快刀ディクショナリー

ノエルアリ

第1話 【快刀乱麻】

 世界は〈言葉〉と〈意味〉で成り立っていて、この辞書界では語句と呼ばれる〈言葉〉が人格を持ち、その〈意味〉を守りながら生きている。辞書にある語句が築き上げる世界では、広がる【空】が【快晴】にも【曇天】にもなって、【太陽】や【月】が時を動かし、【森】や【海】や【動物】などの、あらゆる万物が息づいている。その中でも、人型として形成された四字熟語の活動が、この世界を動かす原動力となっている。ここにも一語句、人格を与えられた四字熟語がいた――。

「はあ。マジで超ヒマ。な~んか事件でも起きねえかな~?」

 そう退屈そうにデスクで頬杖を着く男、その語句を【快刀乱麻】と言う。見た目は20代前半の赤髪の青年で、瞳の色は金。丈の長い白コートを羽織り、首元には赤色のマフラーを巻いている。

「探偵事務所の所長が、そんな不謹慎なことを言ったらダメですよ、ランマさん」

 そう諫めるのは、ランマの助手であり、「快刀乱麻探偵事務所」の公認探偵の一語句、【四面楚歌】。

「そう言ったって、ここんとこマジでヒマじゃん? 特にこれといった事件もなけりゃ、客からの依頼もねーし。あ、そーだ、ソカ。お前が何か事件起こせば良いんじゃねーの?」

「バカなこと言わないでください。何で僕が事件起こさなきゃならないんですか?」

「だってお前、結構な頻度でトラブルに巻き込まれんじゃん?」

「それは僕が望んでそうなっている訳ではないですから! 僕の〈意味〉がそうさせているだけですから!」

 ソカが声を張って反論した。【四面楚歌】はランマより若く、青髪で瞳の色は銀。スーツのベストにチェックのズボンを履き、きっちり紺色のネクタイを結んでいる。探偵業よりも助手や事務の仕事が得意で、大抵事務所ではエプロン姿でいる。ちょうど、ランマに紅茶を運んできたところであった。

「けどよ、いくらヒマだからって、事務所に出勤すらしてこねー奴らもいるんだぜ? あいつらマジで給料泥棒だわ。クビにしてやろうかな」

 紅茶を啜りながら、ランマが本気のトーンで言う。

「いや、彼らも個別で依頼受けてたりしますからね。探偵業ですし、秘密裏に動かないといけない時もありますから。こうして生体反応さえしっかり分かっていれば大丈夫じゃないですか?」

「まあ、〈言葉〉あっての俺らだしな」

 ランマが自分の手首に目を向けた。そこには赤色のリストリングがはめられていて、彼の脈拍数と共にランプが点滅している。それはソカも同じで、彼の手首にも青色のリストリングがはめられている。それらはランマが座る所長席に置かれたモニターで管理され、彼らの生体反応が一目瞭然となっているのだ。そのモニターにはランマとソカ以外に、後三語句分の生体反応が映し出されている。

