第20話 軟禁
薄暗い部屋の中で藤木はぼんやりと思いに沈んでいた。部屋のほとんどに板戸がたてられている。部屋から出るなと言い捨てた国明は、すぐに郎党に命じて藤木の部屋を閉め切らせた。駆けつけた秀次と忠興のとりなしで、なんとか数箇所、戸が開けられたが、薄暗いことに変わりはない。
人払いをされ、藤木は一人きりだった。円座に座り、戸の開けられた場所から空を眺めている。よく晴れわたった青い空だ。板戸に切り取られた眺めは、くっきりと鮮やかだった。時折吹き込んできて頬をなでる海風は暖かい。
ここへ来た時は、まだ風、冷たかったっけ。
藤木はふと、さっきの騒ぎを思い返した。いきなり藤木を閉じ込めようとする国明に、忠興と秀次が激しく抗議したのだ。
「御渡り様がおかわいそうじゃ。馬の稽古を庭でするくらいよいではないか」
「戸を閉め切るなど、それがしには承服いたしかねまする」
必死で二人は国明をいさめようとした。だが、国明は何も言わない。業を煮やした忠興が声を荒げた。
「帰られてからの殿はおかしいぞ。雅兼殿の文はただの戯れであろうに、それとも他に考えあっての所業でござるか」
「口出し無用」
ビシリ、と国明の怒気が空気を震わせた。
「叔父貴といえど、これ以上は許さぬ。それぞれの本分を尽くされよ」
当主の一喝に二人とも引き下がらざるをえなかった。人払いを告げる国明に、忠興と秀次は渋々「承知」と答え、去り際、戸口からひょいと顔を覗かせた。藤木を気遣い、強面がおろおろと不安な色を浮かべている。忠興の後ろから顔を出した秀次も、心配そうに眉を寄せていた。その顔を思い出し、藤木は微かに笑った。
ホント、僕の心配ばっかりするんだ…
忠興も秀次も、情が深くてお人よしで、いつも藤木を気遣ってくれる。
ここへきてまだほんの半月あまりだというのに、彼らは藤木にとってかけがえのないものになっていた。藤木はこの館の人々のことを思い浮かべる。忠興、秀次、国忠、そしていつも自分を見ると嬉しそうに笑ってくれる人々。だが、所詮ここは藤木の世界ではない。この世界でずっと生きていくなど考えられない。
佐見…
あの時、確かに佐見の体温を感じた。帰る度に感覚が鮮明になっていくということは、もうすぐ完全に帰れるということなのだろうか。病室で眠る佐見を思い出す。点滴の針を刺し、静かに眠っていた佐見。
「佐見…」
藤木は想い人の名を呟いた。
帰りたい、佐見のいる世界へ。帰ってまたテニスをするのだ。秀峰の仲間たちや健太、そして佐見と。ふっと佐見の顔に国明の顔が重なった。ずきん、と胸が痛んだ。
「なっなんだよ、あんな奴っ」
藤木は国明の顔を払うように頭を振る。
「あんな、いきなり…」
唇がチリッとした。指で触ると、口の端が切れている。
「あ…」
国明にキスされたのだ。
キス…
かーっ、と藤木の頭に血が上った。心臓が破れそうに脈打ちはじめる。
キス、よりによってキス、まだ誰ともしたことがないのに、佐見とだってしたことないのにっ。
僕のファーストキスがーーっ。
胃の中から怒りがせりあがってくる。
だいたい、あの男はいつも突然なのだ。あの満月の夜にしたって、今朝のキスにしたって、唐突で激しくてわけがわからない。
だいたい、乱暴なんだよ、国明は。
藤木は傷を指で押さえた。乱暴で、怒りの渦にのみこまれそうなキスだった。ふいに国明の声が浮かぶ。
『佐見がいいのか』
あたりまえじゃない。僕は佐見が好きなんだ。
『そんなに佐見がいいのか』
そうだよ、佐見がいいよ。いくら同じ顔をしていたって、君は佐見じゃない。
ジリッと焼けるような痛みが胸に走った。
『佐見には渡さぬ』
黒い瞳が燃えるようだった。焼き尽くされそうな国明の炎、藤木は唇を噛み締める。傷がひらいて血が滲んだ。
