サラリーマンに物理スキルは必須

梦宮

第1章

第1話 話題のニュース


 花野つばきの朝は早い。起床時間は五時。しかし仕事が始まるのは八時半。通勤時間の関係もあるが、理由の大半は一人でこなさなければならない家事である。

 今年で二七歳になるつばきだが嫁、ましてや彼女と呼べる存在もおらず未だに独身を貫いていた。そのせいで料理に掃除、洗濯に身支度。既に慣れたモノとはいえ朝から仕事が山積みだ。

 セットされた目覚まし時計がけたたましく鳴り響けばそれを叩き止める。顔を洗う為、洗面所へと向かい歯磨きも忘れない。その後はパジャマ代わりにしているジャージ姿をそのままに三日間溜め込んだ洗濯物を洗う。洗濯機を回している間に朝食作りへと取り掛かる。朝はパンと決めているつばきは、トースターへとパンをセットして、マーガリンを冷蔵庫より取り出す。その際に卵も一つ。フライパンをコンロに掛け、火を点ける。油を引いて程よくフライパンが温まれば溶かしておいた卵を流し込み菜箸で掻き混ぜる。

 チン、とトースターから焼けたパンが飛び出る。それと同時に、つばきの手元でもスクランブルエッグが出来上がった。

 皿へとつやつやと輝く卵を盛り付けケチャップをたっぷりと掛ける。

 これはつばきの持論だが、スクランブルエッグは半熟よりも少し火が通っている方が美味しい。満足のいく出来映えに頷いたつばきは、ブラックコーヒーを片手に部屋の真ん中を陣取るテーブルへと手際良く食器と料理を並べた。

 立ち昇る珈琲の香りを感じながらつばきはテレビの電源を入れる。今まで、つばきが料理を行う音とゴウンゴウンと洗濯機が回る音が支配していた1LDKの部屋が忽ちテレビの騒音に飲まれた。

 朝のニュースに目を通しながら、つばきは珈琲を一口啜りパンを齧る。ちらりと視線を液晶へと向ければ最近、専らの噂となっている行方不明者のニュースが流れていた。


「今朝のニュースです。昨夜未明、○○区に住んでいます十八歳女性の行方が分からなくなっています。ここ数年に渡る行方不明者は昨夜の事件をもって優に百を超え、警察もその対応に追われており…、行方不明者が発見されたと言う情報は未だに入ってきていません」

「警察は、複数犯による連続誘拐事件の可能性が高いと見て捜査を進めています」


 最近、頻繁に見るようになった連続誘拐事件ニュース。つばきはスクランブルエッグを食べ終え、パンの最後の一欠片を口へと放り込み、最後は珈琲を口直しにと流し込む。

 空になった食器は手早く流しへと運び水で濯ぎスポンジで洗う。

 乾燥まで終わった洗濯物を手早くたたみ、洗面所で髭を剃る。つばきは体毛が薄い方だが、身だしなみという点において手を抜く事は社会人として許し難い。剃り残しがないように丁寧に仕上げる。

 それが終われば最終段階。寝巻きであるジャージを脱ぎ捨て、シワ一つないワイシャツに袖を通し赤いネクタイをキュッと締める。黒のスラックスへ足を通しベルトを締め、黒いジャケットを羽織る。

 これで仕事へ行くための準備は完了だ。

 家を出る前に火の元を確認し、車のキーを手に部屋を出る。鍵を掛けていれば丁度お隣さんが出勤する時間。毎朝顔を合わせるので、軽く会釈だけはしておく。

 こういったアパートではご近所付き合いが何気に大切だったりするのだ。


「ったくよ、朝早くから仕事仕事仕事……。パソコンに向き合うだけっつーのも疲れんだよなぁ」


 愛車へと乗り込んだつばきは不満を零す。このつばきと言う男。見た目は黒髪に黒目と特に目立つ所はなく、言うなれば平凡。しかし、何分一人暮らしが長いため家事全般は得意。仕事も至って平凡なサラリーマン。しかし、ただ一つ。彼の平凡とは程遠い所を上げるのならばそれは性格だろう。

 この男、小さい頃は純粋無垢で名に恥じぬ可愛らしい子供であったのに。どこで何を間違えたのか。今となってはその純粋で無垢な姿は何処へやら。捻くれた性格へと変わっていた。


「最近のニュースにしろ、どこの番組でも連続誘拐事件、連続誘拐事件……それしか報道する事はねぇのか」


 今朝の報道を思い起こしたつばきは、忌々しげに舌打つ。花野つばき、などという可愛らしい名前に似つかわしくない言葉遣い。花野つばきは自分の名前が嫌いだった。どうしてこのように女のような名前を付けたのか。両親の頭はおかしいと本気で思っている。



▲▼▲▼



 社員専用の出入口前で警備員へと挨拶し、名札をスキャン。これで社員全員の出退勤の管理を行っている。

 つばきはそこそこ大きな会社の事務で働いている。上から回ってくる伝票の打ち込み、会社全体の見取り図の作成、完成した書類のFAX。事務の仕事かどうか怪しい仕事も回ってくるがそこは不満を飲み込み我慢する。

 社会人には不満を飲み込まなければならない時が多々あるのだ。


「おはようございます」

「花野君、おはよう。早速で悪いんだけど、この書類の打ち込みをお願いね。どうしても今日の夕方の会議までに間に合わせて欲しいんだって」

「……夕方ですか」

「そう、夕方。まあ、花野君なら余裕でしょ?私は別の仕事が忙しくて手が回らないんだよ、よろしくね」


 出社して早々。

 自分のために用意されたデスクへと鞄を下ろすタイミングを見計らって中島課長が声を掛けてきた。

 中島課長は極度の面倒臭がり。自分は別に仕事があるからと毎度、つばきへと仕事を押し付けてくる。中島に課長という肩書きがついている以上、平社員であるつばきは強気に出る事が難しい。それを分かっていて仕事を押し付ける。これは職権乱用もいい所ではないか。

 そそくさと自分のデスクへと帰って行く中島課長を見送ったつばきは内心で盛大な舌打ちを見舞う。


「クソめんどくせぇ」


 目の前に山積みになった書類。それをちらりと一瞥したつばきは周囲に聞こえない程度の声量で不満を吐き出す。これもつばきの日常だ。

 パソコンの電源を入れれば、ウィーンと機械特有の起動音。暫く画面と睨めっこを続ければ見慣れたデスクトップが現れる。その中のファイルを開き、山積みとなった書類へと手を伸ばす。


「今月の仕入れ、売上、んで粗利。昨対に来年度の対策、ね。競走店の状況に、動向。で、このデータはグラフ化……」


 時計の針は八時二十分を少し過ぎている。つばきは隣の席に座る社員がギリギリまで出勤しない事を知っている為、比較的堂々と独り言を零す。

 ぱっと見冴えないつばきは、同じ職場の社員からも気に留められない。しかし、本人はこれ幸いと特に気にもしていないのが現状。つばきは元々集団行動が苦手なのだ。

 一通り書類にも目を通し、楽そうなものから片付ける。そうこうしていれば、隣の席の若い社員が出勤する時間となり、一気に室内が騒がしくなる。


 ──騒がしいのは苦手だ。

 つばきは隣に座る茶髪の青年、吉野を一瞥し、溜息を零す。こういう喧しい奴は嫌いだ。




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