 彼らがモニターに目を向けている最中、突然事務所のチャイムが鳴った。

「お! ようやく【起】やがったな~」

「そんなに嬉しそうにしないでください」

 そう言ってソカがドアを開けると、そこには全身真っ黒の存在が立っていた。それは頭や手足が生え、人の形はしているものの、顔のパーツはない。

「えっと、どちら様でしょう?」

 ソカが困惑して訊ねると、「あの……あの……」と頭らしき部分から声が出てきた。

「ん? 何だよ、ソカ。こいつぁ、【影】じゃねーか」

「かげ? ……と言うと、〈光が遮られてできる、そのものの形をした暗い部分〉の【影】ですか?」

「ああ。他にも〈意味〉はあるが、大方お前が説明した通りの語句だ。……んで? 【影】のお前さんが探偵事務所に何の用で?」

「あ……えっと……その、探し、て……ほしい、もの、が、あって……」

「探して欲しいもの?」

 ソカが眉を潜めた。

「――んじゃ早速、お前さんの探しモンについて教えてもらおーか」

 【影】を事務所のソファに座らせ、ランマとソカは改めて今回の依頼内容を訊ねた。

「は、はい……。えっと、わたし、は、【影】で、探し、ものは……」

 顔の表情がない為、その感情が伝わりにくい。「オイ、もうちっとばっかし、ハキハキ喋ってくんねーか?」とランマが苛立つ。

「ちょっとランマさん、彼女はこういった性格なんでしょうから、急かしたりしたら可哀想ですよ。レディ相手なんですから、もう少し紳士的に」

「レディ? どこら辺がレディなんだ?」

 目の前には、ただの真っ黒な存在しかない――。

「あっ……、すみま、せん……。もう、すこし、ペースを上げて、しゃべり、ます……!」

 その声は成人女性で、「あのっ……あのっ……」と、もやっとした手が焦ったように動いた。

「落ち着いてください、【影】さん。焦らずに、ゆっくりで良いので、今回の依頼内容を教えて頂けませんか?」

「は、はい。あの……探しもの、は、わたしの、本体、です」

「本体? と言うと、お前さんのもとになった【形】を探せってことか?」

「は、はい……。気が、付いたら、わたし、は、こんな姿、だった、ので。わたしが、何の【影】、として、生まれた、のか、そのもとになった、本体が、知りたい、んです」

「ちょっと待ってください! 【影】はあらゆる万物に存在するものですよ? 光あるところに必ず【影】は出来る。その万物の中から貴方の本体を探せと仰るんですか!?」

 さすがにソカも焦って、難しい顔を浮かべた。【影】の顔がテーブルに置かれたお茶に向く。

「やっぱり、無理、ですよね?」

 項垂れているように見え、「あ、えっと……」とソカが鼓舞しようとして、言葉に詰まった。探偵として、そんなことはない、などと軽口は叩けない。

「分かった。今回の依頼、俺が受けてやるよ」

「え……?」

「ランマさん! そんなに簡単に受けても良いんですか? 今回の依頼はA級案件だと思いますけどっ……」

「だから何だ? 万物の中から、こいつのもとになった【形】を探しゃーいいんだろ? 安心しろよ、【影】。俺がお前さんの望みを叶えてやるからよ」

「本当、ですか?」

「ああ。だが、一つだけ条件がある。報酬についてだ。今回の依頼でお前さんの納得のいく答えが出た暁にゃ、お前さんが持つ〈意味〉の一つを頂くぜ? それでも良いってんなら、今回の依頼について、契約を結ぼうぜ?」

 ランマが意を含んだ笑みを浮かべている。ソカは何も口を挟まずに、ただじっと【影】の返答を待っている。

「……わかり、ました」

「【影】さん、本当に良いんですか? 〈意味〉を一つ失うということは、貴方の持つ存在価値を一つ手離すということなんですよ?」

 ソカの意思確認にも、「わかって、います」とその顔が頷いた。

「わたしは、〈意味〉よりも、自分の生まれた、理由が、知りたい、から」

「【影】さん……」

 生まれた理由という言葉に、ソカは目を細めた。【四面楚歌】が生まれた理由は、決して喜ばしいものではない。

「よし。んじゃ早速、契約書にサインしてくれ。おい、ソカ。契約書を作成してくれ」

「……はい」

 ここからは事務手続きだ。探偵でありながらも、事務仕事も完璧にこなすソカが、依頼人である【影】との契約書を作成していく。気乗りしない様子で、専用の契約書に、万年筆で今回の依頼内容と、その成功報酬について記述していった。

「ではこちらにサインを」

「はい……」

 出来上がった契約書に、【影】が自分の語句を記した。

「んじゃ、契約も結んだことだし、早速本体探しと行くか」

「よろしく、お願い、します」

 【影】が頭を下げた。ほっと安心したのか、目の前のお茶を口部分に運んだ。勢いよく啜るも、すべて体部分に流れ落ちていく。

「ああ! !」

「ご、ごめんな、さいっ……」

 慌ててランマがソファと床を拭く。【影】も動揺し、焦ったような汗が空中を飛ぶ。そんな様子を、ソカは心に痞えるものを感じたまま、じっと見つめていた。


 正午の太陽が真上に位置している。外を歩きながら、ランマは依頼人である【影】の本体を見つける手がかりを探した。エプロンを外した探偵の一語句、ソカはランマと【影】の後ろを、目を伏せて歩いている。

