月が綺麗ですね、と彼女は言った。

だるぉ

月が綺麗ですね、と彼女は言った。


 もう何十年も前の話になるけれど、今日のように見事な満月を見ると、ふと思い出すことがある。


 それは学生の頃のことだ。


 当時、僕にはお付き合いをさせていただいていた女性がいた。


 近所では専ら小町娘と評判で、僕のような冴えない野郎には勿体無いほど楚々な、年上での女性である。


 烏の濡れ羽色のごとく艶がかった黒髪は息をのむほど艶かしく、溶けそうなくらい白い肌はまさに雪膚。


 ぷるんとした桜色の花唇には、何度正気を奪われそうになったか思い出せまい。


 何をしていても絵になる彼女は、まさに立てば芍薬座れば牡丹歩く姿は百合の花と言ったところか。


 きっと時代が時代なら、傾城傾国にだってなり得たのかもしれない。


 しかし、そんな彼女の隣には、いつもこの僕がいたと言うのだから驚きである。


 彼女は本が好きだった。思い起こせば僕らの馴れ初めも、河原でひとり佇み読書に耽る彼女を、下校中の僕が見つけた時ではなかったかと記憶している。


 西に沈む夕日に灼かれ、さらさらとした髪を風になびかせる彼女に、僕は一目惚れしてしまったのだ。


 ろくに級友の女子とも会話したことはなかったけれど、月明かりに吸い寄せられる蛾のごとく、僕は彼女に惹き寄せられた。


 そして、気づけば声すらもかけていた。


「何を読んでいるのですか」


「私にはわかりません。自分が何を読んでいるのかなんて」


 水晶をすり合わせたような透き通った声で、彼女は答えた。


 あまりにその音色が心地いいもんで、僕はとっさに胸に手を当てる。


 よかった、まだ昇天はしていないようだ。


 鼓動する自身の心音を確かめ、極楽浄土に逝ってしまったのかという錯覚を拭ってから、やっと彼女の言葉の意味に理解が追いついた僕は、再び尋ねた。


「わからないとはどうしてです。本の題を教えてくれませんか」


「申し訳ありません。私は光が見えないのです」


 縫い付けられたように瞑られた彼女の瞼を見て、僕はハッと息を呑んだ。


 彼女は盲目であった。


 生まれながらにして、光届かぬ暗籠に閉じ込められていたのである。


「私は本が好きです。文字が見えなくとも、本の装丁や重み、紙の質感やインクの香りなど、それらを通して作者様の思いを胸に感じることができます」


「そうですか」


「ええ。読めるに越したことはありませんが、それでも私は満足なのです」


 彼女はそう答えると、綺麗な白歯を覗かせて慊焉たる笑みをこぼした。


 その閉ざされた瞼の奥に眠る黒瞳が見えずとも、優艶さを十分に感じさせる笑みだ。


 一瞬でも彼女に同情してしまった僕は自分がとても恥ずかしく、そして情けなく思い、衝動的に自らの頬を殴った。


 自戒である。


「どうしたのですか。パンと音が聞こえましたが」


「いいえ、なんでもありません」


 河原に座る彼女に、僕は言った。


 右頬を赤く腫らしながら。


「ところでもし宜しければ、僕も隣で本を読んでいいしょうか」


「もちろんどうぞ。ここは私だけの場所ではありませんからね」


「ありがとうございます。そして頼みついでにもう一つ。不肖ながら自分、今日はたまたま本を持ち合わせておりません。どうか貴女の本を貸してくれませんか」


「ええ、構いませんよ。人に読まれた方が、本もきっと喜ぶことでしょうし」


 そう言って彼女が差し出した本を受け取ると、僕はその隣に腰を下ろした。


 そして深呼吸を一つ、僕は手に持った本の題を読み上げる。続けて表紙をめくり、見開き一杯に印刷された文字の海を声に出して読んだ。


 腫れた頬を撫でる風にかき消されぬよう、しっかりと。

 

「どうしてですか」


 彼女は蛾眉をひそめて訊いてきた。


 僕は一度視線を上げ、しかし彼女を方を向かずにぶっきらぼうに言う。


「申し訳ありません。自分は浅学ゆえ、声に出さねば文字が読めないのです。どうか責めないでください」


 僕は嘘をついた。


 すると彼女はしばらく黙ったあと、ゆっくりと口を開く。


「誰が責めるものでしょうか。貴方みたいな優しい心の持ち主を責める人が、この世にいるとはとても思えません」


「ならば自分は明日から毎日ここに通って、本を読む練習をします。しかし生憎僕は学生の身であるので、本を買う金がろくにありません。そういう訳ですいませんが、明日も貴女の本を貸してくれませんか?」


「良いでしょう。ならば私は明日から毎日ここに通って、本を持ってくることにします。ああ、明日がこんなにも待ち遠しいのは初めてです」


 そう言った彼女の目元には、一縷の涙が流れていた。強く閉じられたはずの瞼から溢れ出た、その涙滴である。


 そしてそれは、たとえ雨が降ろうと雪が降ろうと毎日ここに通うことを少年心に誓った瞬間でもあった。


 それからどれだけの月日が流れたのだろう。


 それまでに彼女と読了した本を積み上げれば五重塔にすら届き得るんじゃないかという頃、時が過ぎるのも忘れるくらい夢中になって本を囲んでいた僕らの周りはすっかり夜になっていた。


 こうも暗くては読めるはずもないのに、まったく気づかなかったのだから可笑しな話だ。


「おや、もう夜になってしまいました」


「そうですか。それではいくら貴方とはいえ、もう本を読むことは出来ませんね」


「はい、文字が見えなくてはどうしようもないですから」


 パタリと本を閉じた僕は一息つきがてら、ふと夜空を仰いだ。


 するとどうだ、かつてないほどに見事な満月が昇っているではないか。


 思わず僕は、感嘆の声を漏らしてしまった。


「どうしたのですか」


「ええ、あまりにも月が綺麗なもので。この感動を貴女に伝えられない自分が無力でなりません」


 盲目である彼女は、当然この満月を一目見ることすら叶わない。


 感動を共有したいのに、それすらもできない自分がもどかしかった。


 しかし彼女は、そんな僕の歯がゆさを吹き飛ばすように小さく笑った。


「心配しないでください。すでに私は、貴方からその感動をいただいています」


「どういうことですか」


「以前、貴方は教えてくださったじゃないですか。とある小説家が言った、その訳の意味を」


 それから彼女は。


 僕の耳元で静かに囁いた。


「月が綺麗ですね」

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