rail
勝次郎
一駅目
私は昔からそうだった。目を背けたくなるような現実を突きつけられたり、嫌なことがあると爪を噛んでしまう。深く、深く、肉まで削ぎ落とすように、自らに牙を向く。
この癖はもう十一年前、小学二年生の頃から変わってない。
この癖が始めて出たのは祖父のせいだろう。祖父は幼かった私に弁護士になれと毎日のように言い聞かせた。だが、当時の私にも夢があった。今では忘れてしまったそれだが、当時の私にとってはとても大事な夢で、その夢を妨害するかのように立ちはだかる祖父が憎くて憎くて堪らなかった。
私のことを自分が引いたレールを走らせようとする祖父が気にくわなかった。
けれども、私はそんな祖父を表面上では愛していた。これは呪いに近い何かなのだ。私は本心を自らの意思でねじ曲げてしまうのだ。それが良いことにせよ、悪いことにせよだ。
そんな私はせめてもの抵抗として、祖父に自らの爪を噛む仕草を見せつけたのだ。目の前で血が溢れ出てきても噛むことを止めずに。
始めて爪を噛んでから数年後、祖父はなくなった。
そして、高校三年生の10月、私は久しぶりに血が出るほど爪を噛み続けた。
突然呼び出された職員室。私は自分で言うのもなんだが、正しく優等生だ。いや、上手く優等生の皮を被っている。だから私が呼び出される理由なぞ、マイナスの意味合いでのことはないのだ。そう確信していた。
時刻は4時半を回っていた。曜日は水曜日で廊下を歩く私の横目には、校庭で部活動に励む生徒の姿が映った。
彼らは額に汗を垂らし、自分の限界に挑戦するかのように校庭を駆けずり回っていた。将来それを仕事にできるものなどほとんどいないそれに、青春を浪費する彼らの姿は、どこか常にねじ曲げることしか考えていない私にとっては、あまりにも純粋で、無垢で、眩しくて、捻り潰してやりたいという気持ちに陥った。そう、これが私だ。こんなのが優等生だと祭り上げられ、生徒会に推薦されるのだ。この学校も程度が知れている。
その私の中の濁った感情を体の奥深く、臍の更に奥に押し込め、到着した職員室のドアをノックする。
「三年三組の沢村です。松下先生はいらっしゃいますか?」
優等生らしい、よく通る声で、ハキハキと職員室全体に響くように私は言った。
「おぉ、来たか。入っていいぞ」
奥から野太い声が響く。その声に隣に座る女性教師は少しばかり嫌悪感を抱いたのかキャスター付きの椅子を転がし、その声の主から数十センチ程遠ざかる。だが、そんなことを気にすることもない様子で奥で手招きをする松下恭三の元へ私は向かった。
「失礼します」
松下恭三は私の担任であり、数学の教員だ。身長は凡そ百八十センチ程あり、体はラグビー選手のようにガッチリとしている。顔は浅黒く、常に自信に満ちた表情をしている。このタイプは私はとても嫌いだ。
丁寧に松下の机の前には、一脚パイプ椅子が用意されていた。
「まぁ、座れや」
「ありがとうございます」
「相変わらず堅苦しいやつやなぁ……まぁ、いいわ」
松下はおもむろに机の上に置いてあった黒いファイルに入った、重要そうな資料を取り出した。
「今日呼び出したのは推薦の話についてや」
うちの高校は成績優秀者に指定校推薦が与えられる。そして、更に上位の成績を保持するものには、大学側から直接声がかかる。
「それでな、お前の成績でな国立の京清大学から声がかかったんだよ」
京清大学と言えば、日本でも有数の国立大学であり、エリートコースに乗りたい学生やその親どもが金を積んででも行きたいと願うような大学だ。
「僕に……ですか?」
「あぁ、そうだ」
ほかの生徒なら喉から手が出る程欲しいであろうその推薦だが、私にとってはどうでもよかった。
だが、その場で断ることは出来なかった。
「家に帰って親と相談してみます」
そう私は松下に言った。
