吸血の神殿に

@yuoiwa

吸血の神殿に

 徐々に気温が上がってくる。白い砂浜に照り返す太陽の光で熱せられた大気が、まるで何かに押さえつけられでもしたかのように地表にとどまり、もはやその息苦しさは耐えられないまでになる。時折吹きつける風は暖かく、その中に含まれている海の成分が焼けた肌にひりひりとした痛みをすりこむ。これを異常気象だとか、地球が壊れかけている証拠だなんていう人もいるが、本当のところははっきり言ってわからない。そして、この不快な灼熱から私がいつ抜け出せるのか、それ以前に本当にこの状況から抜け出せるのかどうかも、はっきり言ってよくわからないのだ。

 秋が来ればこの汗にまみれるだけの毎日も変わるのかもしれないが、まだ6月で夏になったばかりのこの時期にそんなことを考えても、余計に苦しくなるだけだ。それは今私の傍らで海を見ているこの男も同じのようだった。口をだらしなく半開きにし、すっかり白く乾いてしまった舌を突き出して暑さにうめいているこの男も私と同様、少しばかり頭がいかれかかっている。その濁った眼は大気中にいる私ではない誰かに向かって、なあ助けてくれ、もう俺には耐えられないんだ、このどうしようもない状況から抜け出して新しい人生を手に入れられるのだったら俺は何でもやる、だからお願いだ、とにかく助けてくれ、ともはや望みのない救難信号を発しているかのようだ。それが暑さのためだけかはわからなかったが、そんな彼の顔中に浮き出た透明な汗の粒が目や口の端に入り込み、時々苦しそうに顔をしかめるのを見るのは私にとっても苦痛だった。彼がいつもつれていた大型の黄色い雑種犬は、苦悶に満ちた彼の様子を尻目に、だらしなくリードを砂まみれにして引きずりながらのんきに水遊びを楽しんでいた。彼は毎日、こうやって海辺に来ては犬に水浴びをさせ、自分は冷たい海水に足もつけずにただ物思いにふけっているのだ。

 この男はもう頭をやられてしまっている、と私は彼を横目で見ながら思う。その柔らかく優しそうな眼の奥には、普通に見ているだけでは気づかない微かな狂気が、静かにその燐光を放っている。医者に危ない薬を注射されたわけでも、食品添加物や化学製品の悪影響でこうなってしまったのでもない、彼は完全にこの雄大で美しい自然の力によって、精神を侵されてしまったのだ。日々の耐えがたい責め苦によって、彼自身の人生を生きるということをすっかり放棄してしまい、その代わりに意味のわからないうわごとや錯乱の渦の中にその身を浸してしまった。本人は、自分は頭がおかしくなってなんかいない、自分は正常だ、と愚にもつかない返事を繰り返すが、私にはもう何もかもわかっている。頭がおかしくなると、自分の頭がおかしくなっているということに気が付かないまま、いつの間にか後戻りのできない狂気の中にその身を引きずり込まれてしまう。本人にとってはもしかすると幸福なのかもしれないし、一方ではその何十倍も不幸なことなのかもしれない。そこまでは私にはわからないが、ただこれだけは言える。この男のような自覚のない狂人はこの世にわんさかといる。そしてもしかしたら自分もそうかもしれないという予防線を張っておくことが何よりも重要なのだということも。

 「大切な用事があるので、私はこれで。」と言って、相変わらず海を見て黙っている男を尻目にその場から立ち去った。正直なところ、その私の言葉に対する反応がなかったのはありがたかった。なぜなら、私には大切な用事なんてものは初めからなかったからだ。この蒸し暑さ、そしてこの男の発するとても言葉にできないような空気から何としてでも逃れたかったのだ。それにしても私はなぜ、「大切な用事があるので」なんて言ってしまったのだろうか。その言葉がなければ自分には彼から離れる権利が与えられない、とでも考えていたのだろうか。

