マハーバーラタ異聞
たまき
序章の巻 その1 花散る競技場
歓声が鳴り響き、女たちの撒く花びらが舞い散るなか、その少年は円形の競技場へ進み出た。四方をぐるりと囲む観客席に向けて、彼は弓籠手を着けた腕を振る。銀色の鎧が曇天の下でもきらきらと輝いた。
「あれが先王パーンドゥの真ん中の子」
「神々の王から頂いた息子」
「最も誉ある戦士」
「すべての礼儀を知る貴公子だ」
無数の花びらが灰色の空を鮮やかに染め上げた。少年は花吹雪の中で背にかけた弓を手に取り、具合を確かめる。その弓は少年の細い腕では持て余しそうなほど大きく強く作られていたが、それを持つ少年の目に不安はなく、試しに構えてみる姿も堂に入っていた。
「アルジュナ!」
少年の背中に観客席から声が掛けられた。そこは貴人用の席で、並んだ椅子のうちの一つから、白い髭を蓄えた男が立ち上がっていた。彼は少年の弓の師匠であり、この競技会の主催者でもあった。アルジュナと呼ばれた少年は弓をまた背中に戻し、彼の方へ向き直る。
「ドローナ師匠!」
「アルジュナ、期待しているぞ。今日の主役は、疑いようもなくお前なのだから」
敬愛する師匠の激励に、アルジュナは自信に満ちた微笑とともに答えた。
「はい! 修行の成果をお見せいたします!」
ドローナは満足そうに頷くと席に着いた。アルジュナは観客席を見回した。鮮やかな布地で一際美しく、居心地よく飾られた席では、母が日よけの薄衣の下で優美な微笑を浮かべながら座っていた。その隣には一番上の兄と、弟二人。一つ上の兄の姿が見えないが、つい先ほど競技を終えたところだから、まだ武装を解いている最中なのかもしれない。それとも、腹が減ったと言って何かを食べに行ってしまったのかも。彼はすぐ腹を空かすから。思わずくすりと笑って、アルジュナは今の今まで自分が緊張していたことに気づいた。兄にはあとで礼を言っておかなくては。彼のおかげで、いつも通りの気持ちで競技に臨めそうだ。
母に会釈してから振り返ると、円形の広場のちょうど向こう側では召使の手によって小さな丸い的が高々と掲げられようとしていた。左手で弓を、右手で矢をそれぞれ手に取る。
第一王子ユディシュティラは、二つ下の弟の雄姿を見逃すまいとやや前のめりで競技場を見下ろしていた。すると、不意に大きな人影が目の前を横切った。
「おいビーマ、断りも入れずに兄の目の前を横切るやつがあるか」
「怒るなよ兄貴。まだ的の準備はできてねえんだし、今の一瞬で何か見逃したわけじゃねえだろ」
ユディシュティラの弟、ビーマは先ほどまで着ていた鎧を解き、よく日に焼けた浅黒い上半身を晒していた。用意された椅子にどっかりと腰を下ろし、大きく脚を開き、ふんぞり返って腕を組む。彼の左隣、ユディシュティラから見て向こう側の席で、三番目の弟のナクラがいささか窮屈そうに身動ぎした。
「いやに不機嫌そうではないか。どうしたのだ?」
「どうしたもこうしたもねえよ! 兄貴だって見てただろ!」
ユディシュティラはつい先刻、ビーマが競技場に下りた時のことを思い出して、ああ、と少し呆れたような声を出した。
「ドゥルヨーダナのことか。あれは師匠の英断だったと思うよ」
この競技会では、ユディシュティラが最初に武術を披露したことで年齢の順に王子たちが競技場に立つような流れになっていたのだが、二番目に観客の前に進み出たのはユディシュティラの弟であるビーマと、その従兄弟であり同い年のドゥルヨーダナだった。ユディシュティラたちが先代の王パーンドゥの息子である一方、ドゥルヨーダナとその弟たちはパーンドゥの兄であり現在王位にあるドリタラーシュトラの息子。将来王冠がどちらの手に渡るのか分からないこともあって、昔からとても仲がいいとは言えなかった。とりわけ短気なビーマはドゥルヨーダナと衝突することが多く、犬猿の仲だった。
「くそ、師匠があそこで止めなければ、俺の自慢の棍棒であいつの鼻っ柱をへし折ってやったていうのに」
「うん。間違いなく英断だったね」
「はあ!? 兄貴はあいつの味方なのかよ!」
「もちろん味方だとも。幼いころから同じ王宮で育った、家族なのだから」
ビーマは何か言いたげに口をぱくぱくと動かしたが、やがて拗ねたようにそっぽを向いてしまった。そのわざとらしく突き出した唇を見て苦笑していると、不意に競技場から矢の放たれる甲高い音が響いた。二人は慌てて身を乗り出す。
