かささぎは飛んだか

第6話

『かささぎの 渡せる橋に おく霜の 白きをみれば 夜ぞふけにける』


 黒板に書かれた文字列を見て、貫行は首を傾げていた。

 さっぱりわからない。

 かささぎに橋を渡らせる? かささぎって確か鳥だよな。鳥なら飛べばいいだろ。何でわざわざ橋を渡らせるんだ? 霜をおくって何だ? 霜が白いのを見たら夜が更けた? ていうか、夜になったら霜が白いのなんてわからないと思うんだけど。

 そして、この和歌を読んで、何を感じればいいんだ?

 もう一度言うが、さっぱりわからない。

 それは、貫行だけでなく、他の女子勢も似たり寄ったりのようだ。泉美は、百人一首の参考書のページをめくり、千秋はにたにたと笑っており、白妙は不機嫌そうにそっぽを向いている。

 方針を話し合ってから、次の月曜日の放課後、再び貫行を含めた百人一首研究会メンバーは、物理準備室に集まっていた。

 生徒に遅れて平野先生がノートPCを持ってやってきた。ノートPCだけでなく、小さなプロジェクタも用意しており、やる気満々のようであった。

 平野先生は、やってきて早々、冒頭に述べた和歌を黒板に記した。

「今日はこの歌を読んでいこうと思う」

 さて、百人一首研究会の第一回会合はこのようにして始まった。

「くだらない」

 そしてさっそく白妙が水をさした。

「まぁ、そういうな。高峰はこの歌を知っているかもしれないが、他の連中は知らないんだ」

「かるたをやりたいのなら、全首覚えて当然でしょ」

「初心者にむちゃを言ってやるな」

「そもそも選歌がダサい。そんな二字決まりのくそみたいな歌」

「ひどい言い様だな」

 平野先生は頭をかいた。

「高峰は、本当にかるた脳だな。その様子だと、『かささぎ』は感じがわるいのか?」

「うるさい」

 また不機嫌そうに白妙はそっぽを向いて、話を打ち切った。

 そのやりとりを貫行、他二名は蚊帳の外から聞いていた。聞いていたが、さっぱり何を言っているのかわからなかったわけだけど。

 二字決まり? 感じ?

 おそらく、競技かるたの専門用語だろうが、さっぱりわからない。

 それを察してか、平野先生が補足する。

「あぁ、今のは競技かるたをする上での用語だ。君らは、かるたをするときに覚えればいい。それよりも、まずは一首ずつ読み解こう」

 そう言って、平野先生は黒板に視線を誘導した。

「この和歌を知っている奴はいるか? あ、高峰以外にな」

「「「……」」」

「いないようだな。ちなみに百人一首の解説とか読んできた奴はいるか?」

「あの、私は、いちおう、さらっとこの本を」

 反応したのは、泉美だけだった。彼女は、おずおずと解説本を掲げてみせる。

 そこには、『百人一首徹底解説〜時代を超えた恋の歌〜』とあった。

 どことなく、頭がわるそうな印象を受けるのだけれども、中身はちゃんとしているのだろうか。

「お、偉いな、橘。だったら、一首目は橘に選んでもらえばよかったな」

「い、いえ。私はまだ本当にパラパラ読んだだけなので」

「そうか。じゃ、この和歌をちょっと訳してくれないか」

「え? 私がですか?」

「その本に書かれていないか? 読み上げるだけでいいぞ」

「そ、それなら」

 泉美は律儀にも、解説本を持って立ち上がった。


「かささぎが空に渡すという橋に霜がおりて白くなっている。夜もすっかり更けたのだなぁ」

 

 言い終わると、泉美は静かに着席した。

 そして、実験室には、気まずい沈黙がおりた。

 そりゃ、そうだ。

 なぜなら、この和歌の訳を聞いて思うことは一つ。

「で?」

 だ。

 正直、まったく不思議ではない。たった31文字で構成された文章で表現できることなど、そう多くはない。だから、この程度の内容。それ以上でも以下でもない。

 つい音にしてしまった貫行のリアクションに、泉美がびくりと体を震わした。

「で、と言われても、この本にはそう書いてあって」

「あ、いや、君を責めているわけではなく」

 貫行はあわてて、泉美を宥めた。

「橘、気にするな。直訳すればそんなものだし、紀本は、こういう言い方しかできんのだ」

 どういう意味だろう。

 平野先生は、さらに補足した。

「それにちょうどよい感じに何の小細工もしていない直訳でありがたい。そうだな、例えるならばプレーンヨーグルトのような訳だ」

「プレーンヨーグルト……」

 別に貶されたわけではないが、泉美は釈然としない表情を浮かべた。

 気にせず、平野先生は例えをかぶせた。

「ここから、いろいろトッピングしていこう」

「千秋は、ブルーベリージャムがいい。泉美ちゃんは?」

「え? その、私は、ハニーシロップがいいです」

「ふふふ、見かけ通りかわいいな。ちなみに貫行くんはどうだい?」

「ん? 僕はヨーグルトには何もかけないけど」

「「え?」」

 なぜかドン引きの女子二人をよそに、平野先生が話を先に進めた。

「まずは、この歌の意味だな。直訳はさっきのでいいのだが、実際にはもっと多くの情報がこの歌には詰まっている」

「情報って、文字通りに読んだらさっきの内容以上のものはないと思いますけれど」

 貫行のちゃちゃに、平野先生は「ふむ」と顎に手を当ててから、黒板に一文を書いた。


『九頭竜川 鳴鹿橋 永平寺 足羽川』

 