 私はそのまま海岸沿いの低いなだらかな砂山を上り、その頂を越えて海とは反対側の側面に降り立った。そのまま山を下りると、今までは背後に見えていたあの男の姿が斜面に隠れて見えなくなり、私はやっと安心することができた。やはり一人でいるのが一番良かった。これは紛れもない真実だろう、なぜなら自分を慰めてくれるのは自分しかいないし、自分を癒してくれるのも、自分をやさしく抱きしめてくれるのも自分だけしかいないのだから。私は他人のいる場所から離れて一人になって初めて、この顔につけた厚い仮面を取り去ることができる。鼻歌を歌っても、そのためにいやらしい目でにやにやしながら私を見つめてくる気持ちの悪い連中はいないのだ。すれ違いざまに相手が鼻歌を歌っているのを耳にする、そして相手をからかうためににやにや笑いながらわざわざ追いかけてきて、今にも吹き出しそうな顔で相手の顔をじっとのぞき込む。いやあ、あんたが鼻歌を歌ってたところはばっちり確認させてもらいやしたぜ、恥ずかしいなあ、恥ずかしいなあ、よくそんなことして恥ずかしがらずに外を歩けるなあ、まったく考えられないよ、いやあ恥ずかしいなあ、なんか言ったらどうなんだい、にやにや、ほらなにか歌ってみなよ、さっきみたいに楽しくさ、ほらほら、なに恥ずかしがってんだよ、むっつりしちゃってさ、あああんなふうに歌っちゃって恥ずかしいなあ、恥ずかしいなあ、にやにや、なに怒ってんだよ、困ったもんだよ、すかしちゃってさ、なに歌ってたんだよ、言えよほら、怒るなよ、なに怒ってんだよ、なんだその言いぐさは、年上に向かってどんな口きいてんだ!

 とても耐えられないので、そんな奴らを避けるために私は歩く。人っ子一人いない、真に安心できるような場所にたどり着くまで私は歩く。歩いて歩いて歩き続け、私はついにこの海辺に求めていた安息の場所を探し出すことができた。白い砂浜の中にその荘厳な姿を浮き立たせているその石造りの神殿が、もう何日も前から私の憩いの城となっていた。出会いは偶然だった。太陽の激しい熱気にさらされながらもうろうとした意識を引きずって砂浜を歩いていた私の目の前にそれは、まったく何の前触れもなく出現したのだった。それが一つの宿命であったかのように、私の行く手にこの神殿は我が物顔で立ちふさがっていた。少しベージュがかったその清潔な石の表面、太陽の光を反射して輝く崇高な柱とそのバランス、内部に設けられた半地下のひんやりと冷たい空間、外界からのあらゆる視線を遮る高く厚い壁、というあらゆる要素が私の目を楽しませ、心を休めてくれたのだ。しかしそれ以上に私の心をつかんで離さなかったのは、そこから少し離れた村に住む人々が語ったその神殿にまつわる話だった。その神殿はその村に住む、とうに90は超えているであろうという最古老が幼くしてこの村へ引っ越してきたときにはすでに今と変わらぬ姿でそこに建っていた。彼が言うには、数多くの学者や大学の先生がその砂浜の神殿について膨大な時間をかけて調査をしたが、これがどのような宗教のどのような神を信仰するもので、どのような目的において作られたのかということすらもまったくわからないということだった。「まあ紀元前に建てられたことは確実だっていう話だがね、」と彼は私にそう話してくれた。「キリスト教でもないしイスラム教でもないってのは私が見てもはっきりとわかるね。じゃあ何の宗教なんだって聞かれてもわからないがね。」

 そんな得体のしれない場所を、私は自分の精神の根城にしていたのだ。意識を吹き消すような静寂と澄み切った空気の中に潜む、どこか混沌としたエネルギーに引き付けられた。これまで感じたことのなかったそのぼやけた何かにはっきりと触れるために、私はここで一日のうちの大半を過ごしていたが、次第に自分の中にどうにも形容できないようなひずみが姿を現し始めたということにも気づいた。それが何なのかはわからなかったが、それは私にあることを直接的に語りかけてくれるような気がしていた。そのあることとは