なんだよ、いったい…
胸が苦しい。
僕は帰るんだ、帰りたいんだ。
国明の眼差しが頭から離れない。
「君は佐見じゃないっ」
なのに心が乱れる。自分に言い聞かすように藤木は繰り返した。
「佐見じゃない…」
鉄錆の味が口の中に広がる。混乱した心のやり場はなく、答えも見えない。途方に暮れて藤木はただ、薄暗い部屋の中で座り込んでいた。
切り取られた空はますます青く鮮やかだった。
絶句。
藤木はマジマジと目の前の男を見つめた。
板戸をたてて薄暗くなっている藤木の部屋の中、というより戸口にどっかり座っているのは、この館の当主、榎本国明だ。はじめは何か用でもあるのかと身構えたが、国明は腕組みをして瞑目している。
なんだよ、いったい。
藤木は居心地悪げに畳の上でもぞもぞした。国明はただ黙って座っている。そのとき、とんとんと廊下を踏む音が聞こえた。板戸の影から顔を覗かせたのは秀次だった。
「殿」
国明が目を開ける。秀次は数通の書簡や書付を杉板の四方盆に載せて差し出した。国明は一つ一つ目を通し、同じ盆の上に載せられた筆と墨壷を使い、さらさらと何かを書いていく。それから秀次に様々の指示を出した。
「承知」
秀次は慇懃に答えると、ちら、と藤木に目礼してさがった。国明は再び腕組みをして瞑目する。立ち上がってどこかに行く気配はいっこうにない。しばらくすると、再び秀次がやってきた。今度も数通の書付を盆にのせている。
「殿」
国明は目を開け、書付に目を通し、指示を出す。
「…承知」
秀次はしばらく逡巡したが、そのまま退出した。藤木はぽかんとその様子を眺める。
何?もしかしてこれ…
もしかしなくても、国明は藤木の部屋で当主の執務をとっているのだ。
なっなななっ
何故ここで仕事するかなっ、そう問い詰めたかったが、秀次が退出すると国明はまた瞑目してしまう。全身で拒絶を表しているようで、藤木は声をかけられない。そのくせ、藤木の動き一つ逃さないとでもいうような圧力をかけてくる。
何だよ、いったい…
藤木は国明から無理やり視線をはずした。だがやることもない。藤木はごろりと寝転んだ。まだ昼前だというのに、ひどく疲れている。目を閉じると、様々な色彩がぐるぐる回るような感じだ。
次はいつ帰れるんだろう…
藤木は佐見に触れた時の感触を思い出していた。何かに遮られてはいたが、たしかに熱を感じた。三度目でこれなら、次は完全に帰れるのだろうか。そしてそれはいつなのか。
明日かもしれない。
藤木の胸がどくん、と鳴る。もしかしたら、その日は明日かもしれないのだ。時空をこえる現象が毎日やってきている。ならば、明日も自分は元の世界に帰るだろう。突然やってくる白い光に包まれて、そのまま現代に帰れるかもしれない。藤木の居るべき世界、家族や友人、佐見のいる世界に、鎌倉時代に別れを告げて。
さよなら、言えないじゃないか…
それは前触れもなしにやってくるのだ。そのまま帰ってしまったら、秀次や忠興にさよならを言う余裕はない。情の深い人たちだ。突然自分が消えたらきっと悲しむ。病床の国忠も、それから国明…
ずきっと痛みが走った。
国明…
ちら、と目を開け、国明を見た。相変わらず腕組みをしたまま端座している。目を閉じて、藤木の方を見ようともししない。その姿になんだかムカムカしてきた。
ふんっ。
藤木はごろん、と反対側を向く。ムカつきはおさまる気配なく、やることもない。う~っ、と唸ってみても反応があるわけもない。藤木は苛立ちながら、畳の上でごろごろするしかなかった。
藤木が転がっている間、国明は様々な問題を処理していた。田畑の畦がどうの、どこそこの街道の揉め事がどうの、武器庫の弓矢がどうの、と、よくもまぁ、ここまで雑多なことがあるものだ、というくらい、諸般にわたっていた。直接出向かなければならない案件には、忠興や古参の郎党を差し向け、自分は藤木の部屋から動くつもりはないようだ。取次ぎは秀次一人に限定されていた。