すると松下は一瞬険悪な表情を覗かせる。だが、それは直ぐに不思議そうな表情へと取り繕われ、次のような質問を投げ掛けてくる。
「お前は変わったやつだな。普通のやつなら即決だぞ? それにこれをもらうために勉強してきたんじゃあないのか?」
いや、違う。私はそんなものを貰うために勉強してきたんじゃない。別になにか理由があってしてきた訳じゃない。全ては呪いにだ。
「頼むよ。お前弁護士になりたいんだろ?」
そうだ。私は三月の三者面談で確かにそう言った。あれほど憎んでいた祖父からのレールに乗って進んでいるのだ。そう、降りたくても降りられないだ。自ら大地に轍をつけることもできず、今の今まであの、憎いレールをひた走ってきのだ。
だからだ。勉学も生徒会も推薦も全てレール上なのだ。
呪われたレール上なのだ。
「まぁ、そうですけど……」
「だったら迷うことはないだろう?な?」
少しうつむきがちになった私の顔を下から覗き込む松下に一瞬の殺意が芽生える。
直ぐに私は顔を上げ、松下から目をそらす。
「頼むぜー? 推薦を受けてくれよなぁ」
私は今の一言で確信することができた。こいつは私のレールを利用して自らの欲を満たそうとしている屑に他ならないのだと。
自分のクラスから国立大学、ましてや京清大学が出たとなれば、教師としての株も上がり、はくもつく。だから私に推薦を受けて欲しいのだ。だから私が行こうが行くまいが関係ないのだ。誰が行っても同じであり、京清に進学したクラスの担任という肩書きが欲しいだけなのだ。
私はその時、職員室の窓の外からサッカー部が蹴り出したボールが晴天の雲一つない空に吸い込まれるようにかけ昇っていくのを見た。それと同時に職員室の手前の木から落ち葉が重力に負け、落下する姿も見た。私はどちらかと言えば後者なのだろう。けれども、その両者ともレールなど敷かれていない。自由に飛んでいったし、落ちていったのだ。じゃあ、私は一体なんなのだろうか?
「やっぱり家で話し合います」
「わかったよ。決まったら連絡をくれ」
松下の顔はよく見ず、私は職員室を後にした。けれども、その顔はきっと不自然に歪んでいたと思う。
家に帰ると誰もいなかった。
両親ともに共働きの私の家ではそれは当たり前だった。祖父も祖母もなくなってがらんとした自宅には常に私一人だ。
私は自室へと入り、鞄を机の上に置き、ベットの上に倒れ込んだ。
一瞬、空にはね上がるボールが頭をよぎった。重力にも逆らい、何者にも囚われない自由人のように白黒のそれは大空を飛翔する。しかし、それは次第に重力に打ち勝つ力を失い。何かにがんじがらめにされ地上へと落ちていく。
ダメだ。それではダメだ。それはそうあってはいけないのだ。自由を求めるものが自由に囚われてはいけないのだ。
なら落ち葉はどうだろう。あのとき見たあの落ち葉。あれならばどうだろう。
落ち葉は風に吹かれ自在に方向を変えながら、地表へと向かっていく。ダメだ。結局地面に囚われてしまうのだ。
じゃあ、もし、私がこのレールから脱することができたとしても、気づかないうちに違うレールにはまってしまい、駅を経由し、終点を迎えてしまうのだろうか。結局自由という偽物に囚われて死んでいくのだろうか。それは嫌だ。
私はベットから飛び起き、机に向かった。
勉強しているときが夢を見させてくれる。よく、勉強すれば将来好きなことができるよと小学生のうちに言われる。それができたらどんなに素晴らしいか。でも、それは嘘だ。でも、嘘だとしても勉強をすることは私にとっての唯一の救いなのかもしれない。
だが、それは全て、弁護士になるレールに沿っているのだ。
夢中になってノートを消費し続けていると時刻は既に九時を回っていた。
そして、タイミングよく母親も帰宅した。
二階にある自室から食卓のある一階のリビングへと降りる。