 「おーい! 随分と遅かったな!」

と黒スーツの男は私に向かって叫んだ。私はその声を聞きながら、あてつけでゆっくりと砂の中を神殿まで歩いて行った。彼とその隣に座っている作業服の男は太陽の光に照らされて汗をだらだら流しながら、さっきまでずっと必死になって携帯をいじっていたのだ。

 「食糧は持ってきてくれたかい。さすがのキミでもそれくらいの気は利かせられるんだろうね。」

 そうだ、私はもはや一人ではなかった。その神殿には他に二人の男がいて、もう一週間も前から一緒に暮らしているのだ。事の始まりは昼下がりの海辺の道だった。彼らが乗っていた車はエンジンからもうもうと煙を吐いていた。クルマは使えないな、どうする親友。あいつに頼もう、あの向こうから歩いてくるヤツを踏んづかまえてさ、手近なところに運ばせよう、なんていったてな、昔から都会人とイナカモンは仲が悪いって言うけど、ホントは都会人とイナカモンってのはだいたいがもちつもたれつでやってんだよ、オレたちのために腰を上げてくれる親切で人情深い人たちだよ。

 私は車のボンネットを開いてエンジンの調子を確かめ、もうこれは使い物にならない、今すぐレッカー車を呼ぶべきだ、といった。二人はあからさまに顔を歪ませて、オメエが何と言おうと絶対にオレたちはこのクルマをタダで修理してもらわなくちゃならねえ、レッカーなんて頼んで大金ふんだくられるのは絶対イヤだ、とまくしたてた。申し訳ありませんが、私も自動車修理のやりかたは知らないんです。それはオメエの都合だろ、オメエがものを知らなくたって、こっちはタダで修理してもらう権利があるんだよ、今すぐこのクルマを運べよ。どうにも仕方がなくなったので、私たちはそのぶっ壊れた車を手で押して何とか砂浜の、通行の邪魔にならない場所に移動させた。腕と足に力を込めて進んでいる最中でもあの口の悪い作業服の男は、誰に向かってでもなくただぶつぶつと愚痴をこぼしていた。一体全体なんなんだろうかね、ここからレッカーなんて呼んじゃったらあのでっかい町からわざわざ来るってことになるじゃねえか、もっとイナカの人たちってのは人情を持っていたんじゃないのかね、都会人が忘れちまった、あの大切な、人情ってもんをよお、人情人情、イチバン大切なのはやっぱり人情、こころなのによお・・・。

 「ビールを買ってきたようだね。もう夜だから、飲み始めようぜ親友。」

 黒スーツの男はがさごそとビニール袋の中からビール缶を取り出してプルトップを開けると、ものすごい勢いでそのままぐびぐびとのどを動かし始めた。

 「なんだいキミ、全然冷えてないじゃないかこのビールは。」といやみったらしく私に言う。作業服の男もビール缶を手にして、私のほうをじろりとにらんで不機嫌そうに口元を捻じ曲げた。

 「ビールもロクに買ってこれねえのかオメエは。」

 私は黙っていた。ただ、正座した足の上に乗せた手のひらの表面に意識を集中させていた。黒スーツが早くも一缶目を空にして空き缶を石造りの床に投げ捨てるのが音でわかった。指の先がまだ飲み始めてもいないのに微かに震えたため、ポケットの中にあわてて隠さなければならなかった。作業服の男は最大限にまずそうな表情を作りながら、それでも少しずつビールをすすっていた。

 「今日は腹を割って話し合おうじゃないか。包み隠さずすべてさらけ出すんだ。キズナを深め合うにはこの方法が一番さ。なあ親友。」作業服はじっくりと味わうように深くうなずいた。黒スーツはそのまま自分はテレビ局の高給取りの正社員で、番組のプロデューサーをしていて、朝の情報番組を作って視聴率も金もたんまり稼いだんだ、という話を何度も何度も繰り返し、少し話すたびに何度も何度も作業服に会釈を求めていた。作業服は少しいらいらとしながらも、まんざらでもないように会釈を繰り返した。二人ともすっかり顔を赤くして、服が砂まみれになっても一向に気にしない。次々とビールの缶を開け、ばらばらの方向に次々と放り投げる。

