第2話
無事に進級を果たし、新年度を迎えた高校二年の春。
貫行は、相も変わらず粛々と学生生活を送っていた。
進級とはいっても、まともに授業に出ていれば、成績の優劣にかかわらず、自動的に進んでいくエスカレータのようなシステムに感動を覚えろという方がむりな話である。
春休みの気の緩みと、季節柄の陽気が相まって、午後の授業中などは睡魔との戦いであった。
まぁ、平和な昼下がりである。
ただ、他の生徒達は、なかなか気難しい課題を抱えていた。それらしい言い方をすればコミュニティの再構築、つまりは友達づくりだ。
クラス替えによって、昨年度一年間で築いてきた友達コミュニティは瓦解して、再度の構築を強いられていた。
今後の一年間を過ごす上で、初動は非常に重要であり、クラス内では、お互いに空気を読み合ったぎこちない会話劇が繰り広げられている。
他人事のような態度をとる貫行であったが、実際、貫行は他人事と思っていた。
そもそも貫行は、瓦解するようなコミュニティに属していない。ないものを再構築する必要はなく、新しく設立するつもりもない。
一人でいることは苦手でないし、むしろコミュニケーションを億劫に感じる。
だったら、むりに自分から付き合う必要はない。
ただ、貫行にも友達はいる。中学のときには三人ほどいたし、昨年度も同じクラスに一人いた。これだけいれば、十分だと貫行は思っている。
ついでに、クラス替えとは無関係な自転車旅行部というコミュニティに属していたのだが、それは昨年度末に瓦解した。これこそ、まさに瓦解したわけで、潮崎先輩とは、春休みも新年度が始まってからも会っていない。
意外と、あの部活は、潮崎先輩との交流を図るために必要な場所だったのだなと今更ながら気づく貫行であった。
そんなコミュニティ論に耽っていたら、いつの間にか帰りのホームルームが終わっており、クラス長が起立の号令をかけていた。
放課後になって、生徒が各々の部活動へと向かう。おい、はやく行こうぜ、今日はさぼってカラオケ行かない? シューズ買い替えたんだ。
ざわめきが竜巻のように教室内を吹き渡って、廊下へ徐々に消えていく。あらかたの声が過ぎ去ってから、貫行はゆっくりと席を立ち、教卓の方へと向かった。
「先生、百人一首研究会ってどこで活動するんですか?」
担任の
「あぁ、言ってなかったっけ?」
「聞いてませんよ」
小さくため息をついて、貫行は呆れたことを示した。
平野先生は、白髪交じりの長髪のせいで、わりと高齢に見られるが実際にはまだ二十代だと言っていた。いわれてみれば、顔などにたるみもなくシュッとしているが、よれよれの白衣や、半分閉じたような両眼に活力は感じられない。
昨年度の貫行の担任も平野先生であり、知った顔である。彼は、しっかりしていそうで、ときおりこういうふうに抜けた一面もあり、昨年度も、何度か授業に教科書を忘れてきて、職員室に取りに戻っていた。
「先生から誘ったんだから、ちゃんとしてくださいよ」
「いや、すまない。紀本ならいつでも言えると思って、つい忘れてしまったよ」
まぁ、いわんとすることはわかるが。
百人一首研究会なるものを、貫行がみつけてきたわけではない。この男、平野先生によって勧められたのだ。もともとこだわりはなかったし、顧問である平野先生がときには部活動中に勉強も見てくれるという特典を用意されれば、断る理由もない。
「どうせ今からいくなら、先生についていくので教えてくれなくてもいいですけど」
「あぁ、わるいが、ちょっと寄るところがある。紀本は先に行って、俺が遅れることを他の連中に伝えくれ」
物理実験準備室だ、と平野先生は述べた。
「そんな教室ありましたっけ?」
「あったんだよ。旧校舎の二階の端だ。物置にされていたんだが、片付ける代わりに使わせてもらえることになったんだ」
よほどたいへんだったのだろう、平野先生は深いため息をついた。そして思い出したように腕時計を見て、手帳をぱたんと閉じた。
「それじゃ、頼んだぞ」
半ば駆けるように教室を出ていった平野先生を目で追うのをやめて、貫行はリュックを取りに自席に戻った。
そして、平野先生の言葉を反芻する。
――他の連中。
