くまと踊ろう
日暮奈津子
第1話
気がつくと、彼はくまでした。
そもそも最初の生まれた時から彼はくまでした。
黄色いフェルトの布でできた体にふかふかの綿を詰め込んで、赤いベストを着た、あのディズニーのくまです。
どこかの大きな工場で生まれた時から、彼は自分と同じ、たくさんのくまたちと一緒でした。
大量生産されたくまたちは、箱に詰め込まれてトラックで運ばれる間も、おみやげ屋さんの売り場に並べられている間も、コロコロ、キャッキャと騒いでいました。
「どんな可愛い子供が僕たちを買ってくれるのかなあー!」
「ううん、大人のお姉さんたちだって、こんなに可愛い僕たちを買ったなら、きっとすごく気に入って、すごく可愛がってくれるに違いないよ!」
そうやって他のくまたちがもふもふワイワイと騒いでいても、彼は一人、そのおしゃべりの中に加わろうとはしませんでした。
「ふん、くだらない。何が可愛がってくれるに違いない、だ。」
なぜなら、彼は筋トレが趣味のマッチョだったからです。
「確かに俺はくまだがな。可愛らしさなんかが俺の価値じゃないんだ。見た目はこんなだが、30kgのダンベルだって軽々さ。ベンチプレスをさせりゃあ、スポーツクラブで一番重いウェイトのやつだって簡単に持ち上げてみせ……」
「あたし、これにする!」
くまの独り言は、突然現れた女の子に売り場の棚からひょいと持ち上げられて途切れました。
「わわっ! いきなり何を……」
ですが、ぬいぐるみのくまの声が人間に聞こえるはずもありません。
「まあまあ、そんな大きなのを買うの?」
母親らしき女性が、女の子を呆れ顔でたしなめています。
「いいじゃない。だって今日は特別よ! 4年に一度のお祭りなんだから!」
「仕方ないわねえ……」
去年生まれた自分の弟よりも大きなくまを抱えて駆け出す女の子の後を、母親は慌てて追いかけました。
「俺はどこへ連れて行かれるんだ……」
突然の出来事に、くまはなんだかぼうっとしたまま、女の子の腕に抱かれて運ばれていきます。
「4年に一度のお祭りっだって?」
母親は、くまを抱いていない方の女の子の手を握って、大勢の人と一緒に歩いていきます。
くまが周りを見てみると、どうやら人々はみんな同じ方向へと向かっているようです。
やがて目の前に大きなスタジアムが見えてきて、女の子と母親は、他の人たちと一緒にその中へと入って行きました。
スタジアムの中は真ん中に広くて白いステージがあって、その周りをすり鉢状の観客席が取り囲んでいます。
女の子と母親は、いっぱいの観客たちと一緒になって、その座席に座りました。
「すると、ここが祭りの会場というわけか」
くまはそう呟きました。
あっという間に観客席は満員になりました。
ですが、肝心のステージには誰もいません。
それなのに、観客たちは既にとてつもない何かが起きるのを待ちきれないかのように、目を輝かせ、隣の席の人とひっきりなしに言葉を交わしながら、身を乗りださんばかりにして待っています。
そしてついに、ステージの上に一人の男が現れました。
同時に割れんばかりの歓声がスタジアム中に響きました。
「なんだ? あいつ……」
それは、くまの目から見ると、いかにも細身な、優しげな顔立ちの若い男でした。
着ているのは白っぽい洋服のように見えますが、キラキラした刺繍がどこか東洋風な不思議な模様を描いています。
「あんなチャラチャラした軟弱そうな男が、一体何をするっていうんだ」
ステージの上を滑るように現れた彼は、舞台の真ん中でピタリと動きを止めました。
次の瞬間、細く甲高い笛の音がスケートリンク上に響き渡りました。
と同時に、白い服の彼はステージに流れる音楽に合わせて滑り始めました。
オーケストラの響きと、雅楽特有の笛と打楽器の音色がゆっくりと奏でられるのにぴたりと合わせて、彼の腕と足が、流れるように空気を刻み、まるでその動きこそが音楽を生み出していくかのようです。
「ほう……」
軟弱そうに見えて案外やるじゃないか、とくまは彼のことを見直しました。
その時。
じっと見つめるくまと女の子の前で、彼が氷を蹴って高く飛び上がりました。
「あっ!」
黒い刺繍糸で形作られたくまの目が、まん丸になりました。
白い鳥のように舞い上がったと思うと、目にも留まらぬ速さで空中で回転し、そのまま片足で軽やかに氷上に降り立ったのです。
わあっ!と、観客たちが歓声をあげました。
「これは……」
ジャンプして着氷するまでの間、いったい彼が何回回ったのか、くまには全くわかりませんでした。
驚きに声も出ないくまの眼の前で、もう一度、彼が宙を舞いました。
先ほどにも増して大きな歓声が、まるで悲鳴のようにスタジアムに響きます。
さらにもう一度、今度は連続でジャンプ。
観客たちの興奮はますます高まります。
やがて荘厳な打楽器のリズムに合わせ、流れるように彼がステップを踏むと、観客もそれに合わせて手拍子を鳴らします。
片足を高く上げて美しい独楽のようにくるくると回るその間も、長い腕が優美に空を切ります。
ですが、見た目とは裏腹に、厳しい肉体の鍛錬こそが彼の演技の見事さを裏付けていることが、くまには分かりました。