「やった、ど真ん中だ。いいぞアルジュナー!」
つい先ほどまでの不機嫌が嘘のように、ビーマは明るい笑い声をあげた。ついでにユディシュティラの肩に太い腕を回し、がくがくと揺さぶってくる。つられて笑いながら、ユディシュティラも常になく声を張り上げて弟を応援した。しかし二人の声も掻き消されてしまうほど、観客席は歓声に沸きかえっていた。
次の的が掲げられる。召使の準備完了の合図とともにまたアルジュナが弓を構え、撃つ。矢は吸い込まれるように命中し、丸い的は二つの半月となって石畳の上に落下した。また歓声が上がり、花吹雪が舞う。
ユディシュティラは右隣を見た。細い通路を挟んだ隣には、自分とビーマ、アルジュナの母であるクンティーが座っている。彼女は細い手を重ねて口元に当て、頬を紅潮させながら三番目の息子を見守っていた。その目は眩しそうに細められ、涙に潤んでいた。
「母上?」
優しく声をかけると、クンティーははっとして振り返った。その拍子に、黒曜石のような右目から一粒涙がこぼれ落ちる。
「すごいですね、アルジュナは」
三児の母といえど未だ美しい王妃は、何度も頷いた。
「ええ、ええ本当に。あの子も、あなたたちも、本当に立派に育ってくれました……! なんて嬉しいこと」
お父様も、天から見守っていてくれることでしょう、と彼女は空を仰ぎながら呟く。
「随分にぎやかになったな。競技場の様子を話して聞かせてくれ、我が息子よ」
他の誰よりも高い位置に豪奢な羅蓋の差しかけられた席があり、一人の男が深々と腰かけていた。黄金づくりの冠をいただいていることからも、彼が国王の地位にあることが分かる。しかし競技会の見物をしているにしては、彼の様子は奇妙だった。身を乗り出すことも、眼下に視線を向けることもなく、それどころか瞼は閉じたまま。
クル国現国王ドリタラーシュトラは、生まれつき盲目だった。
「はい、父上」
息子と呼びかけられたのは、隣に据えられた椅子に足を組んで座る少年。彼、ドゥルヨーダナは、華やかな行事の席に似合わず退屈そうな、不機嫌そうな顔で競技場を見下ろしていた。
「二回的が掲げられ、アルジュナはその両方とも、中央を射貫きました。手を広げたほどの大きさの的です」
「おお、そうか。流石はドローナ殿の愛弟子というだけはある。次は何を披露するのだ?」
「別の的が掲げられるようです。先ほどのものより小さな的ですね」
楽しげに笑う王をよそに、ドゥルヨーダナは行儀悪く頬杖をついた。
丸い的の次は、さらに小さい的、わざと風に揺れるように作られた的、仕掛けによって空中でぐるぐる回る的、並んだ的を連続で、また三つの的を同時に番えた三本の矢で射貫いた。次々に掲げられる的以外は何も目に入らず、召使の合図以外は何も聞こえず、アルジュナはただ無心で矢を放ち続けた。
鳥の形をした的の赤く塗られた左目を射貫き、それが下げられると、その後しばらく待っても新しい的が掲げられなかった。アルジュナが首を傾げていると、突然銅鑼の鳴るような声が聞こえた。
「すべて的中だ! 我が弟子アルジュナは、一つたりとも外さなかった! 仕損じなかった!」
ドローナの声だった。それをきっかけに、アルジュナの世界に色が戻ってきた。貴人も庶民も、誰もが自分に向けて感嘆の声を上げている。不思議にぼんやりした気持ちで観客席を見上げていると、いきなり後ろから何かがぶつかってきた。思わずよろめいてしまう。
「すごいです! 兄上!」
二人分の少年の声がぴったり重なった。アルジュナの鎧に左右からしがみついていたのは、母親の違う弟二人、ナクラとサハデーヴァだった。
「二人とも、危ないだろう」
二つ年下の双子はアルジュナより頭一つ分背が低く、体つきも細い。しかし彼らもれっきとしたドローナの弟子であり、剣と刀の名手なのだった。
「だって、本当に素晴らしかったんだもの」
「私たち、真っ先にお祝いを言いたくって」
「この競技会の一等賞は間違いなく兄上ですね!」
「ええ、そうに決まっておりますとも!」
ナクラとサハデーヴァが交互に言い募るので、アルジュナは左右どちらを向いたらいいものか分からず、目を回しそうになった。
「でも、私たちも頑張ります」
