人でなし西萩の諸々の記録

黄鱗きいろ

人でなし西萩シリーズ

人でなし西萩の入水

 なんでこんなところに来たんだっけ、と考える舩江の眼前には、広い砂浜と寄せては返す波打ち際があった。

 どうしてこうなったのかはまあなんとなくは分かっている。たしか些細なことで口論になって、売り言葉に買い言葉で何故か海に来ることになって、だけど秋も深まるこの季節の海には人っ子一人いるはずもなく、砂浜の縁の階段に舩江はぼんやりと座る羽目になっていた。

 西萩はといえばスーツの裾をまくって靴と靴下を手に持ったまま、波打ち際で水を蹴りあげては遠くで歩いている。

 子供のようなその行動に呆れながら暮れかけた空をぼーっと眺めていると、不意に西萩が立ち止まったのが目に入った。

 手に持っていた靴下を丸めて入れた革靴がぼちゃんと音を立てて海に落ち、そのまま西萩はふらふらと海に向かって歩き出した。

「なっ……」

 最初の数歩は何かの冗談かと思った。だが、膝が沈み、スラックスが水浸しになってしまっても西萩は止まらない。離れた場所に座っていた舩江は慌てて西萩に駆け寄ろうとした。

「西萩!!」

 名前を呼んでも西萩は止まる気配を見せない。いよいよ慌てた舩江はスーツが濡れるのも構わずに海の中へと駆け込み、もう腰のあたりまで沈んでしまった西萩に向かって手を伸ばした。

 どぷんと。海底の深いところを踏み抜いたのか、西萩の姿が一瞬、舩江の前から消える。舩江は自分も溺れてしまうのも覚悟の上で海に潜ると、沈んでいく西萩の手を掴んで無理矢理に引き戻した。

「うえっ、げほっ、げほっ」

 海面から顔を出した西萩は飲みこんでしまった海水を吐き出して息をする。舩江はなんとか足のつく場所を見つけると、西萩の体を抱えたまま波打ち際のあたりまで戻ってきた。

「あはは、びしょ濡れだね」

 呑気にからから笑う西萩に、舩江はとうとうブチ切れて、西萩の顔をおもいっきりぶん殴った。

「いたた、いきなり何すんのさ舩江」

「それはこっちのセリフだ! テメェ、自分が何やってんのか分かってんのか!!」

 西萩はきょとんと目を丸くした後、にへらと笑った。

「え? なんか呼ばれた気がして?」

 言葉を失う舩江をよそに、西萩は水平線の方を見やる。

「ここで沈むのもいいかもなーって」

「な……」

「寒いからそろそろ上がろっか」

 軽い調子で言うと、西萩は舩江を置いてさっさと海から出ていってしまった。残された舩江は呆然とそれを見送った後、闇色に染まりつつある海を睨みつけた。

 今は盆過ぎだ。性質の悪い船幽霊にでも呼ばれたのだろうか。そう思い、人外の残滓を探ろうとしてみたが、まるで見つからない。そこにあるのは日暮れ近くのただ静かな海ばかりだ。船幽霊じゃないならなんだ。どうしてあいつは海の中に行こうとしたんだ。

 ――まさか。

 舩江は不意にある可能性に思い至る。突拍子もないその可能性は、だけどある種の説得力を持って頭の片隅にこびりついた。

 ――まさかあいつは本当に気まぐれで死のうとしたのか?

 背筋に寒いものが走り、舩江は立ち尽くす。そんな舩江に、砂浜の向こう側から西萩は能天気に声を張り上げてきた。

「舩江ー早く帰ろうよーー。風邪ひいちゃうよーー」

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