幻惑的な雅楽の音色と、彼の動きにつられるように、観客たちのため息とも悲鳴ともつかない歓声が、たびたび沸き起こります。
旋律のひそかな高まりとともに助走をつけ、再びジャンプした彼の着氷がぐらりと乱れました。
「ああっ!」
女の子と同時にくまも声を上げました。
しかし彼は足を踏みしめ、かろうじて堪えました。
安堵と驚嘆の声が辺りに広がります。
流れるような滑走から姿勢を低くし、リンクを撫でるようにして弧を描く様に、感極まった観客の喝采が沸き起こります。
女の子は一心に彼の演技を見つめながら歓声をあげ、くまのことを両腕でぎゅっと抱きしめています。
「く、くるしい……」
けれど、それがまるで女の子の小さな胸の高鳴りをくまに伝えてくれているかのようでした。
「ふむ」
女の子の小さな腕にしっかりと抱きしめられたまま、くまはふと思いました。
「こういうのも、いいかもしれない」
目の前に繰り広げられる、音と、動きと、美しさの類(たぐ)い稀(まれ)なる結晶。
この時を逃せば、もう二度と見ることもできない、一人の人間がたどり着いた至高の光景。
その瞬間に、自分はいる。
自分は、それを見ている。
4年に一度の祭りのたびに、ワクワクする気持ちと感動とを、この子と一緒に共有することができるのなら、こんなに素晴らしいことはないじゃないか。
これからもずっと、この子と一緒に……。
瞬きすることも忘れて見つめる女の子とくまの眼の前で、彼はつむじ風のように最後のコンビネーションスピンを終えーー
すべての音とともに動きを止め、ぴたりと美しい立ち姿を決めました。
割れんばかりの大歓声と拍手が、スケートリンク上に溢れかえりました。
「ああ、いいな」
じんわりと、女の子に抱かれたまま、くまは余韻に浸りました。
観客のみんなが総立ちになりました。
母親も、女の子も。
ぬいぐるみのくまは、立ちませんでした。
そして次の瞬間。
「えっ……?」
立ち上がった女の子の手が、観客席の上からリンクに向かってぬいぐるみのくまを放り投げたのですーー
「うわあーーっ!!」
声無き悲鳴とともに、くまはスタジアムの観客席から宙を舞いました。
墜落しながらくるくる回るくまの視界の中に、だが、もっと驚くべき光景が写っていました。
「ええええええええっ!?」
何十もの、自分と同じように赤いベストを着た黄色いくまのぬいぐるみが、同じようにスタジアムの宙を舞い、リンクの上へと次々と投げ込まれているのです。
「そんな……」
彼のファンたちが投げ込んだぬいぐるみたちは、あっという間にリンクの上のあちこちに転がり込みました。
もちろん、くまも例外ではありません。
「いてっ」
反射的にそう言ったものの、硬く冷たいスケートリンクに叩きつけられても、ぬいぐるみの体はくにゃんと潰れただけで全く痛みは感じません。
ひっきりなしに投げ込まれるぬいぐるみたちをスケート靴を履いた少女たちが拾い集め始めました。それは到底、彼一人で拾いきれる数ではありませんでしたから。
「ああ……」
観客席の方を見上げてみましたが、人々はまるで人形のように小さくしか見えず、くまのことを放り投げた女の子がどこにいるのかさっぱりわかりません。
そうするうちに、氷上で横倒しになったくまの目線の先に、観客の喝采に深々と頭を下げつつこちらへ滑ってくる彼の姿が見えました。
「あっ……」
せめて、と、動かぬ腕を彼の方へと伸ばしてみましたが、横から来たぬいぐるみ拾いの少女が、さっとくまを拾い上げて滑ってゆきました。
彼のために買われたはずのくまは、一度も彼の腕に抱かれることなく、スケートリンクを去りました。
他のくまたちと一緒に、くまはリンク脇の片隅に山積みにされました。
ひょっとすると、その数たるや100や200ではきかないかもしれないな、とくまはこっそり考えました。
そうしている間にも、スタジアムの興奮は一向に冷める気配がありません。
「そうだよな。なんたって4年に一度のお祭りだもんな」
しかも、これほどに観客たちを圧倒し、とりこにしてしまうほどの演技です。
きっと、このスタジアムだけでなく、テレビやネットを通じて世界中が見ていたことでしょう。
そうして遂に、ひときわ大きな歓声が、わああっとスタジアムをゆるがせました。
くまのいるところからは全く見えませんでしたが、くまには彼の勝利がわかりました。
「そう。だから」
くまは思いました。
おそらくは後々まで語り継がれるであろうこの光景を彩るためには、これしかなかったのだ。
自分は正しかった、と、くまは思いました。
4年ごとのお祭りをまた一緒に、と願った女の子とあっけなく別れてしまったことも。
彼の手に抱かれることすらなかったことも。
すべては間違いではなかったのだと。
宙を舞い、リンクを埋め尽くす、くまのぬいぐるみーー。
その光景が彼と、彼を見つめ続けた世界に伝えたこと。
そのために、自分は生まれてきたのだと。
(終わり)
羽生結弦選手、2018ピョンチャン五輪フィギュアスケート男子シングル優勝(2大会連続)の記念に。
くまと踊ろう 日暮奈津子 @higurashinatsuko
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