「しっかし、【影】の本体か~。お前さん、気が付いたらそんな姿だったって言ってたな。んじゃ、人型の語句がお前さんの本体っつーことだよな。この世界で人型を形成してんのは、主に四字熟語の語句だ。お前さんの形や声からして、女形の語句だろうが、一つ一つ当てっていくしかねーな、こりゃ」

「四字、熟語……」

「お前さんも知っての通り、この世界は〈言葉〉と〈意味〉で成り立っている。俺ら漢字四字で作られた熟語は、この世界では膨大に存在しているんだ。だが、その「熟合度」はそれぞれ違う。語と語を強く結びつけている「熟合度」が高ければ高い程、その〈言葉〉の持つ〈意味〉は大きくなる。そうなりゃ自ずと、この世界における存在も大きくなる。ソカなんか、その一例だな。「熟合度」が高い【四面楚歌】。当然、その持つ〈意味〉も大きく、こうして毎回トラブルに巻き込まれんだよなぁ、ソカ?」

 気が付けば、お約束の如く周囲を敵に囲まれる。「はあ」とソカが溜息を吐いた。

「えっと、この方、たちは……?」

「んー? ああ、俺らの借金取り」

「誤解を招くような言い方しないでください! 俺らではなく、貴方だけの借金取りですよ!」

 ソカが声を張るも、「おおい! うるせえぞ!」と周囲を取り囲む暴漢達の親玉が出てきた。

「おい、【快刀乱麻】! てめえ、いい加減金返しやがれ!」

「悪いな、キョーハイ。今手持ちがねーんだわ~。デカイ山当てたら一括で返してやるから、もう少し待ってくんねーか?」

「ふざけんな! 返済期限はとっくに過ぎてんだよ! 返すアテがねえんなら、事務所のモン売って、金作りやがれってんだ!」

「狂悖兄貴の言う通りにしな、【快刀乱麻】。じゃなきゃ、コイツをバラしちまうぞ!」

 キョーハイと呼ばれた大男、【狂悖暴戻きょうはいぼうれい】の後ろから、弟である【暴戻恣睢ぼうれいしき】がソカの腕を握った。

「僕に触るな!」と、ソカがその手を振り払う。

「お前まで物騒なこと言うなよ、シキ~。俺ら、暴戻兄弟とは仲良くやっていきたいんだぜ~? なあ、キョーダイ?」

「うるせえ! てめえにゃ、何度も大事な取引を邪魔されてんだ! 積年の恨み、今日こそ腫らしてやるっ……!」

 周囲を取り囲む暴漢達が一気にランマとソカに襲い掛かってきた。 

「あーあ。やーっぱこうなっちまったかぁ。こういう状況を四字熟語でなんつーんだっけ~? ソカ」

「分かってるでしょ、アンタ! 回り全員敵だらけ、【四面楚歌】ですよ!」

「にしし。んじゃいっちょ、快刀(あそ)んでやるか~」

 殴りかかってくる凶暴な〈意味〉を持つ四字熟語の攻撃を避けながら、ランマは右手を伸ばした。手の甲に、金色に光る【快】【刀】【乱】【麻】の語句が腕から流れ落ちてくる。その手の先に、麻の葉模様の鞘に納められた刀が現れた。

「さて、【承】タイムの始まりだぜ?」

 刀を抜いたランマに、「全員でやっちまえ!」とキョーハイが威勢を放った。【喧】や【騒】の文字を持つ語句達が血気に逸ってランマに襲い掛かるも、華麗に敵をなぎ倒していく。ソカは【影】を守りながら、雑魚相手に拳で勝負する。そうしてあっという間に味方が一掃され、キョーハイは窮地に立たされた。

