ポヲロの書簡
@stdnt
第1話
(この作品に出てくる地名、建物は全て実在しています。)
一体、何時間閉じ込められているのだろう。さらわれた時にできた傷の痛みも、もちろん視力も、暗闇の中で麻痺しつつあった。体をよじって初めてそのことに気が付いた。しばらくすると、扉があいた。
パリ市長の拉致・誘拐が判明したのは、シャンゼリゼの並木にも秋の装いが到来したある年のことであった。フランス警察は、事件の発生から3時間、パリを中心とした幹線道路の全てに非常線を張り、各種公共交通機関の全駅に検問の捜査員を配置した。同時に、ありとあらゆる建物-住居から倉庫、小さな小屋に至るまで-を、ローラー作戦で捜索し始めたのだった。
扉が開いてしばらくすると、まぶしかった視界が鮮明になってきた。男は、顔を隠すこともせず、縄をきつく結びなおしている。手首が痛かった。だが、足の縄は外されることとなった。
「どうやら事件が警察に伝わったらしい。ここも危ない。申し訳ないが、あんたには別の場所に移ってもらう。」
男はそういうと、背中を押して扉の外に歩かせる。外も中と同じ、暗闇であった。街灯でかろうじて、川の流れが見える。多分セーヌ川であろう。男につつかれて川面までおりる。係留してあった小型ボートの屋内に入らされ、再び足を拘束された。男はボートをおり、もやいを解いている。操舵手のいないボートはゆるゆると流れに身を任せ始めた。
犯人からのコンタクトがあったのは深夜であった。駐在所の警官が注文したピザの中に、身代金受け渡しの指示が挟まっていたのだ。身代金は全て匿名でコニセフの指定口座に振り込むこと。振込みを確認したのち、市長は解放するとの条件であった。
船とともに、景色が流れてゆく。セーヌ川は全長780㎞。その流域はフランス全土に及ぶ。流速もかなりのものである。進行方向左前方にエッフェル塔の灯りが見えていた。
幹線道路、交通機関、建物捜索、そのどれにも犯人はヒットしなかった。フランス警察は市長の命を優先し、身代金の振込みを行った。
しばらくすると、エッフェル塔の灯りは右の後方に変わっていた。もうだいぶ流されたことになる。どこまで行くのだろうか。と、軽い衝撃とともにボートは停止した。ハッチが開く。そこにいたのは、またしても、あの男だった。
発覚より、8時間。事件は急展開を見せる。市長は郊外トリールの緑地より発見・救出された。拘束は解かれていなかったものの、傷は軽微、体調に問題はなかった。車によって緑地まで運ばれ、放置されたとのことであった。身代金はコニセフの口座へと消え、貧しい人民の救いにはなったが、警察の面目は丸つぶれであった。
このままでは終われない。フランス警察は面目を取り戻すべく、セーヌ川沿岸の徹底捜査を開始した。市長の証言によると、小型ボートの係留されていた所が犯人たちのアジトである。ボートはエッフェル塔を横切るように下ったというから、川がエッフェル塔に対して横切る部分に重点がおかれたが、一方で不可思議な情報もあった。市長が見た犯人というのが、全てたった一人の男ということである。単独犯だと仮定して、セーヌの流速を先回りする術はあるだろうか。また、その間に身代金の確認をする余裕があったのだろうか。
懸命の捜査にも関わらず、エッフェル塔を横切るセーヌ河畔にはアジトは見つからなかった。困り果てたフランス警察は、当時の名探偵、エルキェール・ポヲロに書簡を送付。恥をしのんでの最終手段であった。
シャンゼリゼ通りの並木も冬の衣に装いを新たにし始めた晩秋のある日、シャンゼリゼより約20㎞、セーヌ河畔の町アンドレジーでは、フランス警察が犯人のアジトを特定していた。河川敷にある小さな倉庫を捜査員20名が急襲、犯人の男はその場でとらえられた。単独犯であった。紛争の地アラブを逃れ、難民としてフランスに居住していた男であった。身代金が多くの難民の助けになることを望んでの犯行であったが、その目論みは見事、成功したのであった。
< あとがき ・ ポヲロの書簡 >
親愛なるフランス警察の諸君、このたびは、楽しいお手紙をありがとう。諸君の奮闘のおかげで、このポヲロめも、温かい紅茶を平和に楽しむことができています。いや、これは全く皮肉という意味ではなく。秋もそろそろ終わりを告げていますのでな。
さて、いただいた書簡、楽しく拝見させていただきました。だが、「楽しい」という域をでなかった。この程度の謎では、このポヲロめ、興味を抱くには至らなかったのです。
まず第一に、諸君の捜査では一生、アジトの特定にはたどり着かないことを明記しておきます。これもまた、皮肉などではなく。いやむしろ、この寒い中のごくろうを思うと、なんともったいない(いやこれも別の意味ではなく。)ことかと感服するばかりであります。
第二に、市長の証言を精査されましたでしょうか。諸君は、いくつかの点で興味をひかれる部分があったことに気が付いておられないようです。
まず一つ目。市長がボートから見たエッフェル塔は最初前方にあり、最後は後方にあったということです。ミスリーディングとは恐ろしいものですな。この情報だけでボートが塔を横切ったと即断したのでは、失礼ながら、この冬から、パリでは安心して紅茶が楽しめないというものであります。
二つ目は、川を先回りした男の謎です。こちらのほうが一つ目の情報よりはるかにわかりやすいヒントかもしれません。この謎が謎である所以は、先回りしつつ、なおかつ、身代金の振込みを確認するという大仕事をしていたという所です。この状況では、セーヌの流速にまともに勝負しても勝てないという所でしょう。では、男は同一人物に見せかけた複数犯の変装でしょうか。この問には、ポヲロ、否と答えるしかありません。その意図が読めないからです。むしろ、犯人は変装をして、複数犯に見せかけるべきでした。事件の糸は、ここからほつれていくのです。
おっと、一つ目の解説が不十分でしたな。ま、しかし、ここまでヒントがあれば有能な諸君、真実にはもうお気づきのことかと存じております。一応解説をしておきましょうか。諸君(モナミ)!エッフェル塔の位置は、「前方から後方へ移動した」のですぞ!もっと詳しく言いましょう。「左前方から右後方へ移動した」のです。決して「左前方から左後方へ移動した」のではないのです!
このたびは、楽しい諸君のお手紙に、冗長な駄文での返信をお許し願いたく、また、本年もお世話になったこと、来年も諸君にとって有意義な年であることを祈って結びとさせていただきます。どうしても、わからなければ、紅茶をごちそうにいらっしゃい。パリは郊外、トリールより「たった」2㎞、アンドレジーの町によい店を知っています。では。
親愛なる諸君 エルキェール・ポヲロ
ポヲロの書簡 @stdnt
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