序章の巻 その4 王子殿下の悩み事

 日差しが強い。アルジュナは燦燦と輝く日輪を見上げ、小さく嘆息した。もう雨季も終わりである。雷と雨は好きだ。なんだか楽しい気持ちにさせてくれる。だから、またあの音が一年聞けないのだと思うと、少し悲しくなってしまうのだった。

「なんだあ、溜息なんかついて。お前らしくもない」

 不意に、大きな手のひらで頭を抑えつけられる。アルジュナは憤然とその手を払いのけた。

「別になんでもないよ。あと、背が伸びなくなるからやめろって言っただろ、ビーマ」

 アルジュナはかなり本気で怒っていたのだが、対するビーマは弟を見下ろしながら、歯を見せて笑った。

「撫でたくらいで縮んだりしねえよ。安心しろ。それより、また兄を呼び捨てにしやがったな」

「縮むよ。お前、馬鹿力なんだから。それから、ビーマはユディシュティラ兄上と違って目上って感じがしないんだ。諦めて」

 やかましく言い合いながら大通りを歩く二人に、すれ違う人々は微笑まし気な視線を投げる。ビーマはそうした目を気にしない質だが、アルジュナはいささか恥ずかしかった。

 アルジュナとビーマは、これから町はずれの寺院へ行き、伯父であるドリタラーシュトラ王の名代で供物を捧げる予定だった。二人の後ろには一人の召使が、果物や穀物といった捧げものを積んだ荷車を引いて付き従っている。

 道行く人々の温かい眼差しを避けるように、通りの端に顔を向ける。すると、ちょうどそこにいてアルジュナのほうをじっと見ていた幼い少女と目が合った。その子はアルジュナの頭を指さすと、にっこりと笑って言った。

「きらきら、きれいね」

 その細い腕を、隣りに立っていた母親らしき女性が慌てて掴み、下げさせる。

「殿下を指さすなんて……! 申し訳ございません!」

 別にいい、と答える前に、母親は少女の手を引いて雑踏に紛れてしまった。アルジュナは自分の前髪をつまんで引っ張ってみた。少女が綺麗だと言ったその髪は、金属質の光沢のある銀色をしていた。この国に暮らす人々はほとんど皆、黒や茶色といった濃い色の髪と瞳を持って生まれてくる。アルジュナは、それ以外の色を持つ人を見たことがない……自身と、四人の兄弟を除いては。

「おい、何してんだ。置いてくぞ」

 いつの間にか遅れていたらしい。数十歩先でビーマが振り返る。その肩口で雑に括られた長い髪は、空に浮かぶ雲のような純白だった。アルジュナは残り三人の兄弟のことを考える。長兄のユディシュティラは、黒髪に浅黒の肌という一見ごくありふれた容貌をしていたが、その実彼の瞳は吸い込まれるような紫色だった。双子のナクラとサハデーヴァも、きらきらと輝く金の瞳を持っている。

「ねえ、僕たちって、神様の子供なんだよね」

 ビーマに追いつきながら、問いを投げかける。それは、母が言っていたことだった。呪いのせいで子に恵まれない父のために、母は神に縋り、結果として生まれたのが自分たちなのだと。つまり、アルジュナの髪やユディシュティラの瞳は、本当の父である神々の色を継いでいるのだという。

「あ? 母上がそう言うんだから、そうなんだろ」

「うん、そうだよね。なら……」

 脳裏には、一人の男の顔が浮かぶ。都中の人々が詰めかけていたあの競技場で、不敵な笑みとともにこちらを睨みつけたあの男。彼の目は鮮やかな青色をしているように見えた。それとも、気のせいだったのだろうか?

 アルジュナは頭を振って要らぬ考えを追い払った。考えても仕方のないことだ。たとえカルナが何か特別な出自の人間だったとして、だからどうしたというのか。自分にはまったく関係のないことだ。

「あ、おい。あれ見てみろよ」

 ビーマが道の先を指さす。数十歩先を、周囲から頭一つ飛び出た長身の男が歩いていた。間違えるはずもない。カルナだ。道の向こう側から歩いてくる。通りはそれなりに広いので、ぶつかったりすることはないだろう。その隣にはドゥルヨーダナがいて、カルナに何かを話しかけている。ビーマは不機嫌そうに鼻を鳴らした。

「ったく、国王になったんなら、さっさと田舎に引っ込みやがれってんだ」

「そんなの、ただの肩書に決まってるだろ。この都に住むつもりなんじゃない」

 俺だってそれくらいわかってる、と、ビーマはますます口を尖らせた。斜め前から近づいてくる二人は、まだこちらに気づかないらしい。カルナは穏やかな表情で時々頷きながら、ドゥルヨーダナの話に応じているようだ。

 人の肩三つ分ほどの距離を開けてすれ違う。そのとき、やっとカルナはこちらに気づいたらしい。しかしだからといって話しかけてくるわけでもなく、ただアルジュナの目を見て微笑んだ。あの競技会で見せたのと同じ、人懐っこい笑みだった。

 アルジュナは彼から視線を離し、足を速めた。今度は置いていかれかけたビーマが抗議の声を上げる。

「おい、なんなんだよさっきから。立ち止まってみたり急いでみたり。お前、最近おかしいぞ」

 振り返りもせずに答える。

「最近おかしいのは母上だろ。僕は別におかしかないよ。それより、こんな用事はさっさと終わらせよう。僕は早く帰って、弓の修行をしなきゃならないんだから」

 そうだ、僕はもっと強くならなくてはいけない。国一番の弓の名手の称号は、このアルジュナのものなのだから。そうだ、たとえカルナが何者であろうと、やることは変わらない。強くなるだけだ。強くなって、いつの日か彼と決着をつけるのだ。今は、それだけでいい。

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