「くそっ……」

「あれ~? もうおしまいかよ~? 悪を極め、人非ざる道を突き進むのが、【極悪非道】組の教訓じゃなかったっけ~?」

「きゃあっ……」

 一瞬のスキを突かれ、【影】がシキに捕まった。

「【影】さんっ……!」

「動くんじゃねえよ、【四面楚歌】。コイツがどうなってもイイってのか?」

 シキが【影】の顔部分にナイフを向けた。そのまま兄の下に【影】を連れて行く。

「よし、でかしたぞ、シキ! おい【快刀乱麻】、こいつぁ、てめえらの依頼人だろ? 無傷のまま返して欲しけりゃ、さっさと金返しやがれ!」

「っち……!」ランマが顔を顰める。

「借金返済に彼女は関係ないだろう、【狂悖暴戻】! 卑怯な真似してないで、堂々とランマさんだけに取り立てたらどうなんだ!」

「ソカ、お前……」

「うるせえ、【四面楚歌】! てめえ、不運熟語のくせに何息まいてんだよ」

「何だとっ、僕は不運なんかじゃない! 僕はっ……」

「ああ嫌だねぇ、これだから故事発生組は。てめえ、自分がどうして生まれたのか忘れちまったのか? “四面に囲む漢軍が楚の国の歌をうたうのを聞いた項羽が、楚の兵が漢に降伏したと思い、絶望した″ところからきてんだろ? 敵に囲まれ、孤立無援状態になった項羽は、最後どうなったんだ?」

