第28話 甘い

「おぉ、おぉ、これはまたようお似合いじゃ」

「それがしが選び申し上げた赤地錦には及ばぬがの」

「なんじゃとぉっ」

「御渡り様には何をお召しになられても美しゅうござるわ」


御渡り様と一緒に朝食をとるという栄に浴するべく、朝っぱらから部屋へ押し掛けてきた義秀と忠興は、相も変わらず張り合いはじめた。藤木は義秀と競い合うように忠興が選んだ緑地錦の直衣を身につけている。くすくす笑いながら畳の上にゆったりと座っていた。


「元気だねぇ、二人とも。夕べは遅くまで飲んでたんだって?」


脇息にもたれた姿が妙に艶っぽく、義秀と忠興はしばし口をつぐんだ。単に体のあちこちが痛んで動きが緩慢になっていただけなのだが、傍目にはそれが不思議な落ち着きと艶やかさに映っている。


「僕なんて、もうしばらくお酒はいいって気分だよ」


ついでにエッチも、と心の中で呟いた。酒もセックスもその時は気持ちいいが後が大変だ。覚えのあるこの頭痛は明らかに軽い二日酔いのせいだった。


「藤、薬湯だ」


国明が部屋へ入ってきた。続いて秀次と若い郎党が朝の膳を運んでくる。


「あ、あの苦いやつ?」


顔を顰める藤木の傍らに国明は腰をおろした。すっと藤木の体に手をまわし、抱き寄せるようにして薬湯の椀を藤木に渡した。藤木も素直に国明の胸に納まる。


「ひどく痛むか?」

「ううん、大丈夫だよ」


薬湯の椀に口をつける藤木の体を国明は支えてやる。


「苦い…」

「我慢いたせ」

「気軽に言ってくれるよね」

「そう怒るな」

「怒るよ、自分ばっかりすっきりした顔しちゃって…」


文句を言いつつ藤木がふと周りを見ると、膳をしつらえていた秀次と若い郎党が目の前でぱかり、と口を開け動きを止めている。忠興と義秀も言い合いをやめ、まじまじと自分達を見ていた。


「え?なっ何?」


きょとん、と藤木は首を傾げた。


「何だ?」


国明も怪訝な表情で顔を上げる。


「ごっご無礼つかまつりましたっ」


秀次が慌てて仕事を再開した。若い郎党は真っ赤な顔で俯き、せっせと手を動かし始める。焦るあまり食器をぶつけ、秀次にたしなめられた。その秀次も白湯を零しそうになって、一人あたふたしている。忠興も居心地悪げにごにょごにょと言った。


「いやその…御渡り様にはなんぞござりましたかな」

「あ~、善きかな善きかな」


忠興の言葉を制し、義秀が意味ありげに顎を撫で笑った。忠興が顔を顰める。


「義秀殿、何を一人納得しとる」

「おぬしのごとき武骨者にはわからぬであろうなぁ」

「えぇい、まわりくどいわっ。はっきりせぬかいっ」

「こ・と・わ・る」

「お二方とも、膳が整いましてござりまするぞ」


むがーっ、とにらみ合いをはじめた二人を秀次が呆れながら止めた。それから、懐から書状を出し国明に差し出す。


「今朝方、使いが参りまして、本家より至急返事をとのことでござります」

「今でなくてもよかろうに」


渋い顔をする国明に秀次が困り顔で言った。


「されど殿の婚儀に関することゆえ、直ちに返事を持ち戻りたいと使いの者が控えておりますれば」


かたり、と薬湯の椀が藤木の手から滑り落ちた。椀の底に残っていた薬湯が畳にこぼれシミを作る。


「あ…ごめん…」


急いで拭こうとする藤木の手を国明が止めた。秀次が布でさっと拭き取る。


「ごめん、手が滑っちゃって…」


指先が震える。国明がきゅっと握ってきた。


「すごく…苦かったから…」


畳についたシミを見つめながら藤木は呟くように言った。


国明の婚儀…


忘れていたわけではない。だが、いずれやってくる現実として真剣に考えたことがあっただろうか。国明と肌を合わせた今、婚儀がなるという事実は想像以上に重い衝撃を藤木に与えた。


この館に国明の妻が住む…


国明が愛しているのは藤木一人だ。そんなことはもうわかりすぎるほどわかっている。だが、子を成すため、国明は妻を抱く。そのことを国明はためらわないだろう。この時代の人間なら普通のことだ。愛情はなくとも務めとして妻を抱き、子を成す。だが、藤木にそれが耐えられるのか。


