「心がうずうずしましたか?」第5話『小さな恋のメロディ』

 映画が終わり、狭い通路のようなロビーへ戻ってくる。上映室から出てくる観客で、ほんの少しだけ賑やかさを見せていた。そこに彼女はいる。


 大鳥紗理奈。


 このミニシアター、ノイエ・キネマの新しい支配人。


 栗毛色のボブカット。丸顔にクリクリの瞳。少し小柄で笑顔の綺麗な女性。


 もしこれが梅田ビッグマンの前だったなら、難波の高島屋前だったなら、アキトシは彼女とすれ違うだけだったかも知れない。


 けれど、ここはノイエ・キネマ。間違いなく彼女はそこにいる。


 目が合った。小さく手を振ってくれている。


 いや、他の人に振ったのかも知れない。


 思い上がりは恥ずかしい。


 警戒して小さくお辞儀をするだけにする。


 後ろから女性が来たので、そっと避けた。女性は大鳥の方へ向かう。やはり自分に手を振ったわけではないのだ。


 安堵と一緒にがっかりした気持ちが沸き上がる。


 だが、女性はそのまま奥のお手洗いへ行ってしまった。


 大鳥は今もこっちを見ている。


 むしろ近づいている。


「どうでした?」


 映画の感想を求められた。手を振っていた相手は自分だったのだ。


 ……ただ、なぜ自分なのだろう?


「あ、え、そ、そうですね」


 疑問は後回しだ。一生懸命、映画の内容を思い出す。そうだ、浮ついた気持ちのままでは映画に対して失礼だ。


「二人の男の対比が面白かったかな。一人はよく喋る嘘つきで、ちょっと差別主義者で、もう一人はあまり喋らないけど、誠実で差別らしいところがなくて。でも、前の男の方が公務員で、もう一人は日雇い労働者……」


「あ、やっぱりそこ気になりますよね。よく喋る方が典型的なギリシャ人で、寡黙な方が、それを真逆にしたギリシャ人なんですって」


「へぇ、だからそっちの方が中心的に扱われてた?」


「その方がギリシャじゃ共感性が高いみたいです。わたしはもう一人の方がいいですけど」


「あ、判るなぁ。やっぱり嘘つかれると、ちょっと……」


「ですよねー」


 お互いに小さく笑う。気になるところ、気に入るところが重なると、なんとなく楽器を合わせているような気分だ。と言っても、バンドをしていた訳ではなく、小学校の頃のリコーダーで輪唱していたのを思い出すだけだが。


「今回の特集の映画、他に観られました?」


「あー……すみません。ここのところ忙しくて……」


「そうですよね。お見かけしませんでしたもん。あ、気にしないでくださいね」


 はたと不思議に思う。『見かけなかった』……? 彼女は自分のことを以前から知っているのだろうか?


「あの、ところで、どこかで会ってたっけ……?」


 大鳥の表情が固まった。


 まずいことを聞いたか?


 頑張って思い出そうとするが、こんなかわいい人に出会って忘れるはずがない。まるで見当がつかない。


「すいません、ちょっと慣れ慣れしかったですかね?」


 明らかに不機嫌になった。これは、まずい。


「い、いや、そんなことないけど! むしろタメ口でいいし! オレもこんなだから!」


 急に大鳥の表情が和らいだ。


「そういえば、そうだったかも」


 一人でクスッと笑っている。


 やはり、どこかで会っているのだろう。


 冷静に推理を進める。


 映画館の支配人はどういう人がなるのか?


 そういえば、オーナーや運営企業から雇われて支配人になる人が多いと聞く。ただ、いきなり任命されることは稀で、まずは支配人になる映画館でバイトをして経験を積んでいるはず……


 ――つまり、ここでバイトしてた女の子が大鳥さん?


 ノイエ・キネマでバイトをしていた女の子を思い出す。


 原、高峰、夏目、淡島……大鳥という苗字の人はいない。


 ひょっとして……ひとつの予感が脳裡をよぎる。


 結婚して苗字が変わった?


 こっそり左手の細くて白い薬指を見る。銀色に輝く指輪が……なかった。


 ホッとすると同時、ますます謎が深まっていく。


 いや、判ったことがひとつある。


 今、思い出した女性とは明らかに顔が違う。すっかり忘れた人もいない。


 つまり、ここではないどこかで会っている可能性が高い。


 別のシアターでバイト、もしくは正社員で働いていたとか?


 だが、どこだろう? 一番、入り浸っているのは間違いなくノイエ・キネマで、他はよくて七割程度だ。


 ――しかも、話しかけてくれるってことは、それなりに面識があるんだよなぁ……?


 仲良くなった子がいただろうか?