 その時の状況がフラッシュバックし、ぐっとソカが奥歯を噛み締めた。

「ソカさん……」

「人の不運から発生した熟語のくせに、人助けなんてやってんじゃねえよ。まあ、こいつぁ、人なんかじゃねえけど」

 キョーハイが【影】の手首を締め上げた。

「痛いっ……や、めて」

「へえ、【影】のくせに、しっかりと感触があんじゃねえか。こりゃ、サンドバックにゃ、ちょうどいいなぁ?」

「いやっ……」 

 下衆な笑いを浮かべるキョーハイに、

「やめろっ、【狂悖暴戻】! 彼女は関係ない!」と焦燥を浮かべるソカが制止する。

「うるせえよ。【極悪非道】であることこそが、俺らの生きる〈意味〉なんだよ!」

「ああ、ハイハイ。もう分かったから、そんなにキャンキャン吠えんなよな~?」

 降参したように両手を挙げるランマに、「ようやく返す気になったか」とシキが鼻で笑う。

「ランマさん……」

「金は元金利息含めてきっちり返してやんよ~」

 その顔に笑みを浮かべるランマが、瞬時に真顔になって首元のマフラーを緩めた。

「だから俺の依頼人に手ぇ出すんじゃねーよ」

 思わず凶暴な暴戻兄弟も怯むほど、ドスのきいた声でランマが睨み付けた。

「ひいっ……! く、くそっ、今回は引いてやるっ。だがてめえが言ったこと忘れんじゃねえぞ! 残り三百万、三日以内に直接【極悪非道】組に金返しに来やがれっ……!」

 そうキョーハイが口早に言い放つと、暴戻兄弟がその場から逃げ去っていった。

「ったく、毎度毎度メンドウゴト吹っかけてきやがって」

「いや、アンタがちゃんと借金返さないからでしょ! 借金を全額返済するって、そんなアテもないでしょうが!」

 ソカが声を張るも、「大丈夫か? 【影】~?」とランマは聞く耳を持たない。

「は、はい。すみ、ません、でした」

 ぺこりと【影】が頭を下げる。

「いや【影】さん、謝らなければならないのはこちらの方ですよ。すべてはこの男の不始末のせいですから。それから、貴方を守れなかった僕のせいでもあります」

 ソカが頭を下げて謝るも、【影】は首を横に振った。

「わたしは、【影】です、から。元々、皆さんが、気を遣う、存在でも、ないです……」

 そう言葉にした【影】の顔に、辛そうに笑う女性の表情が薄っすらと浮かんだ。

「【影】さん? その顔……」

「え? わたしは、【影】、ですから、顔なんて、ない、ですよ?」

 そう否定する【影】から表情が消えた。

「ランマさん、もしかしてこの方は……」

「ああ。そういうことだったのか」

「へ? あの、わたしは……」

「ついてきな、【影】。お前さんの求める答えがある所まで案内してやるよ」

 ランマとソカが【影】の先にある建物を見上げた。それは廃墟同然の風体で、周囲の景色から完全に浮いている、摩天楼「飛燕城」――。


「――ランマさん、ここは、一体……?」

 薄暗い廃墟の中をずんずん進むランマに【影】が訊ねた。彼女の後ろを歩くソカが、「ここは「飛燕城」と呼ばれる巨大摩天楼ですよ」と説明する。

「ひえん、じょう?」

「そうか。やっぱりお前さん、自分が何者であるのか、忘れちまってんだな」

「へ? わたしは、【影】、ですよ? 生まれた、ときから、ずっと、【影】です」

「そりゃ、お前さん単体ならな」

「単体?」

 分かっていない様子の【影】に、ソカが「貴方も、僕たちと同じ四字熟語ということです」と核心を告げた。

「え? わたしが、四字熟語?」

 立ち止まった【影】がソカに振り返った。ランマが足を止める。むき出しになっている配線を【鼠】がかじり、その【鼠】をドブから出てきた【猫】が追い回す。不衛生で、廃材をつなぎ合わせて巨大化した城の中央部分に、一筋の光が差し込んでいる。将棋崩しのように廃材を積み重ねた一番上に、玉座はある。そこに座る若い男が足を組んで、薄っすらと笑いながらランマを見下ろしている。

「よお、オウショウ。久しぶりだな。相変わらず廃材の城で王様気取りか?」

「やあ、ランマ。君こそ相変わらず、薄汚い過去とは決別出来ていないようだね」

 若い綺麗な顔立ちの男は、金髪に王冠を被り、青い瞳で高い位置から穏やかに言った。

「あの男の方は……?」

 どこか怯えているような声で、【影】がソカに訊ねた。

「あの男は、【王侯将相】という語句で、この「飛燕城」の絶対の王ですよ」

 ソカが険相な表情を浮かべて言った。とげとげしい顔つきになるのは、【王侯将相】という語句が只ならぬ人格の持ち主だからだ。

「それよりも、今日はどうしたの? 君がこの城に来るなんて珍しいじゃないか」

「いやなに、ちっとばっかし探しモンをな。ここは、自らの〈意味〉を見失ったならず者が集まる烏合の城――。この場所で、非合法な取引や研究、実験が行われているのは、裏組織だけじゃなく、統監組織も把握している。だが、奴らが摘発しないのは、この場所で秘密裏に行われている実験で、新しい語句が次々に誕生しているからだろう? そして、その新しい語句を生み出すために必要とするのが、一文字一文字の単語だ。さて、ここで問題だ。その単語を調達するためには、どうすればいいか。この辞書界に存在する単語だけじゃ、到底足りねーわな」

 ランマがじっとオウショウを見上げながら話す様子を、【影】が呆然と聞いている。「ふふ」と笑ったオウショウが、片肘を着きながらランマの問に答えた。

「簡単だよ、ランマ。この世界に無数に存在する四字熟語から、その単語を奪えばいいんだよ。金さえ積めば、裏組織の連中は喜んで文字売買に精を出すからね」

「文字、売買……?」

 【影】の脳裏に、必死に抵抗する女性の姿が過った。

「ねえ、その子、どこかで見たことがあるんだけど」

 オウショウの言葉にはっとした。自分を凝視するオウショウに、【影】の体が震える。一歩二歩と、後ずさった。その肩を後ろから支える、ソカ。

「しっかりと自分と向き合ってください。貴方は単なる【影】ではないんです。貴方は自分が持つ〈意味〉よりも、生まれてきた理由が知りたいのでしょう?」

「あ……」

 気が付いた時には既に単語であった【影】は、自分がそうであると信じていた。だがこの「飛燕城」に足を踏み入れ、【王侯将相】と対峙してから、過去に何か大切なものを失ったようで、脳裏には知る由もない女性の姿が過る。それに呼応するように、徐々に【影】の顔にその女性が浮かび上がっていく。