さっと全身の血が下がった。


夕べ、藤木を抱いた同じ腕が女を抱くのだ。そして、その女が国明の子を抱いて自分に挨拶にくる。守り神である藤木の祝福を受けるために。


吐き気がした。さして広くもないこの館で、妻を抱く国明の気配を感じながら藤木は夜を過ごさねばならない。なまじ体を重ねただけに、生々しい現実としてそれは藤木にのしかかってきた。同時に、藤木は自分の甘さにつくづく嫌気がさす。はじめからわかっていたことだ。国明の婚儀も、この時代で生きるということがどういうことかということも。


覚悟、足りないな、僕は…


自嘲を漏らし、藤木が畳についた薬湯のシミから目をそらしたその時、突然ぽすん、と国明の胸に抱き込まれた。


「なっ」


驚いて顔を上げると、国明の横顔があった。厳しい目で正面を見据えている。それから徐に口を開いた。


「義秀伯父、忠興叔父、この婚儀はないものとしたい」


一瞬、場が固まった。全員、言葉もなく国明を見つめる。淡々と国明は続けた。


「妻は娶らぬ。神仏に仕える者として身を潔斎し、今後おれは女に触れぬ」

「なっ…」


ぽかんと国明を見ていた中で、いちはやく我に帰ったのは忠興だった。


「何を言わるるぞっ」


口角泡をとばす勢いで忠興は吠えた。


「すでに仕度の整いて、後は嫁御の到着するを待つばかりというに、いっかな急なっ」

「急ではない。御渡り様が榎本に渡らせ給うたときより考えていたことだ」


国明は藤木の両肩に手を置き己の正面に据えた。藤木は驚きで目を見開いたままなすがままになっている。国明は静かに言った。


「そもそも、海神様の御使い様を館にお迎え申し上げたからには、身を慎みお仕え申し上げることこそ榎本の当主としての務めと存ずる。幸いおれはいまだ妻帯せぬ身、いや、なればこそ神仏のご降臨あそばされたのかもしれぬ。勿論、当主たる責務を果たすことに変わりはないが、体裁が悪ければ出家して法体となってもよい」

