活けられていない花瓶

@moonbird1

第1話 青いバラは奇跡

 生きる意味、とか、人生の価値、とか、死への恐怖、とか――まぁ、挙げていけばキリがないのだけれど、そんなことに思い悩んだり、考え込んだりして眠れない夜を過ごす奴らは馬鹿だと思う。


 なんでかって? 答えは決まっている。そんなことに何の意味もないからだ。


 繰り返すけれど、生きる意味に意味なんてないし、人生に価値なんてないし、死は恐怖でもなんでもない。そもそも、この世に起きる事象の意味なんてものは、初めからあったんじゃなく、後から人間が考えたことだ。もっと人間が馬鹿だった頃、猿と見分けがつかなかった頃には、そんな大層な悩みなんて考える奴はいなかったんだ。猿共は頭が悪かったが、一生懸命にその日暮らしを頑張っていたんだ。そこに意味なんていう、なんというか中身みたいなものはなかったに違いない。


 例えば――そう、朝のまばゆい光を受けて煌めいている花瓶に目をやる。花言葉なんつーのは、その代表格だ。元々花があって、その花は花以上でも花以下でもなんでもないのに、人間がおこがましくも勝手に花言葉なんてものをつくりやがった。赤は愛、白は無邪気、青は奇跡でーすなんて、馬鹿らしい。


 おふくろの好きだった花を思い出そうとしたが、ニートの固い頭では無理だった。


 社会から遠のくということは、人間から動物に退化していくことだと思う。感覚が愚鈍になり、食欲と性欲と睡眠欲に支配されるようになり、世の人間たちが欲しがる色々なもの――たとえばつながりだとか愛情だとか出世欲だとか金だとか、そんなものがどうでもよくなってくる。だんだん人生が無意味なものに思えてきて(それが真実なのだが)、この無為な時間が永遠に続くことに恐怖を覚えるようになる。それが嫌になったやつは仕事を探したり何かを始めたりするだろう。それに慣れてしまった人は、俺のような世捨て人になるだけだ。


 人生は神ゲーとか、人生は運ゲーとかいうコピペがあるのを知っているだろうか。 あれ全部紹介すると長いからさ、はしょるけれど、糞ゲーの方のコピペはなんか人が多すぎる、とか、友達がいないのに強制だとか、イージーモードで始めた奴しか楽しめないとかそんなことが書いてある。神ゲーの方のコピペには、頑張ればギリギリ敵を倒せるとか、本気で自分を愛してくれる人がいるとか、深い感動があるとかいうことが書いてある。


 俺はどちらの意見も無下にするつもりはない。きっと、どちらの意見も正しい。だけど、ニートの立場から言わせてもらえるなら、人生は運ゲーだと思う。


 俺は裕福な家庭に生まれた。両親ともに大学教授だった。小さい頃から一等地に住み、部屋の数は数えきれないほどあった。両親は研究が忙しかったのか子育てにはあまり熱心ではなく、俺のことなどどうでもいいようだった。俺は特に勉強せず、いわゆるFラン大に入り適当に過ごした。遊び惚けたわけでも、何かに打ち込んだわけでもなかった。


 就職活動に失敗した時も、親はさして気にするようでもなかった。ゆっくりやりたいことを見つけなさい、と言っていた気がする。


 それからしばらくして、両親は他界した。夫婦で旅行に出かけた帰りに、車が事故に遭った。即死だったらしい。莫大な遺産が入った。


 俺は一生働かなくても暮らせるだけの金が手に入った。


 葬儀だか通夜だかはあっという間だった。遠方にいた兄が全部やってくれた。実感がわかなかったが、仕事上の知り合いと名乗る人から、「惜しい人を失くしました。ご両親は研究の発展に大いに寄与してくださいました」という言葉をいただいた。俺は両親が何の研究をしていたのか、知らなかった。


 帰り際――何の帰り際だったかも忘れた。通夜か葬儀か、それとも全く関係のない時だったのか、とにかくその時、兄は俺に「もっとちゃんとしろ」と言った。


 それが何か具体的なことに対する忠告だったのか、包括的な叱責だったのかは分からなかった。


 身の上話が長くなったけれど、とにかく人生は糞でも神でもなく、運ゲーだと思う。運に恵まれた人間は無条件に幸福を手に入れられる。恵まれなかった人は何も悪いことをしていないのに命の危険に晒される。


 俺は前者だ。今この瞬間に飢餓に飢えているアフリカの少年は後者だ。


 ……不謹慎と怒られるかもしれない。単なるたとえ話だ。ある種の表象として使っただけだ。このことを考えるとき、「アフリカの少年」という単語は出てくるが、その具体的な姿は思い浮かばない。もしかしたらその子は地を這いつくばっているのかもしれない。右腕に銃を構え、交戦しているのかもしれない。鍬を持ち、畑を耕しているのかもしれない。もしかしたら友人と楽しく話しているのかもしれないし、恋人と夜を共にしているのかもしれないし、明日のデートの予定を考えているかもしれない。そのすべてが考えられた。未来はどれか1つだけれど、俺の想像はすべてが宙に浮いている。


 例えば、俺が兄を殺す瞬間の方が、ずっとずっと確実にイメージできた。


……不謹慎と怒られるかもしれない。だがそれを咎めるのは、他でもない兄本人だけだ。


 人生は運ゲーだ。俺は幸福で、たとえば、俺のメールの相手は不幸だ。


 「You got a mail.」というアナウンスが流れる。どこかで聞いたことのある女性の声だ。昔、英語の授業で聞いた気がする。毎年毎年、新たな教材に声を吹き込む。縁もゆかりもない日本の学生(中学生や高校生)のために。


 それが仕事だというなら、俺には出来なくて当然だと思う。


 とにかく、俺のメールの相手、YUKA(仮名)について話そう。

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