藤木が昼食をとっているときも、国明は和田から来た書簡を読んで、返事を書いていた。夕食は戸口に座ったまま、簡単なものを口にした。そっぽを向いてとりつくしまもない。湯浴みの時も戸口にどっかり腰を据え、着替えの時だけ手伝いにきた。だが、藤木を着替えさせながら口をきくでもなく、終わるとさっさと元の場所に座ってしまう。厠へたつときだけ、藤木は一人になるが、すぐに戻ってくる。
んで、ここで寝る気かっ。
夜具にもぐりこみながら、藤木は戸口の男を睨んだ。きっちり閉められた板戸の前で、国明は夜具もかぶらずごろりと横になっている。もちろん、直垂を着たままだ。相変わらず藤木に背中を向けている。
こんのぉ~~っ。
意地でも声をかけるもんか、と藤木は夜具にくるまった。
そっちがその気なら僕だってっ。
何をするのか、と聞かれたら困るが、とにかく藤木から折れる気はない。国明とは反対の方向に寝返りをうった。眠れそうにもなかった。
「いい加減にしてよねーーーっ」
ぶん、と円座が宙を飛ぶ。それを国明はなんなく受けた。
「毎日毎日、うっとーしーったらっ」
軟禁状態になって四日目の朝だ。
「黙-ったまま一日中張り付いてさ、なんだよ、監視するならもっと賢くやればっ?」
「監視とは心外だ」
国明は表情一つ変えず、受け止めた円座を脇に置く。
「当主みずからが御渡り様をお守り申し上げているだけだ」
「なっ…」
しゃあしゃあと嘯く国明に、藤木はいよいよ激昂した。
「根暗っ、変態っ」
脇息が飛んだ。国明は片手で払う。板戸にぶつかった脇息はがたん、と派手な音を立てた。
「出てけっバカっ」
国明はじっと藤木を見たまま平然としている。
「君の顔なんか見たくもないよっ、出てけっ」
国明は動かない。藤木は爆発した。
「嫌いなヤツと一緒の部屋にいたくないんだよっ、出てい…」
最後まで言えずに藤木は息を飲んだ。すさまじい殺気が国明から迸ったのだ。眼光で金縛りにされたように藤木は動けない。
「藤は…」
国明の声が低く響いた。怒りを押し殺した声だ。
「藤はおれが嫌いか」
藤木は声が出なかった。全身が竦む。
「佐見ならば藤は…」
ぐっと国明の拳が握られた。
「藤は…」
「…あ…」
ふいっと殺気が霧散した。国明が藤木から目をそらす。そして踵を返すと戸口から出て行った。藤木は国明の消えた戸口を眺め突っ立ったままだ。部屋の中がシン、となる。張り詰めた糸が切れたように、藤木はへなへなと座り込んだ。体から力が抜けていく。
「国明…」
怒っていた。国明がキスしてきた時も炎のような怒りを感じたが、今日感じたのは冷たい怒りだ。まるで冷水を浴びせられたような気がした。
嫌いだ、なんて言ったから…?
国明が自分を求めているのは知っている。それを承知でひどいことを言った。
「でも、国明が悪いんじゃないか…」
ぽつっと藤木は、誰に言うともなく呟く。
国明が悪いんだ。こんなところに閉じ込めて、一日中張り付いて監視して、だからこの二日、一度も元の世界に帰れなかったんだ。
そのことを考えると、藤木の胸は不安で押しつぶされそうになる。国明に閉じ込められることになった朝以来、翌日も翌々日も藤木に変化は訪れなかった。今日変化がなかったら、三日連続帰れないことになる。直衣を着せられたからダメなのかと思って、昨日からジャージを着たままだが、何かがおこる兆しはまったくない。第一、はじめて元の世界に帰ったときは、藤木は黄色地の直垂を着ていた。服は関係ないとわかってはいるのだ。
このまま鎌倉時代に取り残される?