「とっ殿っ…」


穏やかだがきっぱりとした国明の口調に忠興は言葉がでない。矛先を秀次に向けた。


「こっこりゃ与三郎っ、おぬしも何か言わぬかっ」

「あっいや…しかし、殿の言われることも道理かと…」


言葉途中で忠興がものすごい顔をしたので秀次は首を竦めた。忠興は気を取り直したようにえほん、と咳払いをすると居住まいを正し国明に向く。


「殿、三浦の息のかかった嫁が嫌ならばそれでもよい。この婚儀、わしとて気乗りはしておらなんだわ。したが、跡取りは必要じゃ。女を抱かねば子は出来ぬぞ」


あけすけな物言いに国明が顔を顰めたが何も言わない。忠興は床をばしばし叩いて畳みかけた。


「殿が子をなさねば榎本は絶える。妻を娶らぬというのなら、外で女に子を…」

「跡取りの子は叔父貴が作ってくれ」

「なっなっなんじゃとぉぉっ」


今度こそ忠興は言葉を失った。あんぐりと口を開けたままく目をひん剥いている。国明は藤木から離れ下座に回ると、やおら居住まいを正して手をついた。


「叔父上、今のおれがあるのは叔父上のおかげだ。父上が倒れられてから未熟なおれが当主のかわりをやってこられたのは叔父上が支えて下されたからだ」


感謝している、と頭を下げられ、忠興はあたふた手を振り回して狼狽えた。


「とっ殿っ、頭をあげてくだされよ。わしなんぞに何を言われる…」

「叔父貴っ」


国明の肩が震えた。


「おれは叔父貴の家族を死なせてしまった」


忠興がはっと息を飲む。義秀と秀次もぎくりと体を強ばらせた。思わぬ話に藤木はひたすら皆を凝視するばかりだ。


「忠範兄、忠嗣兄ばかりか、叔母上や光子まで死なせてしまった。おれがいたらぬばかりに…」


国明の声に苦渋が滲む。


「おれは叔父貴にずっとすまぬと思うていた。おれがもう少し賢ければ、しっかりしておれば、むざむざ殺されるようなことにはならなかった」

「それはっ、殿、それは違うぞっ」


吠えるように忠興は国明の言葉を遮った。見開かれた目が潤んでいる。


「殿がご自身を責めることはないっ」


だが、国明は首を振る。


「父上がご健勝ならば、あんなことにはならなかった。おれの未熟さが呼んだことだ」

「すまぬなど言うなぁ、国明」


ぼろり、と大粒の涙が忠興の目からこぼれ落ちた。


「忠範も忠嗣も武芸の家に生まれたのじゃあ。主家を守って死ぬることに何の後悔のあらんや。みっ光子とて…」


ぐいっと忠興は目を拭った。


「光子とて板東武者の娘じゃ、覚悟くらいあったわっ」

「光子はまだ十三だった…」

「ならば殿とて十三だったではないかっ。」


どん、と忠興は拳を床に打ちつけた。


「それに殿は仇を討ってくだされたではないか、あの野伏せりども、皆殺しにしてくだされたではないか。感謝しておるのはわしのほうじゃやいっ」


忠興はごしごしと袖口で目を擦った。義秀が吐き捨てる。


「ただの野伏せりではなかった。国忠殿の病につけこみ、いずれが送り込んできた輩であったか。随分と榎本の庄で人を殺してくれたわ」


その時の事を思い出したのだろう、秀次が悔しそうに唇を噛んだ。藤木はただじっとしているしかない。国明が顔をあげ、ぐずっ、と鼻をすする忠興にいざりよった。


「だのに叔父貴はいつもおれのことを優先して、叔父貴自身のことは後回しになさる」

「わしはやりたいようにやっておるだけじゃ。国明がどうこう気を回すことはないわい」


涙を拭いて拗ねたように口を曲げる忠興に国明が優しい笑みを浮かべた。


「叔父貴、おれはな、もう一度叔父貴が家族を持ってくれるといいと思っている」


国明の意外な言葉に忠興は目を瞬かせた。国明は静かに微笑んでいる。


「幸せになってもらいたいのだ。これからもずっと叔父貴には面倒をかけるが、おれも少しはましになった。叔父貴ばかりに苦労はさせぬ」

「わっわしはっ」


忠興が身を震わせた。


「わしは…」

「幸せになってくれい、叔父貴」


また忠興の黒々とした目から大粒の涙が零れ落ちた。


「わしには国明がおるっ、御渡り様もおられるっ、わしは十分幸せじゃぞぉっ」


忠興は堪えきれずおいおいと男泣きに泣きだした。その背を義秀がばしんばしんと叩く。


「あいわかった。わかったぞ、国明。忠興殿の嫁はこの義秀が世話いたそう」

「お願い申し上げまする、伯父上」


国明が義秀に一礼した。


「万事まかせられよ。女を見る目は親父殿に負けておらぬ。よいおなごを世話しようぞ」


かか、と義秀が豪快に笑い、もう一度忠興の背を叩く。


「泣くな、忠興、めでたいことになったではないか」


それから義秀は悪戯っぽく声をひそめる。


「そこでだ、忠興殿」


口元をにやりと上げて忠興の脇を突いた。


「乳が大きい女がいいか、尻の大きい女が好みか」

「あぁっ?」


忠興が素っ頓狂な声をあげた。にまにまと義秀は含み笑いをする。


「それとも、うんと若いおなごにいたそうか」

「あぁぁ~っ?」


涙に濡れた強面が途端にゆであがった。その顔に全員が吹き出す。あまりの急展開にぽかんとしていた藤木も思わず笑い出した。


「そりゃあ羨ましゅうござりますな。叔父殿、たんと子をこさえられませよ」


ここぞとばかりに秀次がからかいの言葉をなげる。国明も笑った。


「叔父貴、子孫繁栄の面倒までかけるが、宜しく頼む」

「こりゃあ、励まねばなるまいな、忠興殿」

「ええいっ、やかましいわっ」


義秀にまでからかわれて、忠興は真っ赤な顔のまま唸り声をあげた。それから、むっと表情を改める。


「とっ殿こそよきおなごを娶りて幸せになられねば…」


国明が穏やかに笑った。そして真っ直ぐに藤木を見つめる。


「御渡り様にお仕え申し上げることこそがおれの幸せだ」


今度は藤木が赤くなる番だった。義秀が楽しげに頷く。


「さても重畳重畳」


心地よい海風が庭から入り込み、部屋の中を吹きすぎていく。国明が藤木の側に来て座った。秀次もにこにこしながら若い郎党と給仕を始める。女の好みを聞き出そうとする義秀と赤くなって狼狽える忠興が賑やかだ。藤木は横に座る国明を見た。国明が笑いかけてくる。藤木も笑った。穏やかで幸福な朝だった。