 「オメエら黙って聞けよう、オレはとにかく話すことがいっぱいあんだからよお・・・。」と作業服が回らない舌を必死に使って語り出すと、黒スーツがすかさずあいの手を入れる。「また話が長くなりそうだよこれは。」「そうともよ、オレは修羅場をたくさんくぐってきてるからなあ・・・。」

 ありがたい状況だった。ふたりはもうほとんど意識が飛びそうなほど酔ってしまっている。もうこれで今夜はこのふたりの前ではなくてもよいだろう。いよいよ危なくなってきたら逃げればいい。この夜の闇の中を、どこか遠くへ・・・。

 「そんでもってソイツがなかなかいうこと聞かねえもんだから、みんなの見てる前で思いっきりぶん殴ってやったんだ。」と作業服はにやにや笑いながらまくし立てていた。「オレに楯突くのは仕事覚えてからにしやがれって言ってやった。最近の若い奴らはぶん殴らねえということ聞かねえんだからなあ。」げへへへ、という下品な笑い声が暗い夜の闇の中に消えていく。この男たちの臭い息で汚染された空気が、砂浜の冷たい空気にろ過されてきれいになり、夜空に上っていくのがわかる。

 私は勝手気ままにしゃべっている二人を尻目に、月明かりが煌々と照らす夜の浜辺に足を踏み入れた。昼間はあんなに熱かった砂が、今では氷のようにその冷たさを私の素足に染み入らせていた。波が打ち寄せる弱々しい音が辺り一帯に響き、波紋が海面を揺らすのがひときわ妖しく映った。夜の海が発するその妖しさが、私の中に芽生えた形容しようもないある感情と呼応し合っているのはわかっていた。あの神殿―実際には寂れた、崩れかけの廃墟に過ぎない―に通うようになってから、私の精神にはなにがしかの変化が起こっていたのだ。得体のしれない感情が、この世界の奥深くから湧き上がってきて私を強くとらえて離さなかった。これは危険だ、身の破滅を招く、すぐにここから離れるべきだ、と理性が叫んだが、無意識の世界に巣食う本当の私は、ここに残れ、とただ一言ささやいた。その神殿に潜む何かは確かに危険なものには違いなかったが、その危険性ゆえに、私はそこから離れられなかったのだ。

 そしてその夜、私はある決心をした。冷たい砂の海の中で、それまでとらえどころのなかったその感情が、確固とした言葉でもって私の中に浮かび上がった。

 すべては明日で終わるだろう。




 あの犬を連れた男は昔、この神殿に住んでいたことがあった。私がここにたどり着く何年も前の話だ。

 もともと、彼の住まいは村にあった。まともすぎるほどまともな男だったが、そのまともさが災いして、いつしか村の共同体に居づらくなってしまった。彼は逃げるようにしてそこを立ち去り、どういうわけかこの神殿を新しい住居にし始めた。村の人間は、奴は狂人だった、奴は最初から気が狂っていたんだと言ったが、私の考えではおそらく彼がおかしくなり始めたのはこの神殿に移り住んでからだ。この神殿に潜んでいる何かが、彼の中にあったあるものを外へ引き出したのだ。

 毎日海岸を訪れては海をただ見やっているその男の傍らには、今日もあの巨大な犬が鎮座して同じように顔を海に向けている。吠え声ひとつ立てないこの静かな犬は、異常とも思えるほど鋭い牙と爪を持ち、その圧倒的な体を揺らして無表情で男につきそう。どうやらあの神殿でおかしくなってしまったのはこの男だけではなさそうだ。この犬も、その気になれば恐ろしいことになる。

 私は彼を呼びに出掛けた。あのふたりはまだ神殿の床にだらしなく寝転がって、いびきをたてている。海岸を歩いていくと、彼が犬を連れて海を見つめている姿が目に飛び込んできた。うまくいくだろうか、と一瞬心配になる。いや、大丈夫だろう。すべてはうまくいくだろう。