別に仲良くなりたいとは思わないが、つつがない関係を結べればよいなと思う。ただ、貫行がそう思っていても、相手がそう望むかはわからない。
だから、面倒なのだと独りごち、貫行は教室を後にした。
★★★
旧校舎は、新校舎から一度出てしばらく歩いたところにある。授業がここで行われることはなく、基本的には文化部の巣窟と化している。
旧くはあるが、どっしりと構えており、まだまだ現役だぞ、と声が聞こえてきそうだ。
外では野球部の活気あるかけ声が響いていたが、旧校舎に一歩踏み入れれば、一転してもの静か。それぞれの教室で活動をしているはずだが、薄まった談笑の声と、遠くで鳴っているフルートの音色が浜辺の波のように揺れていた。
異質だな、と元運動部の感性を働かせてみるものの、嫌いではないな、と貫行はその異質な空間を早くも受け入れていた。
貫行は、煤けた階段を登って二階へと出る。一番端と言われたが、どちらの端なのかを聞くのを忘れていた。とりあえず、奥行きが短い方を尋ねてみると、そちらは生物実験室で、将棋部が使用していた。
こういう勘は当たらないんだよな、と肩を落としつつ、貫行はもう一方の端へと向かった。
物理実験室の前を通って、その先の物理実験準備室の表札をみつける。
そもそも物理実験室とは、一体何をするところなのだろうか。物理の授業は座学しかなかったはずだが、昔は実験もしていたということか。得体の知れない実験室の、さらに準備室というのだから、さらに不可思議だ。
しかも、そこで行われるのは百人一首の研究会。
これは混沌極まれりだな。
その混沌とした教室で待っている生徒達には、ぜひとも秩序と安寧を求めたいところだ。できれば無関心なども要求したいが、それは欲張り過ぎだろう。
ままよ、と意を決して貫行は準備室の扉を開けた。
「だから、私はちびじゃありません!」
飛び出してきたのは、貫行のあまい考えを否定するかのように強烈な、女子の怒声であった。
何事か? と思うよりも先に、帰りたいと貫行は咄嗟に思った。しかし、既に入部手続きを終えており、今から転部するのはさらに億劫だと、仕方なく、何事か? と貫行は思案し直した。
教室では、二人の女生徒が向かい合っていた。一人は椅子に座って机に肘をついており、もう一人は貫行に背を向けるように立っている。
どうやら、ちび、と言われたのは立っている方の女子である。座っている方は、そんな大声を出しそうな表情をしていないし、何よりも、立っている方はどう見てもちびであった。
「わからないね。君がなぜ怒っているのか。千秋は、君の身長が低いという身体的特徴を用いて、君のことをおちびちゃんと呼称しただけなのだが」
「だから、ちびって言わないでください! 失礼でしょ!」
「そこがわからないんだよ。どうして事実を言われることを不当と思うのか。君がちびであることは、君が人間であることや、女であることと同じことだというのに」
「私はちびじゃありません!」
「高校生女子の平均身長は、157センチ。標準偏差が5センチだから、君の推定身長から察するに、君よりも背の小さい子は数%しかいない。とすると、俗にそういう身長の子をちびというだろう?」
「何言っているのか、意味がわかりません!」
まったくだ、と貫行もおちびちゃんの意見に賛同した。
だが、座っている方の屁理屈女子は、意に介さないといったふうに眉をしかめる。どうして今の説明で説得できると思ったのか理解に苦しむが、彼女は十分に説明したつもりらしい。
と、そのとき、屁理屈女子は、ふっと視線を貫行に向けた。
「おや、どうやら新しい部員が来たようだよ」
告げられて、おちびちゃんは、貫行の方を振り返った。そして、カッと頬を染め、しおしおと身を縮めた。
先程までの口論を見られたことを恥じているのだろう。安心していい。おちびちゃんに批判的な意見をもってはいない。むしろ同情する。
一方で、屁理屈女子は、にんまりと笑みを深めた。
「これは、また変人がやってきたものだ」
「「あんたが言うな」」
百人一首研究会の部員で行われる最初の共同作業は、何が悲しいかな、突っ込みであった。
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