ひょう、と矢が唸り軽快な音をたてる。ぱすっ、ぱすっ、と立て続けに矢が的を射抜いた。ががっ、と馬を返すと、国明は再び馬腹を蹴った。疾走しながら次々と矢を射る。放たれた矢は全ての的を正確に射抜いていった。


「すごい…」


藤木は目を見張った。昨日設えた宴会用の座が清められ、藤木はそこに座っていた。日よけの大きな傘がさしかけられ、隣には義秀が控えている。その先では、国明や榎本、和田の郎党達がいくつも立てられた的に向かって馬上から矢を射かけていた。


ぱすっ、という小気味いい音がまた響いた。武芸自慢の一門だけあって皆それぞれに技量が高い。その中でも国明は群を抜いていた。馬を駆るスピードも矢を射る早さも桁外れだ。しかもこれまで射た矢は全て的を射抜いている。


「すごい、国明」


藤木はすっかり興奮していた。義秀が満足そうに膝を叩く。


「うむ、見事」


それから藤木に言った。


「あれは太刀で切り結ばせましても強うござりまするが、なにより弓矢をよくいたしましてな。那須宗高殿も舌を巻く腕でござります」

「え?扇の的の?」


那須の与一宗高は秀次の身内だ。以前、秀次が嬉しそうに話してくれたことがある。義秀は頷いた。


「戦時であれば大功をたて名もあげられましょうが、惜しいことでござりますよ」


戦で名を馳せた男ならではの感慨だ。義秀は続けた。


「今朝、話をいたしました野伏せりの一団でござりますが、いや、野伏せりのふりをした武士団でござりましたよ。あれは榎本をつぶすためにまわされた輩でしたな。忠興のことがござりますゆえ、あまり話にのぼりませぬが、あの時の国明はたいしたものでござりました」


痛ましさを滲ませながらも、義秀はどこか誇らしげだった。


「弔い合戦じゃと申して某も同道いたしましたが、いやはや、国明の戦ぶりは見事の一語につき申した。矢の届かぬと思われた所から次々と敵を射殺しましてな。崩れたところに榎本一党を率いて切り込み、一人残らず討ち取り申した。十三の国明にとっては初陣も同然、それが血を浴びることも恐れず刀をふるう姿は、流石勇猛で知られた一門を束ぬるに相応しいものでござりましたよ」


義秀は満足そうに目を細める。藤木の胸がちり、と痛んだ。初めて国明に会ったときの、野伏せりを切り伏せた姿がふと浮かぶ。血塗れの刀を振るい、平然と人を殺していた。だが、この時代に生きるとはそういうことなのだ。人の命はいかにも軽い。藤木の倫理観ははるか未来のものなのだ。ぱすっ、と国明の矢が的を射抜く音が響いた。馬首を巡らせた国明がまっすぐに藤木を見る。武具が日の光をはじき、馬上の国明は颯爽と海風を受けていた。


「…戦時でなくてよかった…」


藤木はぽつっと呟いた。もう平家は滅んでいる。出陣して国明が死ぬおそれはないだろう。たくさんの人を殺すことも。


「ご心配召さるな。国明ほどの武者、戦があっても手柄をたてこそすれ、なんの心配もござりますまいよ」


藤木の言葉を、ただ国明の身を案じているだけだと受け取った義秀は、力強く言った。藤木は曖昧に微笑みかえす。


「うん、そうだね、義秀…」


三十年ほど昔に平家は滅んだと言っていた。今が西暦何年なのか定かではないが、実朝が鎌倉殿だということは、承久の乱が遠からずあるということだ。国明も幕府軍の一員として戦に赴くのだろうか。榎本一党をひきいて、秀次も忠興も戦をしにいくのだろうか。ふっと、なにかが心の隅に引っかかった。


承久の乱の前になにか、なにかなかったか。何かで読んだような…


「伯父上」


突然間近で声がした。目の前に国明が立っている。馬は秀次にあずけていた。


「伯父上もなされませぬか。皆が喜びまする」


国明は濃緑の鎧直垂に青海波の射籠手を身につけている。凛々しい若武者ぶりに藤木は一瞬目を奪われた。


「おぅ、久しぶりに皆と競ってみようか」


義秀が立ち上がった。もともと参加するつもりで、すでに鎧直垂は身につけている。和田の郎党が山吹色の射籠手やえびらを持って駆け寄ってきた。


「おれはここで拝見いたしましょう。後で太刀の相手をお願い申しあげる」

「おぅおぅ。どれほど腕があがったかみてくれようぞ」


野太い声で威勢良くいらえを返すと義秀は自分の馬の手綱をとる。国明はかけてぶくろを外しながら藤木の隣に腰を据えた。藤木はなんとなくドギマギしてくる。常々、馬に乗る姿をかっこいいと思っていたが、矢を射る国明は惚れ惚れするほど姿がよかった。しかもあの腕である。藤木はぽぅっとその横顔を見つめた。藤木の視線に気づいた国明は、ん?と首を傾げた。