 私はいつものように、男と一言二言たわいもない言葉を交換する。その後、警戒する彼に神殿まで来ないかと話を持ちかける。もちろん犬もつれて。

 男は乗り気ではないようだ。しかし彼の犬はしきりにリードを引っ張って、積極的にその意思をあらわにする。おおそうか、なんてことだ、こいつはまた昔の住まいに戻りたいようだな、それでは仕方ない、歩いて行ってみるとするか。

 歯をむき出した犬。来たるべき情景に思いをはせながら、よろこびをかみ殺して先導する私。よくわからない顔をして、ぶつぶつと何やら不可解なことを呟く彼。ああそうか、あんたもあそこに住んでいるのか、そんな気がしていたんだ、どうりで、そんなことじゃないかと思ったよ・・・。



 神殿へと向かう道の途中にある小高い丘で、私と彼ははぐれた。彼はそのまま神殿へと向かい、私は丘を横切って神殿の裏へまわって階段から屋根の上にのぼるつもりだった。もう目を覚ましているだろうあのふたりに気づかれないように、見物にちょうど良い位置を占めなくてはならない。犬を連れた彼が何かおかしなことを口走ったり、私がふたりの知らぬ間に屋根にのぼったことが知られたら、私のこの企てそのものが無残に露呈してしまうかもしれない。

 神殿の中からは丘が障壁となって、近づく私の姿は見えなかった。真っ白い石造りの裏へ回り込む間、ずっと建物の内部から人を小ばかにしたような声が聞こえてきた。あいつらはもう酔いからさめて、私をどういたぶってやろうかと舌なめずりをしながら話しているのだ。

 「ヤッパリなあ、死刑にしなくちゃいけねえんだよ。」と自分の意見にこれ以上ないほどに酔った作業服の声。「それが常識だよ、正義だよ。」

 「あの非国民め、あんたが一度ぶん殴って、キツイお灸据えてやらなきゃあわからないんだね。」と黒スーツ。「世の中はキビシイってことを教えてやらなくちゃあ。」と、作業服の男に調子を合わせ、ご機嫌な様子でぺちゃくちゃと喋っている。

 私は神殿の屋根に上り、大きく開いた穴から見下ろしてながら彼らの会話を聞いていた。こいつらは私の存在にまだ気づいていない。石でも投げて強引に気づかせてやろうか。いや、私が行動を起こさなくても、もうすぐ男が一人と犬が一匹あらわれてすべての引き金を引いてくれるだろう。もう少しの辛抱だ。じきに新しい世界がやって来る。

 「おい、なんだよオメエ。」と作業服が言うのが聞こえた。神殿の入り口に呆然と立ち尽くした男の姿が上からもよく見えた。体が細かく震え、驚愕したような顔で出入り口をふさいでいる。

「気色悪い奴だね。あまり近づかないほうがいいよ。」黒スーツがじろじろと男を見ながら吐き捨てるように言った。しかし作業服は、その精神の奥底にある加虐性にいつの間にか火をつけられてしまったらしい。男の背後から向かってくる犬に気づかずに、体を揺らしながら近づいていく。

「おい、オメエのことはしってっぞ。きもちわりいなあ、テメエは。」こう言っている間にも、破局は近づいている。彼らはそれに気が付いていない。作業服は哀れな男を威嚇するかのように顔をこわばらせる。「でてけおら。中国人だろテメエ。」

 作業服が男に近づいていく。こうやって威嚇してやれば、性根のねじまがった中国人は一目散に逃げていくだろう、なんてったって俺には長年の肉体労働で鍛えたこの筋肉もりもりの体があるんだからなあ、少しお仕置きしてやろう、手も足も出まい、生意気な中国人には正義の鉄拳をたたき込んでやらなきゃあ。