「ごめんね。今日も遅くなって」
「気にしないで。仕事大変なんだから」
母は力なく笑いながら謝罪した。
頬は窶れ、腕は触っただけで折れそうなぐらい細い。その細腕でテキパキと食事を用意する母の前でも私は出来の良い息子だった。
母はパートタイマーだ。しかし、明らかに時間外労働をしている。それは私の学費を稼ぐために無理をしているのだ。そう思っている。しかし、私の頭の中には、いや、腹の奥底にはやはり、ネジ曲がったどす黒い思考が渦巻いていた。
それに言わせれば母親は上司に時間外労働を強要されているだけであり、私のことを思っているわけではないと。
やはり、これは呪いだ。自己嫌悪が止まらない。
「さ、食べよっか」
力なく笑いかける母の声で食事の準備が出来たことに気づく。
「そうだね」
一言だけそういうと私は席についた。
しばらくは無言で食べ続けた。
夕食は殆どが冷凍食品とスーパーの惣菜だった。
「美味しいよ」
私は母に感謝をのべる。でも、これが母にとっては嫌みにしかならないのもわかっている。けれども、私はそれ以上の言葉を考えず、食事の際にはその言葉母に浴びせる。
「そ、そうね……」
悲しそうな顔をして母が言う。
ここまで常に悲哀に満ちた表情を浮かべるようになったのは父が無くなってからだろうか。だから、正確には五年前だろう。
あのときから私は変わらなかったと思うが、比較すれば今よりは卑屈ではなかっただろう。
父は普通に会社員として働いていた。
しかし、ある日突然交通事故に遭い亡くなった。
とてもあっけなかった。朝見送った、元気な父が顔の原型もとどめない肉の塊になって霊安室に安置されているのを見た私はなにも考えられなかった。
母はその場で泣き崩れ、数日は何も出来なかった。
それからだ。母が悲哀に満ちた表情を多くとるようになったのは。
父は何故か、亡くなる直前に私にこんなことを言っていた。
「立派な大人になるんだぞ」
私はそれに対して、
「努力する」
そう答えた。
「お前は弁護士になるって親父もよく言ってたし、きっと立派な大人になるんだろうな」
きっと父は何気なくその言葉発しただけなのだろう。意味も意義も悪意も善意も何もこもっていない、話の流れとしての発言だろう。
しかし、私はその言葉聞いて一瞬の嫌悪と憎悪と殺意を覚えた。
私は父のことは嫌いではなかった。むしろ尊敬していた。しかし、その時口に出さずとも一瞬だけそう思ってしまったのだ。
それから父は死んだのだ。
もしかしたら私が父を殺したのかもしれない。
思考は現実化する。誰かがそういっていた気がする。
「ごちそうさま」
私は夕飯を食べ終え、二階に上がろうとしたとき、あの話を思い出した。すっかりと忘れていたあの
「母さん。あのさぁ、話があるんだけど……」
私は母に声かけた。
「どうしたの?」
またもや弱々しく受け答える母。
「実は推薦を貰えることになったんだ……」
「よかったじゃない!」
母はこの日一番の笑顔を私に向けた。
「でも、京清だし、勉強についていけるかどうか……」
「京清!? すごいじゃない!」
母は私の言葉を遮るかのように、くいぎみでそう言った。
「おめでとう。それでも、試験はあるんでしょ? 頑張りなさいね」
「うん」
私は頷くしかなかった。
圧し殺したのだ。母なら否定してくれるかもという期待は打ち砕かれた。
まぁ、否定するはずないのだ。推薦であれば学費もそれなりに免除される。今のうちの経済状況を鑑みれば、母の反応は普通であり、一般家庭であれば京清に推薦で行くなど夢のまた夢。母に悪気はないのだ。
けれども、私は炊事に戻った母を後ろから睨み付け、爪を深く噛んだ。
見れば赤い血が滲んでいた。
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