「藤?」

「うわっ、はっはははいっ」


我に帰って慌てる藤木に、国明はふっと悪戯っぽい笑みを浮かべる。


「なんだ、惚れ直したか?」

「なっ…」


図星だったこともあり、藤木は真っ赤になった。


「見惚れるほどよい男ぶりであったろう」

「ばっばっかじゃないのっ」

「はっはっ、照れるな」


国明は楽しそうに笑い声を上げた。すっかりいつもの調子である。藤木は赤くなったまま国明を睨んだ。


なんだよ、昨日までは可愛く殊勝だったくせ。


ぱすっぱすっと軽快な音が響き、郎党達がやんやと囃す声がした。義秀が矢で的を射抜いている。


「伯父上は膂力があられるからな。弓も他より強いものを使われる」


国明が感心したように言った。


「伯父上は弓よりも太刀のお強い方だからな。手合わせしていただくのがおれの励みだ」


いくさ場で数々の戦功をあげた伯父にはやはり憧れるのだろう。藤木に向かって嬉しそうに言う。藤木はそっと国明の手に自分の手を重ねた。国明が少し驚いた顔をして、それから幸せそうに破願する。藤木も微笑み返し、それから弓矢を射ている皆の方へ目をやった。和田と榎本の郎党同士で勝負になっているようだ。さっきから心に引っかかっていた何かを藤木はいつのまにか忘れていた。

昼を一緒に軽く食べてから義秀は帰っていった。婚儀に関しては本家三浦へ忠興が、鎌倉にある婚家の代理人のところへは秀次が使者にたった。帰りに鎌倉で女を見繕ってやる、という義秀に忠興が慌てていたが、本人も満更ではなさそうだ。なんとなく疲れの残っている藤木は、義秀達を見送ると部屋へ戻った。畳の上にごろりと横になる。


「あたたっ…」


体の奥がずきり、と痛んで藤木は転がりながら腰をさすった。筋肉痛とも病気の時の痛みとも違う、独特の感じだ。体の深いところに疼きがある。


「いて~」


藤木は小さく呟き天井を見上げた。庭からそよ、と海風がはいりこみ、潮の香りを運んでくる。この一月でなじんだ香り、そしてこれからずっとこの香りを身近に暮らしていくのだ。国明の笑顔が脳裏に浮かんだ。心からの笑みを見せてくれるのが嬉しい。体はだるいし奥がしくしく痛むが、それすら幸福の証のように思える。藤木はくすっと一人笑った。


僕もかなり国明にやられちゃってるね。


痛みすら幸福なんて三文恋愛小説じゃあるまいし、と己の心持ちがおかしくてくすくす笑い続ける。


「どうした、藤」

「ん~国明~」


突然声がしても藤木は驚かなかった。そろそろ国明が部屋にくるだろうと思っていたのだ。寝ころんだまま両腕を上に伸ばすと、国明が覆い被さってきた。藤木は背に手をまわしきゅっとしがみついた。国明が藤木を抱き込んで耳や頬に口づけてくる。くすぐったくて藤木は笑いながら身をよじった。