 私には作業服の考えていることがわかった。手に取るようにわかったのだ。彼の考えが文章となって私の頭の中に流れ込んできた。この安全な場所から、ものの一部始終を見物するのも面白いだろう。作業服の男は肩をいからせ、握りしめたこぶしを見せびらかすように振り回しながら戸口の男に近づいていく。黒スーツは、まるで何事も起こっていないかのように無表情で昨夜のビールの残りをすすっている。彼らは気付いていない。愚かすぎて、周りに注意が全く向かないのだ。

 男の背後にいる巨大な犬。なぜかこの時私には、この犬がいつもの何倍もの大きさに急に膨れ上がったかのように見えた。わかったぞ、この犬も憎しみに燃えている。そしてこの犬には、その憎しみに対価を払わせるだけの力がある。今こそその力を解き放て。

 クライマックスだ。

 一瞬にして怪物に豹変した犬が、その濡れた体を力の限り持ち上げて男の肩を飛び越えた。作業服の目に動揺の色が浮かんだのもつかの間、犬は作業服の方にその鋭い爪と刃を突き立て、ふたつの巨体が乾いた砂の地面にもんどりうって倒れた。

「なにすんだ!」作業服は叫んだ。その光景を見た黒スーツはアッと一声叫ぶと、ビールの缶を取り落してションベンのような生ぬるい液体を地面にぶちまけた。作業服の方からは驚くほど鮮やかな色の血が流れ(あまりにも鮮やかだったので、服の下にペンキでも仕込んであったんじゃないかと思ったほどだ)、作業服は苦痛にうめいた。固く握りしめたこぶしで犬の頭をめちゃくちゃに殴るが、勇敢な犬はそんなことには全く動じなかった。じゅわっというおぞましい音がして、犬の刃がさらに深く肩に食い込んでいくのがわかった。黒スーツは何もできずにおろおろしている。おろおろしている間に、作業服の腕がめりめりと肩からちぎれ、神経線維がグロテスクな糸を引いた。赤い血が顔中に降りかかった作業服は吐き気を懸命に抑え、犬を自分の体から引きはがそうとする。その無駄な努力は案の定実らず、腕は瞬く間に切断されて生気のないゴム細工になって砂にまみれた。作業服が弱々しい声を漏らす。こぶしにこめた力もすっかり抜け、むなしく犬の体をひっかく。

 早く逃げればよいもののその場でまごまごと踏みとどまっていた黒スーツが、狂犬の次の獲物だった。微かに筋肉をひきつらせているだけの、エネルギーを失い青白くなった作業服の体をその口元から引きはがし、犬は黒スーツを澄んだ瞳で見上げた。

 「た、助けてくれッ!」と甲高い声で一声叫ぶと黒スーツはのろのろと犬に背を向けて逃げようとした。次の瞬間、黒スーツの広い背中に犬が勢いよく飛びかかり、熱い胸板が重苦しい音を立てて地面に叩き付けられた。犬は初めの一撃で黒スーツのあばらを粉砕し、解剖学者が使うメスのように、血まみれになった体を刃で切り開こうとした。次いで「ひ、ひぃ!」という声にならない空気の漏れるような音が聞こえ、胸に傷を与えた犬が黒スーツの首元をかみ破ろうとしているのが見えた。鋭い歯が骨にあたってがりがりと鳴り、まるで皮膚の下にホースを差し込んであるかのように真っ赤な血がぴゅーぴゅーと音を立てて砂の上に飛んだ。犬はその体に想像を絶する殺気をみなぎらせ、その太く頑丈そうな顎を狂ったように動かしていたが、その茶色い目は被害者の体が徐々に分解されるのを冷静に見つめていた。黒いスーツの切れ端が風に吹かれて四方八方へ飛び、顔を血にまみれさせた黒スーツはもはやぜいぜいという声も発しようとはしなかった。声帯を噛みちぎられ、おまけにその傷口から流れ込んだ鮮血で半ば窒息していたのだ。

