鏡の水族館

康平

散華

 昨日は、春の嵐が通って行った。

 このスロープにも区別なく通ったようで、左側にだけ植わっている木から落ちた花弁が、嵐の足跡を示している。

 多少曇ってはいるが翌日の午後ともなれば、地面にべったりと貼りついていた花弁も、からりと乾いて時折風に吹かれている。


 たん、と後ろから音がした。


 走って私に追いついてきた彼女は、私の前に回り込んで、また、たん、と音を鳴らす。

 にっこりと笑うと、今度は私に背を見せて、たん、たん、たん、と跳ねる。

 そうすると、彼女の足音に合わせて、花弁がふわ、ふわ、ふわ、と足に纏わりつく。



 何を踊っているんだい。

 わたしが踊るんじゃなくても、はなびらが踊るのよ



 そうら踊れ、と、まるで、にでもなったように、たんたんたんたん、散花を舞い上がらせる。


 

 そんなに躍らせちゃかわいそうだよ。

 わたしは力いっぱい歩きたいだけ。


 

 春の喜びを、生きている祝福を、彼女は足音と花弁に込める。



 それは、当てつけかい?

 風さえ起こせれば、はなびらは踊るの。風を起こせないものなんて、いないんだから。


 

 彼女は地面から花弁を1枚掬った。私は彼女が乗せやすいよう手を出してやる。


 ふう。


 息を吹きかければ、彼女の足に纏わりつくのと同じように踊りだす。


 ほうら。


 飛んで行った花弁を見て、彼女は得意そうに笑った。


 彼女の視線が、1枚の花弁からスロープの先へと落ちた。

 スロープの先は、灰色だ。

 力いっぱい歩くのをやめて、走り出す。

 スロープの終わるところで彼女は立ち止った。


 

 スロープの先は灰色だ。

 スロープの下も、灰色だ。

 彼女のご自慢の一歩を下すべき場所は、なかった。


 

 彼女は灰色の町を見下して、迷子のように暫く立ち尽くした。


 彼女の後ろから風が吹く。

 先程の花弁が彼女の足元を通り過ぎていく。

 彼女は振り向いて、木を見つめ、それから初めて口を開いた。


「なんで、さくらはのこったんだろうね」

 ひとりの少女の呟きは、1本の木と1本のスロープだけの町に、響くこともなく消えた。

 私は、さあね、と風の声で言ってみた。


 たん、と力いっぱいの、そのご自慢の一歩を、彼女は見事に下した。

 彼女は、全速力で、もと来た道を、スロープを駆け下り始めた。

 ふわ、と花弁が舞い上がる。


 スロープの先は、ほんの少しだけ、色が付いたように見えた。

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