「ええ、頑張ります。なので」
「兄上はお席からちゃんと見ていてくださいね!」
二人はアルジュナの両腕を掴んでぐいぐいと後ろへ引っ張る。そこでようやく、アルジュナは自分の番が終わったことを理解した。しかし頭では分かってもなんとなくこのまま競技場を後にする気が起きず、弟に逆らってその場に踏みとどまった。
「ちょっと待ってくれ。これで終わり? 本当に終わりなのか?」
「はい、そうですとも」
「素晴らしい妙技の数々でした」
弟たちは困惑しているが、それよりも混乱しているのはアルジュナの方だった。確かに彼らは正しい。自分は今、他の誰にも成せないような技を披露した。ドローナ師も満足している。母も兄も褒めてくれるだろう。それで十分なはずだ。だというのに、この胸の気持ち悪さはどうしたことだろう。何かが足りないのだ。あんな的をいくら撃ちぬいたところで駄目なのだ。僕の力は―――、
「こんなものなのか! こんなものが、この国一番の弓術とはな!」
そのとき、雷鳴のような大音声があたりに響き渡った。アルジュナは弟の手を振り払って声のした方を見た。貴人用の席の反対側、庶民たちが居並ぶ椅子代わりの段を悠々と歩き、金網を乗り越えて競技場に降り立ったのは、一人の偉丈夫だった。
背は高く、獅子を思わせる広い肩幅と引き締まった体つきの若者だが、なんともちぐはぐな身なりをしている。背に負った弓と箙、腰に吊るした剣、袖の短い衣服は庶民らしい粗末なものだ。しかし彼の身に着けている弓籠手は黄金でできているように見える。長さの揃わない黒髪の陰では、大きな耳飾りがやはり金色に輝いていた。
彼が競技場のアルジュナに向かって歩を進めると、分厚く空を覆っていた雲が途切れて彼の上に明るい陽光を浴びせた。突然の強風が舞い落ちる花びらをもう一度空高くへ巻き上げ、誰かの席から飛んだらしい純白の布が、奇妙な生き物のように空中で踊る。謎の男は背中から弓を手に取り、その先端でアルジュナを指した。
「俺はあなたより、もっと優れた技を披露できる。驚かれませんよう」
その言葉に観客席はざわつき、思わず立ち上がる者もいた。その男の不敵な笑みに、アルジュナは頬が熱くなるのを感じた。そして誰が止める暇もなく、彼は上空に向けて立て続けに五本の矢を放った。
「赤、黄、白、また赤」
弓を下ろすと目を伏せ、彼は観衆に聞こえるように言った。人々が何のことかと思ってみていると、放った矢が戻ってきて地面に突き立った。その矢じりによって、花びらが一枚ずつ縫い留められている。最初に落ちてきた矢には赤い花びらが。それから、黄、白、赤。
「日よけの布」
最後の矢には、白い布が絡みついて風にはためいていた。
「そちらの、緑の衣装のご婦人から飛んだものです」
アルジュナは目の前に並んだ矢に留められた花びらを見つめたあと、後ろを振り返った。緑の服の貴婦人―――母は、確かに先ほどまで被っていた薄衣をなくし、美しい黒髪を晒している。それらを確認した瞬間、アルジュナの背筋を得体のしれない震えが這い上ってきた。観衆のざわつきも徐々に大きくなり、やがて割れるような歓声になった。
「そうか、僕に挑戦しようっていうんだな」
まるで自分の声ではないような低く、冷たい声に、アルジュナは驚いて自らの喉を押さえた。男はにっと笑った。親しい友人にするような、人懐っこく気安い笑顔だった。
「ただ同じことを繰り返すのでは面白くありません。一騎打ちを、しましょう」
望むところ、と弓を握ろうとすると、背後から制止の声がかかった。ドローナだった。
「待て。一騎打ちをしたいというなら、まず名乗るのが礼儀だろう」
観衆の声は若干低くなり、誰もがこの闖入者の正体に注目している様子だった。
「我らがクル国の王子たるアルジュナに挑戦するからには、そなたもそれに相応しい生まれなのだろうな? 父母の名を聞かせよ」
ドローナが威厳をもって尋ねると、人々も身を乗り出し、耳をそばだてた。
「それは……」
しかし、男は何事かを言いよどんだきり、唇を噛んで俯いてしまった。観客席に再びざわめきが広がる。
「答えられないのか、ならば……」
「お待ちください」
冷ややかなドローナの声を、ドゥルヨーダナが遮った。席を立って段を降り、競技場の入り口に立つ。
「お前、名はなんという」
「はい、カルナと申します」