 一文と呼ぶには、散文的で、言葉の集合と呼んだ方がいい。

 そんな意味不明の単語の羅列を指して、平野先生は泉美に問いかける。

「これをどう思う?」

「どう、と言われても、地名です」

 たしかに、そこに書かれたのは、この地域で有名な地名と川の名前だ。

「そうだな。大江はどうだ?」

「そうだな、特に規則性は見えないね。ここからの方角もバラバラだし、属性も違う」

 千秋はホールドアップして見せた。

「高峰はどうだ?」

「……意味不明」

 白妙がやる気なさそうに答えた後、平野先生は貫行に問うた。

「だそうだ。紀本、おまえは、これが何かわかるんじゃないか?」

 貫行は、首を傾げる。

 貫行ならばわかる? それはどういう意味だ。

 たしかに、貫行はこの地名をよく知っている。どういうわけか、とても馴染みがある。それはなぜか。どこで聞いたのか。

「あ、自転車か」

 頭の中で、かちりとピースの嵌まる音がした。

「自転車?」

 泉美が不思議そうに首を傾げる。

「うん。このルートは、けっこう有名なサイクリングコースなんだ。九頭竜川の堤防から、鳴鹿橋を通って、永平寺に向かって、そのまま飛鳥川に抜けるっていうかんじ。この時期なら飛鳥川の桜がきれいだね」

 それぞれの単語の地名を思い起こしていったら、いつの間にか、イメージの中の貫行は自転車に乗っていた。それは何度か見た光景だったからだ。九頭竜川の堤防の刈り上げた草の匂い、寂れた橋、湿り気の帯びた木陰と静謐な石畳、そして雄大に流れる足羽川。

 たった四単語が、貫行の脳裏に悠々と情景を浮かび上がらせた。

「なるほど、暗号解読鍵が必要ということだね」

 千秋がにたりと笑った。

「そのとおり。この四単語は、サイクリングコースで通る地名を連ねたものだが、紀本以外は、ただ単純に川と橋と寺が頭に浮かんだことだろう。しかし、紀本だけは、その地域を自転車で駆け抜けた。自転車という文字など書かれていないがね。それは、俺が伝えようとしたことだが、それが正しく伝わったのは、紀本だけだった。それはなぜか」

 平野先生は、一拍置いて、

「解読鍵、つまり共通知識がないからだ」

 チョークをくるりと指先でまわした。

「自転車をやっている紀本だから、この単語の関連性に気づいた。つまり、知っているからわかったんだ。知らなければわからない。ただの文字列になってしまう。さて、ここまで来れば、俺の言いたいことがわかると思うんだが」

 目が合ったので、貫行は仕方なく答えた。

「和歌も、その著者と同程度の知識がなければ、正しく読み解くことはできない」

「その通りだ」

 平野先生は頷いた。

 なるほど。31文字だから情報が少ないのではなく、31文字というルールの中で、何かを伝えようとしているため、情報が圧縮されているのか。

 貫行が納得していると、泉美がおずおずと口を開いた。

「でも、それってすごく難しいことだと思うんですけど」

「なぜだ?」

「だって、それって、この和歌を書いた人と同じ知識を持つってことですよね? この和歌が書かれたのは、えっと、700年とかの時代ですよ。その時代の人と同じ知識を持つなんて、できるんですか?」

「もっともな指摘だ」

 平野先生は、チョークで8世紀と記した。

「たしかに、俺達とこの歌の作者とされている中納言家持の間には千年以上の隔たりがある。だから、彼の思考を追随するのは難しいと思えるかもしれない」

 たしかに。

 少なくとも貫行には想像もできない。

 ただ、難しいからできない、なんて話にはなるわけもなく、もちろん平野先生は「しかし」と続けた。

「しかし、中納言家持から俺達の間には多くの先人達がいた。彼らは俺達よりも時代が近いから、この和歌についてしっかり読み解いてくれている。その解説が、今に至るまで伝えられているし、たくさんの本にもなっているんだ。21世紀に生きる俺達だけれども、そんな先人達の功績を参考にすれば、8世紀の思考に近いものを得られるはずだ。よし、それじゃ、この歌を通して8世紀の思考を体験してみよう」

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