「ああそうか。その顔、思い出したよ」

 オウショウがポンと手を叩いた。顎に手を寄せ、穏やかな笑みを浮かべた。

「誰かと思ったら君、ここでバラされた四字熟語じゃないか。確かその語句は……【扇影衣香】—―。〈貴婦人達の優雅な会合の様子〉という〈意味〉を持つ、生粋のお嬢様だったねぇ?」

「あっ……」【影】が本来の自分の姿に戻った。長いロイヤルブルーのドレスに内側に大きく切れ込みが入った袖まである上着を着て、ブロンドの髪を束ねる姿は、正しく貴婦人そのものである。ただ、その存在は不確かで、蜃気楼のように揺らいでいる。

「わたしは、どうしてっ……」

「落ち着いて! 大丈夫ですから……!」

 ソカが冷静さを取り戻させようとするも、「いやっ……」と取り乱す。

「ふふ。可哀想に。君の残りの文字達は全員新たな四字熟語として組み込まれちゃったよ? 【扇】も【衣】も【香】も、みーんな美しい文字なのにね。君だけネガティブなんだもの。ボクが求める四字熟語には必要ないから捨てたのに、まさか【影】として生きていたなんてね。驚きだよ」

 オウショウの言葉は冷酷で、打ちひしがれた貴婦人は再び【影】の姿となった。

「ふふ。一度バラされた四字熟語は元には戻らないよ? さぁてランマ、君は自分の依頼人を救えるのかな?」

 愉快そうに玉座で笑うオウショウを、じっとランマの金色の瞳が見上げる。

「ランマさん」

 ソカが拳を固めて相棒の名前を呼んだ。怒りが込みあがり、腸が煮えくり返っている。それはランマも同じであった。

「おい、オウショウ。まさか俺が誰だか忘れたワケじゃねーだろーな? 俺は極悪連中をも怯ませる、【快刀乱麻】だぜ? 〈こじれた物事を鮮やかに処理し、解決すること〉――。どんな胸糞ワリー事件でも、依頼人が納得する形で解決すんのが俺の存在理由だ」

「ふーん、この状況で、彼女が納得する答えが出るのかな? 君がどうやって解決するのか見物だよ」

 余裕に口元を緩めるオウショウに、ふっとランマが笑った。打ちひしがれたまま項垂れる【影】に振り返り、その黒い肩に手を乗せた。そっと微笑みを浮かべる。

「お前さんは今日、どうしてうちの事務所に訪れたんだ? お前さんが一番知りたかったモンは何だ?」

「わ、たしが、一番、知りたかった、のは……」

 影とは、光が遮られてできるものである。【影】として生まれた自分が、初めてこの世界で見つけたもの、それは自分自身の影だった――。両手両足を動かして、自分と同じ動きを取る影に、いつからか【影】は、自らも何かの影であると悟り、その本体について追及するようになっていった。

「わたしは……自分の、本体を知りたくて……。でもっ、本当のわたしは、もうどこにも、いないっ……」

「大丈夫だ。お前さんはまだ消えちゃいねーよ。【扇影衣香】、それがお前さんの本当の名だろ?」

「せんえい、いこう……」

「ああ。もう【転】牌だぜ? あと一つで上がりのところまで来てんだ。って、貴婦人は麻雀なんかしねーか」

 にっと笑ったランマに、不思議と落ち着きを取り戻す【影】。【扇影衣香】という四字熟語に、かつての自分の姿を見た。

 生粋のお嬢様だった【扇影衣香】は、悪い男に騙されて、文字売買の末に自らの語句をバラバラにされてしまった。ただ一つ残った影という字だけでは、本来の〈意味〉は取り戻せない。それでも――。