「アキトシさんは、この欧州特集、どう思います? 心がうずうずしましたか?」


 質問に意識が引き戻される。


「う、うずうず……かどうかは判らないけど、面白いと思う。外国の感性に触れられるって、やっぱり刺激になるし。本当は海外とかに、ちゃんと行ってみたほうがいいんだろうけど」


「あ、判ります。海外に行くと映画の世界に紛れこんだように思えますしね」


 それは思いつかなかったな、とアキトシは感じた。なぜならアキトシは洋画派よりは邦画派だからだ。


「大鳥さんは洋画が好きなの?」


 また少し不機嫌そうな顔になった。変な質問だっただろうか?


「父と母が、洋画が好きだったので」


 その答えを聞いてふと思い出す話題がある。


「へぇ、オレの父さんは邦画好きだったんだよね。だから名前が……」


「名監督、黒澤明と、その相方の名俳優、三船敏郎からとられて、明敏……っていう古風な感じの名前になった……でしたよね?」


「あれ? なんでそれ……」


 そこでようやく思い出す。もう一人、同じような理由で名前を付けられた子がいた。


「あー! 思い出した! シャーリー・テンプル!」


 パッと彼女の顔が輝くが、すぐ怒った表情になる。


「やっとだー。本当に忘れてたんですね……」


「いや、ごめん! だって雰囲気まるで違うし、大鳥って苗字にピンとこなくて。あの時、名前しか教えてくれてなかったでしょ?」


「あれ、そうでしたっけ?」


「昔の天才子役、シャーリー・テンプルから名前を取りたいから、最初、両親は紗理(しゃり)って名前にしようとしたけど、寿司っぽいから奈を付けて紗理奈(さりな)になったんですよねって……覚えてる覚えてる! 梅田の方のシアターだよね!」


 なぜ名前の話になったのかは覚えていないが、確かにそんな会話をした女の子がいた。


 そのときは……


「確か、金髪ツインテだったような気がするんだけど……」


「若気の至りです! わ、忘れてください……」


 記憶が確かなら、二年ほど昔の話だが、ツッコミを入れるのは野暮なので黙っておいた。


「でも、あの後、ぜんぜん見なくなったからバイト辞めたのかと思ってたけど」


「えっと、副支配人になって続けてたんです。ほとんど毎日、館には顔出してたんですけど、上映プログラムの担当になっちゃって、あんまり表には出なくなったときもあって……」


「なるほど」


「で、今回、小津支配人が体調不良で続けられないからってことで、わたしがここを任されることになったんです」


 小津とは映画仙人のことだ。


「え、小津さん大丈夫なの?」


「腰痛が激しいみたいですねー」


「あー……腰、ちょっと曲がってたもんね……でも、そういやなんで他で働いてたのに、ここの支配人に?」


「あ、姉妹館だからですよ。ちょっと珍しいみたいですけど。とにかく、これからはここの支配人なので、改めてよろしくお願いしますね。全身全霊、粉骨砕身、全力投球、猪突猛進で頑張りますから!」


「あ、う、うん……体、壊さないようにね。あと、最後のはちょっと控えた方がいいんじゃない……?」


「あー。そうですね。いろんな映画があるみたいに、発想も行動も柔軟でないと、ですね」


 まぶしいほどの笑顔。金髪のときには、ここまでかわいいと思わなかった。少し変わると、こんなにも印象が違うものだろうか?


 ――女の子って不思議だな。


「あと、ぜひまたたくさん通ってください!」


 自分に会いたくて、そう言っているのかと、つい期待してしまうが、すぐに「うちの収入がそれだけ増えるんで」とはしごを外される。


 ちゃっかりしているなと思いつつ、悪い気はしない。むしろ、正直なところが好印象だ。


「支配人、ちょっといいですか?」


 ロビーの片隅にある小さな階段から映写技師の人が呼びかけた。


「はーい! じゃあ、お引止めしてすみませんでした。またぜひ来てくださいね!」


 二度目のお誘い。


 きっと、彼女は男を勘違いさせるタイプの女の子なのだろう。


 そうに違いない。


 とは思うものの、何かが心の中で動き出したような気がしてならない。


 それはなんとなく、手漕ぎトロッコのように感じた。


 動き出すまでは時間がかかるけれど、動き出したらなかなか止められない。相手がレバーを上下させるならなおさらで。


 バイトに向かう道すがら、ふと思い出す。


 ――そういえば、幼い二人がトロッコで旅立っていくエンディングの映画があったな。


 あの映画みたいに、いっそ自分も一緒になって漕いだ方が楽しくて、面白いかも知れない。


 それは素敵でも、とても大変そうで、アキトシは思わず苦笑いした。

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