「そうか。ではカルナ、こちらへ来い」
挑戦者―――カルナは、アルジュナと弟たちの脇をすり抜けてドゥルヨーダナの前へ進み出た。ナクラとサハデーヴァは警戒心もあらわにカルナを目で追った。
「ドゥルヨーダナのやつ、一体何をするつもりでしょう」
「ねえ兄上。……兄上?」
アルジュナは胸中に渦巻く感情を整理するのに必死で、両脇で話す弟たちのことなど目に入っていなかった。
まさか、希代の弓取りと讃えられるこの僕を相手に真っ向から喧嘩を売ってくる者があろうとは! アルジュナは怒っていた。奴は僕の技を侮辱した。長年の鍛錬を鼻で笑われたのだ。決闘でも何でもしてやろうじゃないか。こちらの方が優れているのだということを証明してやる。
でも、さっきからうるさいほどに心臓が音を立てているのは、侮辱されたからじゃない。今日会ったばかりのあの男が、ずっと、長いこと会いたいと望んできた相手のような、そして彼は他ならぬ自分のために今この場に下りてきてくれたような、何の根拠もないのにそんな気がしてならないのだった。
さらには、胸の高鳴りとは裏腹に、弓を握る手のひらは嫌な汗にじっとりと濡れていた。当たり前だ、アルジュナにとって、自身と同等かそれ以上の技量を持つ相手と本気で戦わなくてはならない事態など生れてはじめてなのだから。その緊張は的を射貫いた時とは比べ物にならない。
人知れず平静を失っているアルジュナをよそに、ドゥルヨーダナは話を進めた。
「ドローナ先生! お聞きください。ここにいるカルナは、弓の腕はアルジュナに匹敵し、大勢の観衆の前に立つ度胸もあります。彼はアルジュナと一騎打ちする価値のある勇士だと、私は判断します。しかし、王族が劣る身分の者と戦ってはならないとおっしゃるのであれば、私は今ここで、彼を王位につけます」
ドリタラーシュトラ王をはじめとした王族の面々が、一斉に驚きの声を上げる。ドローナは、困惑して白い顎髭を触りながらドゥルヨーダナに問うた。
「王位……とはいうが、どこの国のだね」
ドゥルヨーダナは怯むことなく、きっぱりと答える。
「アンガ国です。かの国は我が国の支配下にあり、その玉座は数年前より空のままです。よろしいですね、父上」
「あ、ああ」
息子の強い口調に圧されたのか、ドリタラーシュトラ王は事態をよく呑み込めないながらも頷いた。ドゥルヨーダナは満足げに礼を言うと、自分の首飾りを外し、カルナに微笑みかけた。
「即位式はまた後日、だな。今は証として、これを渡しておこう」
面食らって動けないでいるカルナの首に、金鎖の飾りをかけてやろうとする。彼より頭一つ程度背の高いカルナは、慌てて頭を下げた。
「……ありがとうございます、ドゥルヨーダナ様。しかし俺は、これほどのご厚意に何で報いたらいいのでしょう」
「何もいらない。おれはただ、お前とアルジュナの一騎打ちが見たいだけだ。だが、そうだな……。では、おれはお前に、永遠の友情を望む」
カルナに笑いかけながら、ドゥルヨーダナは彼の背中越しに一瞬だけアルジュナを見た。その口から吐き出される「友情」という言葉とは裏腹に、酷薄な印象をアルジュナの胸に残していった。
ドゥルヨーダナが自分の席に戻ったのを確認すると、ドローナはざわつく会場を一旦鎮めようと咳ばらいを一つした。
「では……」
「カルナっ!」
しかし、場を仕切りなおそうとした言葉は、またもや会場のどこかから響いた大きな声に遮られた。半ば絶叫のようなその声は、庶民たちが並ぶ席の一点から発せられていた。いかにも庶民然とした粗末な身なりをした初老の男が、胸の下あたりまでの金網を苦労して乗り越え、転がるようにしてカルナに駆け寄る。
「父さん!?」
彼をみとめたカルナは、思わずといった様子で叫んだ。様々な憶測や噂話によって、会場が再び騒々しくなる。
「カルナ……、どこに行っていたんだね。心配したんだよ、母さんも、私も」
ようやくカルナのもとにたどり着いた男は、差し出された手にもたれ、苦しい息をつきながら言った。
「んん……、あの男、なんか見覚えあるな……」
一方、ユディシュティラとビーマは観客席からことの成り行きを見守っていた。第二の闖入者に目を凝らしていたビーマは、やがてその男のことを思い出した。
「そうだ、あいつアディラタだ! 伯父上の御者じゃねえか!」