「わたしは、自分が何者なのか、それが知りたかった。【扇影衣香】、それが本当のわたし。【影】とする、わたしの本体よ――」

 そう口にした【影】は、自らが生まれてきた理由を思い出した。〝婦人が手にする扇の影に、衣装に香をたきしめ、香しい貴婦人たちの会合する光景″が、ランマとソカ、それからオウショウにも見えた。

「これが、【扇影衣香】の生まれた理由……」

 ソカが浮いた口調で呟いた。自らが生まれてきた理由を取り戻した【影】は、再び貴婦人の姿で瞼を開けた。今度は不確かな存在ではなく、しっかりとそこに存在している。

「まさか、こんなことがっ……」

 思わず顔を顰めたオウショウに、「これがこいつの答えだ」とランマが真剣な眼差しを向ける。

「一度バラバラにされた四字熟語が元に戻るはずがない! そいつは偽物だ! 本物の【扇影衣香】なんかじゃない!」

「なーに言ってやがる、オウショウ。てめーがバラした【扇影衣香】とここにいる【影】、一体何が違うってんだよ?」

「……っ」

 言葉に詰まったオウショウに、「わたしは、わたしです」と【影】がしっかりと言い放った。大きく開いた胸元に、【影】の字が光り輝いた。

「影の分際で光るなんて。ネガティブのくせにっ……」

 忌々しく奥歯を噛み締めたオウショウに、ソカが対峙する。

「もう文字売買なんて馬鹿げたことは止めてください、オウショウさん。新しい四字熟語を作り出すことに何の意味があると言うんですか! 貴方だって本当は――」

「うるさいよ、故事上がり。何の罪の意識もなく周囲に不運を招く君の方がよっぽど悪なんだよ、【四面楚歌】」

「ぐっ……」

「良かったじゃないか、ランマ。君の依頼人の納得する答えが出て。一件落着だろう? だから今日はもう帰ってくれ。これ以上ネズミに入り込まれると、……噛み殺したくなる」

 玉座から見下ろす「飛燕城」の王は惨忍で、彼が飼っている【猫】が、先ほどまで追い回していた【鼠】を咥えてやってきた。

「君たちもこうなりたくないだろう? ほら、城を守るネコが来る前に、とっとと帰りなよ。彼らは、狙った獲物は城の外にまで追いかけていく性分だからね」

「けっ、まあ、今回は見逃してやるよ。ただし、次にまた依頼でてめーに会うことがあったら、タダじゃすまさねーからな?」

「探偵風情がよく言うよ。まあ、面白いデータも取れたし、今日のところは王様への無礼は許してあげる。だから早く、ボクの気が変わらない内に帰りなよ――」

 三人の語句が帰っていく。その後ろ姿を、光が差し込む玉座からじっと眺めるオウショウ。その口元が、小さく笑った。


「――あの、本当に、ありがとう、ございました」

 本来の姿を取り戻し、【影】が深く頭を下げた。

「よかったですね、【影】さ……じゃない、ですね。すみません」

「い、いえ……! わたしは、【影】ですよ?」

 美しい貴婦人姿の【影】に、ソカの頬が赤く染まる。

「んだよ~、ソカ。もしかして、エイに惚れちまったのか~?」

「ばっ! 何言ってるんですか! そんなわけないでしょうっ……!」

「つって、顔真っ赤じゃん?」

「これは夕焼けに照らされているだけで! そういうアレじゃないですから! っていうかエイって、貴婦人相手に馴れ馴れしいんですよ、アンタ!」

 夕暮れの花畑の前で、ソカがランマに揶揄われている。その様子に、「うふふ」と【影】――エイが笑った。それに、ううっ、笑われた……とソカが気恥しそうに目を瞑る。

「あのっ、報酬の、件なのですが」

「ああ。契約書通り、ちゃんと頂くぜ? お前さんの持つ、〈意味〉の一つをな」

「は、はい」

 エイが目を瞑った。胸元に刻まれた【影】という黒字に、ランマが手を翳した。

「俺たちが契約を交わしたのは、【影】という語句とだ。だから、その報酬は【影】から頂く。お前さんの持つ【影】という〈言葉〉には、〈暗さを感じさせるもの〉――という〈意味〉もある。「影が薄い」という〈言葉〉があるように、お前さんはどこか生気がなく、命が短いように思えたんだよなぁ」