 この汚らわしい光景を、片手にリードをぶら下げた男が放心状態で見つめていた。彼には今何が起こっているのか、おぼろげながらにしか理解できなかった。私の犬があんなに暴れまわっている、あんなことをする奴じゃないのに、誰かにたぶらかされたんだ、かわいそうに、殺せって言われたんだ、この建物に住みついてる得体のしれない奴に、悪魔かもしれねえがよくわからん、ただ一つ言えるのは、そいつは私がここに住んでいる間、ずっと私に話しかけてちょっかいをかけてきた奴だ、私の犬はそいつにたぶらかされて、妙な使命感を持っちまったに違いない、それで私もそのとばっちりでここにいるが、もしかしたら私にはこいつを止められるかもしれない、一声挙げて、この死にかけの男どもから引きはがすことができるかもしれない、いやそれをしなければならないだろう、しかし私はそんなことはしない、こいつらは本当に嫌な奴らだったからな、こいつらを血を見るまで私は死ねないと思っていたんだ、それに私の犬のおかげで新しい世界がその幕を開けようとしているのに、くだらない正義感なんぞに突き動かされてそれを“むげ”にしてしまうような奴が果たしているかね。

 「あ、あ、あ、あああ、ああ、あ。」と作業服が気がふれたような声を出した。その手は力なく地面をかき、なんとか起き上がって目にもの見せてやろうと無駄な努力を重ねている。「ここで立ち上がらなきゃあ、俺は死んじまう!」と彼の全身の筋肉が叫んでいる。なんとか起き上がれば、足を動かしてこの建物から逃れ出ることもできるだろう。あの犬の飼い主をぼこぼこにして、警察へ駆け込もう。あいつがダチをむさぼり食っている間に、俺はあのくそ忌々しい老いぼれの飼い主をぶちのめして、警察に駆け込んで、犬を保健所のガス室送りに・・・、

 犬が作業服の腹部に食らいつき、皮膚を通してはらわたにその刃を突き立てた。声にならない叫びが作業服の口の中いっぱいに広がって途切れる。腐ったはらわたのじゅくじゅくした紫色の汁が、ただれて血がにじんだ腹部の内皮に硫酸のようにしみた。黒スーツの男をものの数秒で始末した犬が、やり損ったもう一方の男にとどめを刺してやろうと標的を変えたのだった。

 「やめろよこのくそがっ。 やめろよっ・・・。」と作業服が囁くように小さな声で叫んだ。手を耳に当てて聞き返してやりたかったが、あまりふざけたことをすると不謹慎なのでやめておいた。もう体力もほとんどないのだ。もうすぐすべてが終わる。

 犬がその太い右の前足で作業服の首筋をひっかき、ずるりと皮膚がちぎれる。ちぎれた真っ白い皮膚が地面に落ちて砂にまみれて、から揚げ粉をつけた鶏の皮のようになる。人体が鶏の生肉になり、その当の本人はそれでもまだ死ぬことができずに砂にまみれてうめき続けている。

 顎の一撃がついに作業服の首の骨をぶち折った。あんぐりと口を開いた作業服の頭ががくりとのけぞって、屋根の上からすべてを見ていた私を見た。

 作業服はすべてを理解したようだった。驚愕の表情を浮かべながら、彼の最後の言葉をはっきりと大きな声でむなしく放った。

「愛のムチだったんだっ! お前のためを思って!」

 その言葉を聞いて激昂した巨犬が全体重をかけて彼の頭を引きちぎった。顎の間に挟まった頭部は半ばつぶれてしまった片目でなおも私を懇願するように見ていた。そのぐずぐずになってわけのわからなくなった首を地面に無造作に放ると、犬はハアハアと荒い呼吸をしながら飼い主のそばをすり抜け外へと出て行った。

 すべては終わったのではない、始まったのだという確信をかみしめながら、私は屋上から砂浜に降りた。涼しさを求めて水辺へと歩いていく途中で、砂丘の上をあの犬が軽やかな足取りで走っていくのが見えた。犬は村へと向かっている。犬は自分に連れ添った男を精神的な破滅へと導いたあの村に、さらなる復讐を目論んで走って行ったのだ。大勢が死に、多くの血が流れることだろう。

想像を絶するような大殺戮が始まる。

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