「国明、誰か来るよ」

「案ずるな。人払いはしてある」

「うっわ、君って変なとこで要領いい」


くっくっ、と国明は藤木の首筋に顔を埋めながら肩を震わせて笑った。その手が藤木の体の上で不埒な動きをはじめる。


「こらっ」


藤木は国明の頬を両手ではさんで顔を持ち上げる。国明は楽しそうに笑っていた。


「真っ昼間から何考えてるのさ」

「藤といるとこうしたくなる」

「こらこらこらぁっ」


藤木は、袴の帯を解こうとする手をペシリと叩いた。


「だめったらだめ。まだ僕、体痛いんだよ。あっちもこっちも痛いんだから」

「では、今夜ならばよいか?」

「ムリムリムリ、ってか、体痛いっていったじゃないっ。」

「藤…」


国明が情けない声を出した。一瞬、その頼りない顔に絆されかけた藤木は慌てて首を振った。ここで流されたが最後、明日は動けなくなること必至だ。それは嫌だ。


「絶対ダメ」


きっぱり宣言すると、国明があからさまにがっくり気落ちする。思わず笑いが漏れた。


「何だ」

「ううん、なんだか、君ってたまにすごく可愛いと思って」


藤木がそう言うと、国明がムスっとする。それがまたおかしくて、藤木は声を立てて笑った。


「ゆっくり慣らしてよ、国明」


藤木はちゅっと音をたてて国明の唇に軽くキスした。


「時間はたっぷりあるでしょう?」


藤木が微笑むと、国明はとろけるような笑みを浮かべた。


「そうだな…」


額をこつり、と合わせる。それから少しためらい、照れくさそうに付け加えた。


「口吸いはしてもよいか…?」


さっきからしてるじゃないか、と内心突っ込みつつ、藤木は国明の首に手をまわす。


「キスだけならいいよ」

「きす?」

「口吸いのこと…」


うっとりと吐息が重なった。しばらく互いの唇の感触に酔う。国明が吐息の合間に囁いた。


「甘いな…」

「…え…?」


藤木の下唇を自分の唇ではむようにして言う。


「藤の口は甘い…」


ぺろ、と口元を舐められた。その時、ふと閃くものがある。


「あ、待って、国明」


腕で押しやられ、国明が不満げに鼻を鳴らした。この男、ホントに可愛い。藤木はゆるむ口元を隠すようにして国明の下から這い出した。


「君にあげたいものがあるんだ」

「おれに?」

「うん、秀次とか忠興とか、大殿さんにはもうあげたんだけどね」


いててて、と呻きながら立ち上がる。皆にはもうあげた、という言葉に国明がまた拗ねた顔をする。苦笑が漏れた。


「だって、ケンカしてたじゃない、僕達」

「お…おれは別に…」


肩越しにまだ拗ねている国明を見やりながら、藤木は黒塗りの文箱をあけた。ノートほどの大きさのそれには、藤木の大事なものを入れている。国明のくれた土鈴や青い陶片の間から、藤木はミルクキャンディを取り出した。国明の横に戻るとすとん、と座ってキャンディを差し出す。


「僕の時代のお菓子だよ。」


僕の時代、という言葉に国明が少し強ばった。だが、素直に受け取る。きらきらした包み紙を珍しげに指で撫でた。じっとデフォルメされた牛の絵を見つめている。


「神獣の絵か?」

「ただの牛だよ」

「……妙な牛だ」


確かに、国明にとって、白と黒のブチなんて牛ではないだろう。ホルスタインはまだいない。藤木は笑いをこらえながらキャンディの包み紙を開いてやった。白く固いキャンディが国明の手の上にころりと転がる。


「食べてみて」


国明は恐る恐る、といった感じでキャンディを口にいれた。藤木はわくわくした。


さぁ驚け、鎌倉人。


国明が目を瞠った。


「これは…」


口を押さえる。歯にあたったキャンディが硬質な音をたてた。半分意識を飛ばした状態でキャンディを舐めている国明の前に藤木はにじり寄った。


「ね…国明…」


口の中のものに集中していた国明の意識が藤木に戻った。藤木は上目遣いに国明をのぞき込む。


「僕の口とどっちが甘い?」


ふっと国明が口元をあげた。ぐいっと藤木の体を引き寄せると唇をあわせてきた。口の中に国明の舌が潜り込んでくる。ミルクキャンディが押し込まれ、口中に甘みがひろがった。藤木はキャンディを舌で転がすとまた国明の口に移す。ごくりと喉がなった。深く重なった唇は離れることがなく、キャンディが二人の口の中を行き来する。


「ん…」


鼻から抜けるような息を藤木は漏らした。次第に小さくなるキャンディをはさんで二人の舌が絡まり合う。やがて、キャンディは溶けてなくなった。ぴちゃり、と音をたてて唇が離れる。互いに息があがっていた。微かに頬を紅潮させ、藤木が囁く。


「…どっち…?」


ふっと国明が息を漏らした。黒い瞳がひたと藤木をとらえる。


「決まっておろう…」


唇が触れるか触れないかのところで国明は吐息とともに言った。


「菓子だ」


悪戯っぽい顔で笑う。藤木は黙って頭突きを食らわせた。先程までの甘い空気はすっかり霧散していた。




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