ぶるっと藤木は体を震わせた。
大丈夫、まだ大丈夫…
藤木はポケットのスマホを握り締める。スマホの日付は藤木が鎌倉時代にやってきた、三月二十九日、午前九時二十三分から動いていない。バッテリーもフルのままだ。
きっと帰れる。
スマホが元の世界と繋がっているかぎり、自分は必ず帰れるのだ、藤木は不安を払うようにスマホを胸にあてた。
帰るんだ…
くらり、と床が歪んだ。独特の浮遊感。白い閃光。
藤木はほっと安堵しながら目を閉じる。
ああ、今度こそ…
足の下に冷たい床を感じる。藤木はゆっくりと目を開けた。殺風景な部屋の中だ。灰色の長机とパイプ椅子の並んだ部屋、カーテンのないアルミサッシの窓から白い光が射しこんでいる。
この部屋…たしか前…
見覚えがあった。最初に帰ったときに来たのだったか、警察署の一室だと思った部屋だ。
「涼介…」
名前をよばれて、藤木は飛び上がった。啜り泣くようにまた名前を呼ばれる。声の方へ振り向いた。
「涼介…」
「…かあさん…」
パイプ椅子に腰掛け、姉の裕子と母親が泣いていた。弟の健太が沈痛な面持ちで立っている。
「涼介…涼介涼介…」
身を裂かれるような悲しい声だ。
「りょうすけ…」
身も世もなく母親はむせび泣く。裕子は声を押し殺し、それでも肩の震えを止められない。
「アニキ…バカアニキ…どこ行っちまったんだよ…」
健太が呻いた。いつもは明るくて笑ってばかりいる母と姉が、憎まれ口しか叩かない弟が、悲嘆にくれている。藤木は思わずかけよった。
「かあさん、ねえさん、僕はここだよっ」
薄い膜に隔てられ、触ることが出来ない。
「健太っ、こっちを見て健太っ」
それでも必死で手を伸ばす。温かい。母や姉や、弟の体温を確かに感じることが出来る。それなのに、皆、藤木に気づかないのだ。ひどい、そんなのはひどい。
「母さん母さん、姉さん、僕の声、聞こえないのっ」
僕には聞こえるのに、姿だって見えるし、ぬくもりだって感じられるのに、どうしてここに自分がいるとわからない。
「母さん母さんっ、こっち向いてよ母さんっ」
ぽろぽろ涙が溢れる。母親の肩を掴んで揺すっているつもりなのに、どうして何も起こらないのだろう。
「母さんっ」
ふっと泣いていた母親が顔を上げた。
「…りょうすけ…?」
辺りを見回す。
「涼介?」
母親の様子に気づいた二人も回りを見回した。母親が椅子から立ち上がる。
「涼介?涼介の声が…」
藤木は驚きに目を見開いた。何かを探すように母親が自分に手を差し出してくる。
「涼介?どこ、涼介?」
「母さんっ」
藤木は悲鳴のように声をあげた。母親に向かって藤木も手を伸ばす。だが、その手が触れ合うことはない。
「かあさんっ」
ぐらっと部屋が歪む。浮遊感、白い光。
「母さん母さん母さんっ」
母親の声が遠くなる。
りょうすけ…
「いやだっ、かあさーんっ」
また薄暗い部屋の中だ。板戸を立てた、榎本の館の中だ。
「あぁ…母さんっ」
藤木は顔を覆って慟哭した。
「母さんっ」
「藤っ」
突っ伏しそうになった体を誰かが抱きとめる。
「あぁぁっ」
「藤…」
泣きくずれる藤木を抱きしめる腕。
「かあ…さん…」
藤木は自分を包む腕に縋った。
「かあさん…かあさん…」
きつく抱きしめられた。頬の涙を優しく吸われる。
「藤…藤…」
何度も何度も、低く柔らかく藤木の名前を呼ぶ声、その声に包まれていると身を裂かれるような痛みが和らいでくる。藤木はしゃくりあげながら、温かい胸にしがみついていた。
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