第7話
8世紀の思考か。
貫行は、少しだけ興味をもった。
さほど歴史に興味はないのだけれども、平野先生の話がうまいのだろう、いつのまにか引き込まれてしまっている。
いつもの物理の授業は、眠くて仕方がないというのに、不思議だ。
さて、貫行がそんな失礼なことを考えていると、平野先生は、続きを話し始めた。
「まず、単語ごとに見ていこう。かささぎ、はカラス科の鳥だな。一応聞くが見たことはあるか?」
「「「ありませーん」」」
「だろうな」
白妙が無言なのは仕様である。
平野先生は、PCとプロジェクタを繋いで、一枚の絵を投影した。
そこには、モノクロの鳥がいる。黒い羽と白い腹、くりっとした瞳がたしかにカラスのそれであり、鳥のわりに利口そうな表情をしている。羽先の蒼がわりとおしゃれだ。
「これがカササギだ。主に九州地方に生息している鳥だな。本州にも普通にいるが。ただ、8世紀の日本に、カササギがいたかどうかはわからない」
「どういうことですか?」
泉美が尋ねる。
「カササギというのは、大陸からの外来種なんだ。カササギは海を渡る力をもっていないから、貿易の過程で連れてこられたのだろう。問題はそれがいつかだが、諸説あってだな江戸の初頭だとか、飛鳥時代だとかいわれている」
「いや、いたでしょ。いなかったら、この歌は詠まれないんだから」
何を当然なことを、と貫行は突っ込んだ。
「たしかにその説もある」
「その説もある、ということは、異なる説、つまり、当時カササギがいなかったという説もあるんだね」
ふふ、と笑ったのは、千秋である。
「そうだな。たとえばこういう説だろうか。当時、大陸との交流はあった。その際に話をしただろうし、文献なども交換しただろう。つまり、カササギを見たことはなくとも、聞いたことはあった」
平野先生は頷くので、千秋は得意気に顎をあげた。
「当時はむしろ漢詩の方が主流だった。いや、仮名が発明されたころかな。つまり、大陸の情報は十分にあったということだ。その頃にカササギが連れられてきたのか、それとも、ただ名前だけが伝わってきたのかはわからない」
なるほど。そう言われると、当時、カササギがいたとは確信をもって言えないわけか。
でも、
「でも、それって重要なんですか?」
と貫行は素朴に思う。
別に当時カササギがいようといまいと、この歌は既に存在している。
「どちらでもいい気がするけれど」
「「そうかな」」
平野先生が当然のように応じたが、同時に泉美が同じ言葉を投げかけた。
かぶったことに驚いて、泉美はあわてて口を覆った。
「かぶせてしまってすまない。橘は、どういう疑問をもったんだ?」
「いえ、たいしたことではないです」
「この場では、どんな些細な疑問であってもたいしたことだ。ためらう必要はない」
「じゃ、千秋は先生の恋愛事情に疑問をもっているんだけど、これもたいしたことなのかな?」
「訂正しよう。たいしたことである可能性がある。もちろんそうでない場合もあるが、それは口にしてみなければわからない」
「千秋みたいにな」
「そのとおり。さぁ、橘がいったい何に興味をもったのかを教えてくれ」
平野先生が促すと、泉美はおずおずと口を開いた。
「いえ、本当にたいしたことではないんですけれど、その、詠み手が、カササギを知っていたかなんですけれど、もしも、カササギを見たこともない人がカササギの歌を詠んでいたら、この歌の価値がすごく下がってしまうような気がして。少なくとも私はがっかりします。なんていうか、クラシックを語っていてドボルザークを聞いたことがないみたいな」
その例え話は、微妙にずれているけれども、言いたいことはわかる。
貫行も、自転車に乗ったことのない奴に、自転車サイコー! と言われてもぴんとこない。
もしもカササギがいなかったとなると、この中納言家持という男も、いくら後代に残る歌を詠んだところで、ただの知ったかということになる。
平野先生は、頷いた。
「もっともな指摘だな。中納言家持が、想像で詠んだのか、それとも視覚的に捉えて詠んだのか、その違いがでてくるわけだ。先に俺の見解を述べておくと、前説の方、想像で詠んだのではないかと思う」
「え?」
貫行は意外に思った。
この話の流れならば、詠み手は、実は、カササギを見る手段があったのだ、という展開だと思っていたのだ。しかし、平野先生は、違うと言う。
「それじゃ、平野先生は、この詠み手は、知ったかだって言うんですか?」
「知ったかというと言葉がわるいが、想像であり、もしかしたら見たこともなかったのではないかと思う。だからといって、この歌の価値が下がるわけではないというのが、続きの話だ」
「どういうことですか?」
貫行の問が合いの手となり、平野先生は調子よく述べた。
「このカササギは比喩なんだ」
比喩?
平野先生は黒板にチョークを当て、一句と二句を囲った。
「このカササギは、一句で詠むのではなく、二句を含めて、かささぎの渡せる橋、で一つの単語として詠むんだ」
な、何だって!?
とはならない。
貫行の感想としては、単純に 何それ? だ。
「これは、直訳すると、カササギが渡している、もしくは架けている橋だが、当たり前だが、文字通りの意味ではない。カササギが橋を架けるわけがないからな」
そりゃそうだ。
「そんなのファンタジーですもんね」
「そうファンタジーだ。時代を考えると、神話が伝承といった方がしっくりくる気がするかな。当時のことを考えると、完全な空想とも思っていなかっただろうが。科学的な知識が今より少なかったがゆえに、神話がより身近にあったことだろう」
ふふ、と千秋が笑った。
「現代も、そう変わらないと思うけどね。結局、何を真実だと思って信じているか、だろ? 昔は神話で、今はそれが科学やお金になっただけ。奇妙な形の健康グッズや薄汚れた紙切れよりは、嘘くさい神話の方がまだマシなんじゃないかと千秋は思うけど」
「辛辣だな。俺はそこまで穿った見方はしていないが、まぁ、何を信じているのかが違うことは確かだ」
何だか、恐ろしい話だな。
あまり理解できていなかったが、貫行はとりあえず、ふむ、と頷いておいた。
一方で、平野先生は、続けた。
「この、かささぎの渡らす橋は、ある神話に基づいている。その神話というのは、大江、おまえなら、わかるんじゃないか?」
唐突に話をふられたわけだが、千秋は特にあわてることもなく、にやりと笑みを深めた。
「ふふ、実はずいぶん前から気づいていたんだよね」
千秋は、得意気に告げた。
「かささぎの渡らす橋。それは天の川のことさ」
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