序章の巻 その2 お妃さまの隠し事

 ある朝目を覚まして窓の外を眺めると、ちょうど日の出の瞬間だった。藍色の空が東に向かうにつれて深い青に変わっていき、薄紫、目の覚めるような純白を経て、朝もやにけぶる街並みの向こうに黄金色の輝きが見え隠れする。

 やがて太陽は建物の影を振り落とし、東の空で完全な輝きを放った。少女は暖かな光を放つ日輪をじっと見つめていた。どうしてか目は痛くなかった。手を伸ばすが、当然のことながら届くはずはない。そのうち彼女は、あることを思い出した。それはちょっとしたおまじない。呪文を唱えて念じれば、どんな神様でもそばに来てくれるのだそうだ。

 手を空に向かって差し伸べたまま、歌うように呪文を唱える。教わったときは使う気などなかったのに、すらすらと出てくるのが不思議だった。

 唱えおわり、まさか本当に効果があるはずはないと思いながらそろそろと目を開ける。するとそこでは、太陽の金色を人間の形に固めたように光を放つ誰かが、窓枠に腰かけて少女の方を見ていた。眩しすぎてはっきりしない顔立ちの中、薄い唇が美しい弧を描いているのを辛うじて見て取れた。

 驚きのあまり固まっている少女の右手を取ると、彼は反対の腕を彼女の腰に回し、優しく寝台から抱き上げた。

「私を呼んだね? 可愛い女」


 少女はふと我に返った。すぐ隣では、柔らかい布を詰めた籠の中で赤ん坊が眠っている。そっと手を伸ばし、丸い頬に触れる。赤ん坊の目が開き、少女は慌てて手を引っ込めた。しかしその子は泣き出したりはせず、自分を覗きこむ少女の顔を見て笑った。ほっとして、また手を伸ばし、今度は産毛同然の髪の毛を撫でる。茶髪だろうか、黒髪だろうか。赤ん坊は怖いくらい青い目をしていた。よく見ると瞳の中央は白金に輝いている。

 肩のあたりを撫でていた細い指が、予想外に強い力で掴まれる。子供らしくふっくらとした腕は、しかし手の甲から肩まで金色の鱗のようなもので覆われていた。今は白い布で隠されている体の各所にも同様のものがあることを、少女は知っていた。彼の右耳のあたりも黄金の輝きを持ち、豪奢な耳飾りのように見えた。

 真夏の中天を閉じ込めたような瞳も、生まれ持った黄金の鎧と耳飾りも、彼がただの赤ん坊ではない、神の子である証左だった。

 なんて可愛い、美しい子だろう。蜜色の肌はしっとりとして、熱いくらい体温が高かった。少女が夢中で赤ん坊の頬を撫で、青い瞳を覗きこんでいると、反対側から伸びてきた腕が籠をさらっていった。

「姫様」

 少女の乳母だった。眉をひそめ、怒っているとも悲しんでいるともつかない顔で少女を見下ろしている。

「今夜には捨てるのです。あまり、情を移されませんよう……」

「ええ……。ええ、そうね」

 浮かせていた手をおろす。寝台の柔らかいが冷たい手触り。少女はそれ以上何も言わず、唇を噛んで目を伏せた。


 二人の女は川岸に立っていた。夕暮れの光があたりを赤く染めている。乳母は籠を持ってその場に屈みこんだ。籠は蓋が閉じられ、中身が見えない。少女は両腕で自身を抱くようにしながら、煌く水面を見つめていた。

 籠が乳母の手を離れる。水面を滑り、岸から離れていく。

 そのとき、赤ん坊の泣き声が少女の耳に届いた。遠ざかっていく籠から聞こえてくる。少女は思わずそれを追いかけた。膝まで水に浸かって手を伸ばすが、届かない。

「ま、待って、行かないで……」

 川底の段差に躓き、少女は前のめりに転んだ。髪までびしょ濡れになりながら顔を上げる。籠はもう芥子粒ほどにしか見えなくなっていた。

「姫様!」

 それでも泣き声を追って進もうとする少女の腕を、乳母が捕まえた。

「行かないで、私の赤ちゃん……!」


「母上!」

 不意にかけられた声に、クンティーは歩みを止めた。振り返ると、後ろにはナクラとサハデーヴァがいた。

「あなたたち……。どうしたの?」

「廊下の向こうから姿をお見かけしたので」

「どこへ向かわれるのですか?」

「お供したく存じます!」

 あどけない少年二人が交互に口を開く様に、クンティーは笑みを漏らした。彼らはユディシュティラ以下三人とは違い、先王パーンドゥの第二夫人マードリーの息子たちだったが、彼女が若くして逝ったあとは腹違いの三人とも仲良く暮らし、クンティーを実の母のように慕ってくれている。

「ガンダーリー様からお茶に誘われたので、お訪ねするところなの。一緒に行きますか?」

 ガンダーリーはドリタラーシュトラ王の妃であり、ドゥルヨーダナの母である。息子同士の仲が悪いにも拘らず、彼女は夫を早くに亡くしたクンティーを何かと気遣ってくれ、同じ王宮に住んでいることもあって、友達のような付き合いをしているのだった。

「いいのですか?」

「ご迷惑ではありませんか?」

 とは言いつつも、二人は嬉しそうに目を見開いた。回廊に面した庭から差し込む陽の光を受けて、栗色の瞳が金色に輝く。

「ええ、子どもがいたほうがにぎやかでいいもの。ガンダーリー様も喜んでくださるわ」

 ナクラとサハデーヴァは口々に礼を言うと、クンティーの一歩前を跳ねるように歩き出した。一つの王宮、とはいうものの、この国の王族全員と大勢の召使たちが暮らしているのだから、かなりの広さがある。クンティーの部屋からガンダーリーの部屋に行くにも、しばらく歩く必要があった。

 子供たちは楽しげに歩いていたが、ふと何かを思い出したように歩調を緩め、クンティーの両隣に並んだ。

「あの、母上。大丈夫ですか?」

 ナクラが右袖を引きながら尋ねる。

「何がです?」

「母上は近頃、沈んでいらっしゃるようだから」

 答えたのは左隣のサハデーヴァだった。クンティーは思わず苦笑してしまう。子供達にまで心配されてしまうほど、顔に出ていたなんて。実のところ、クンティーがあの競技会の日から何かに悩んでいるらしい、という話は、もはやこの王宮内で知らない者はいないほどだった。ガンダーリーがお茶会に誘ってくれたのも、クンティーの気分転換のためである。

「大丈夫よ」

「本当ですか?」

「ええ、本当に」

 二人は納得いかないと言いたげに顔を見合わせたが、声をそろえて、そうですか、とだけ言うと、また前を歩き出した。

 そう、別に悩むようなことではないのだ。だって、誰かに話したところで何かいいことがあるわけでもない。クンティーは庭に目を遣った。よく整えられた緑の植え込みに、色とりどりの花々。それらの上では、白金の太陽が一点の曇りもなく輝いている。

「アンガ国王、ですって」

 子供たちに聞こえないよう、声を潜めて呟く。彼は幸せになるだろう。あんなに立派に育って、力もあって、友人と地位も独力で手に入れた。私の出る幕などない。クンティーは自分に言い聞かせた。

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