ビーマは特別声を張り上げたつもりはなかったが、平常より大きすぎるほど大きい彼の声は、その事実を会場すべてに知らしめるのに十分だった。
「ということは、あのカルナってやつ、御者の息子か? おいドゥルヨーダナ、損したな! せっかくの王位を御者の息子なんかにやっちまうなんてよ!」
あからさまな嘲笑を含んだその言葉に、カルナは唇を噛んで俯いた。遅れてきたためにこれまでのことを知らないアディラタは、それでも何かを察して息子に謝った。カルナは黙ってかぶりを振る。
ドリタラーシュトラ王は見えない目を、息子がいるであろう左のほうへ向けた。彼がビーマの言葉に怒りだし、公衆の面前で喧嘩を始めるのではないかと心配したのだった。しかしドゥルヨーダナは一つ大きく息をつくと、その口元を笑みの形に歪めた。
「立派な兄上にべったりな弟くんは、さすが言うことも立派だなあ?」
たちまち顔を真っ赤にして立ち上がりかけたビーマを、ユディシュティラが押しとどめる。
「たとえ彼が御者の息子であろうとも、おれは発言を撤回する気はない。カルナはクシャトリヤとの一騎打ちに値する男であり、また一国の主たるにふさわしい。そもそも、英雄の資質を血筋で判断しようという方がおかしいんだ。クシャトリヤの本分は戦いにある。ならば、つべこべ言わずに武器を取れ。どうだ、この場におれのしたことに我慢ならないやつはいるか? もし文句があるなら、弓でも戦車でもかかってこい。相手をしてやる」
ドゥルヨーダナの口上に、会場のそこここで喝采が上がった。
「アルジュナ! お前はどうだ。カルナと戦うのか、戦わないのか」
観客席の上から声を投げられ、アルジュナは夢から覚めたように顔を上げた。カルナのほうを見ると、彼は老父の手を握りながら、先ほどとは打って変わって真剣そのものの表情でアルジュナを見つめていた。
「ぼ、僕、は……」
口の中が乾ききって、上手く声が出ない。しかし返答をする前に、サハデーヴァが左手を引いた。
「でも、兄上。日が落ちます」
西の空では、茜色の日が最後の光を失うところだった。
「日が暮れては、一騎打ちはできません」
ナクラが言う。
「競技会は、お開きです」
夜になったので、結局一騎打ちは行われなかった。ドローナが競技会の終了を宣言したとき、ユディシュティラは思わず安堵の溜息をついた。心配だったのだ。アルジュナの強さを疑っているわけではないが、彼はまだ子供だ。対してカルナは、同等の弓の腕を備えているうえ、体格も年齢もアルジュナを上回っていた。
「何事もなくてよかった……。ねえ、母上」
ユディシュティラは右側に顔を向け、傍らの母が小刻みに震えているのに気付いた。自分と同じ心配をしているのだろうと思い、危険は去ったのだと伝えようとしたが、直前で言葉を飲み込む。彼女の蒼白になった唇から呟きがこぼれるのを聞いたからだった。
「あの、あの子、は……。まさか、あのときの……」
クンティーの視線の先には、カルナの姿があった。
***
「さて、これより語りますは、とある一族の長い戦いの物語。しかしそのように名付けてしまうには、あまりに多くのものを含み、複雑にねじれている。かつて偉大な聖仙ヴィヤーサが織り上げ、像頭のガネーシャ神が筆記し、ヴィヤーサの弟子ヴァイシャンパーヤナに伝えられ、彼がまたある王の前で語った古い、古い叙事詩(イティハーサ)。そして今はこの私が、あなたがたに聞かせるためここに座っている」
苦行者たちの森の奥深く、たくさんの聖仙に囲まれて、吟誦詩人は語り始めた。祭祀のために焚かれた火が、彼の顔を明るく照らしていた。聖仙たちは各々草を編んだ粗末な衣を身に着け、長年の苦行のために痩せ細りながらも、何一つ不足などないように微笑を浮かべ、くつろいだ様子で詩人の快い声に耳を傾けていた。
「道徳、繁栄、愛情、救済、……あらゆるものがこの物語のうちにある。ここにあるものは他でも見つかるかもしれない。しかし、ここにないものは、この世のどこにも存在しない」
詩人は楽器を抱えなおした。祭祀の煙が上っていく先には満天の星々。金砂銀砂を散りばめたように輝く天蓋が、彼らを見下ろしていた。
***
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