「はうっ……」

 自分のことながら、他人に言われてショックを隠せない。その可愛らしい反応に、ランマが笑った。

「だから、お前さんからその〈意味〉を頂くぜ?」

 【影】の文字が浮かび上がり、ランマの手のひらに吸い込まれていった。黒かった文字が、金字となってエイの胸元に戻った。

「あ……。わたし、何だか元気になってきました。色々辛いことも経験しましたが、これからは前向きに生きていけそうな気がします」

 オドオドしていた話し方は消え、自信と希望に満ち溢れた姿でエイが笑った。

「おう! そっちの方が断然お前さんらしい生き方だぜ。知っているか、エイ。【影】は古語では、〈光〉という逆の〈意味〉を持つんだ。光と影は表裏一体だ。光差す所にゃ必ず影ができる。その光も影も、両方お前さんなんだぜ。だからそんなに美しい姿なんだよ、お前さんは」

「最初はレディ扱いなんてしていなかったくせに」

 ボソリとソカが呟き、「おーい、最後の【結】部分なんだぜ~? 助手ならもう少しお膳立てしろよな~? ソカ」

「【起承転結】揃ったんだから、もうアンタは満足でしょうが。……それよりも今回の件、しっかりと統監本部に通報しておきますから。貴方のような四字熟語がこれ以上文字売買の被害に遭わない為にも、「飛燕城」のような無法地帯が一日でも早く解体されるよう、統監組織に協力するのも我々探偵の仕事ですから」

 ソカの正義を振るう言葉に、エイは目を伏せた。それに彼女の気持ちを察したランマが、ソカの肩に手回し、言った。

「ま、お嬢様だからこそ、知られたくない過去もあるわな」

「は? ランマさん?」

「今回の件は誰にも口外しねーよ。そもそも、探偵に依頼してくる時点で、その依頼内容については口外厳禁だからな。お前さんもどこかで、自分の本体が良からぬ事件に巻き込まれていると感じてたんじゃねーのか? だから統監組織じゃなく、ウチに来たんだろ?」

「そうだったんですか? すみません。考えが及ばなくて」

「い、いえ! わたしの方こそ、自分の対面を気にしてしまって……」

「無理もねーよ。けど、あの「飛燕城」は俺らがぶっ潰す予定でいるからよ。ついでにあの王様気取りの語句も、ぶん殴っててめーの罪を償わせてやる。だから、自分の過去に影なんか落とすなよ? 後ろめたい気持ちも、日の光が背中から差しゃあ、自ずと影は前に出来んだからよ。自分の〈言葉〉と〈意味〉に誇りを持って生きていけよ」

「ランマさん……はい、本当にありがとうございました」

 エイが頭を下げて、礼を言った。顔を上げたそこには、晴れやかな笑顔が浮かんでいた。

 無事に依頼を解決し、事務所に戻ったランマとソカは、今回の報酬で得た【影】を分厚い本の表紙に流れ込ませた。すると本の中身が開き、か行のページに【影】の字とその〈意味〉が刻み込まれた。

「本当にこれが正しいことなんでしょうか?」

 どこか気が咎めるソカが、徐に訊ねた。

「この世界にゃ、【正義】も【悪】もある。だが、行き過ぎた【正義】は、正さなけりゃならねーだろ?」

 再び閉じた本を手に取り、ランマがその表紙を擦った。そこには「明正辞書」と書かれている。

「それが、この世界を作り出した男の思想を受け継いだ、俺ら「五体語」の使命だろ?」

 諭すような言葉に、ソカは隣に立つランマの顔を見上げることはなかった。ただじっと、「明正辞書」の明正という〈言葉〉を見つめるだけだった。


  












 


 





 












 快刀乱麻(ランマ)、酒池肉林(シュチ)、四面楚歌(ソカ)、千変万化(バン)、明鏡止水(キョウ)



















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