて、もはやこの上なくどうでもいいことに違いないんだよ」
千秋は言い切り、
「白妙ちゃんも、そう思うだろ?」
と尋ねた。
当の白妙は、その蒼い瞳に、深い夜と銀河の光を灯していた。
きっと、千秋と同じものを見ることができたのだろう。たしかに、白妙の瞳の奥には、夜を流れる天の川が流れていた。
ぱちりと瞬いてから、白妙は、にこりと千秋に微笑みかけた。
「いいえ、ぜんぜん思わない」
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