事件から三日が過ぎた。

 香織は身も心もぼろぼろになりかけていた。

 警察の事情聴取に二日も付き合わされていたため、香織の仕事は山になっていた。それだけでも精神的なストレスは大きかったが、何よりも、関根の無残な亡骸とあの臭気の元を間近で見てしまったのだ。 

 精神的なストレス――というより、精神的な障害を受けた可能性があった。ありとあらゆるにおいが気になってしまうのだ。自分自身もその対象である。腋臭どころの騒ぎではない。胃の中の未消化物や、その先に送られたどろどろの流動体までにおってくるのだ。

 しかし会社は、一息つく余裕さえ与えてくれなかった。仕事の山を崩そうと作業に打ち込んでいたが、追い討ちをかけるように有野が指示を伝えてきたのだ。

「コーヒーを二人ぶん、第一会議室までな」

 有野が事務所を出ていくと、香織は自分の机を思い切り両手で叩いて立ち上がった。

 ――自販機のコーヒーで我慢しろって!

 辛うじて声は出さずに済んだが、事務所中の視線を浴びていることに気づき、俯いたまま給湯室へと向かう。

「香織ちゃん、大丈夫?」

 給湯室でコーヒーのにおいにむせりながら用意をしていると、弥生が入ってきた。

 泣きつきたい気持ちをこらえる。

「弥生さん……」

「大変だよね。あたしの仕事はなんとか早く片づきそうなんだ。もう少しすれば手伝えるよ。だから、あんまり無理しないで」

「弥生さん、ありがとうございます。なんとか頑張りますよ。それと……さっきは驚かせちゃって、すみませんでした」

 どうにか笑みを作り、肩をすくめて舌を出した。

「ううん。それより、カッコよかったよ。今度はあたしがやってみせるね」

 そんな弥生に、香織は束の間の安らぎを覚えるが、いつまでも雑談を楽しんでいる場合ではない。

 トレーに二人ぶんのコーヒーカップを載せて、この事業所で一番大きい――というより無駄に大きな会議室へと向かった。だが、いくらノックをしても返事がない。場所を間違えたか、と思い、ドアをあけて中に入る。

 会議室に入ると、すぐ目の前にカーテンがあった。その陰から会議室の奥を覗く。

 学校の教室ほどもある巨大な会議室だ。その一番奥――大きなテーブルの隅で、二人の男がはすに向かい合っていた。

 二人とも作業服を着用しているが、現場の作業者のような油汚れはない。

 有野と、工場長の玉木だった。

 玉木は、品のよい利発そうな老人に見える。しかし実際には、一般従業員よりも役には立っていない。香織の目から見ても、ただの飾り物にしかすぎなかった。

「玉木さんよ、本社には、こっちをかばう力なんてあるわけないからね」

 公の場以外で、有野が玉木を工場長と呼ぶことはない。

「それはわかるよ。しかしね、わたしだけの責任を問われてもな……」

 玉木は眼鏡を外して、こめかみを押さえた。

「事業所の代表だからねえ。けどまあ……報道関係のほうはなんとかなりそうだから、本社からのお小言だけで済みそうだよ。よかったじゃない」

 侮蔑するような目で、有野が笑った。

「まさか、君は責任逃れを考えてはいまいね」

 玉木は眼鏡をかけ直し、そわそわとした視線で何もないテーブルの上を見る。

「聞き捨てなりませんなあ。自分の部署だよ。おれが無関係でいられるわけがない」

 有野は顔をしかめた。

「だいたいね、君は締めすぎなんだよ。従業員の身になって考えてみたらどうなんだ」

 苛立たしそうに玉木が言った。

「この期に及んで何を言ってんの。あんた、考えが甘いんだよ。ここは会社なんだ。一企業なんだよ。すべては収益に結びつかなきゃいけない。一切の無駄は必要ないんだよ。社員が一人消えたら、それに劣らない人材を補充すればいいだけの話だ」

 有野は吐き捨てた。

「ただでさえ抑圧されているのに、こんな事件が起きたのでは従業員たちの士気だって下がるじゃないか」

 間違いなく、玉木も有野という存在に抑圧されているのだ。

 一方の有野の横顔には動揺の気配が微塵も感じられない。

「使えない工具は捨てる。人も同じだ。宋襄の仁の報いなど、会社にあってはならないんだ。収益の阻害となるだけなんだよ」

 お決まりの信念が披露された。

 玉木は俯いたまま口を結ぶ。

 そんな玉木を、有野が無言で嘲笑していた。

 実質上の権力の前では工場長も無駄な部品の一つなのだ、と香織は悟る。

「コーヒーが入りました!」

 抑え切れず、カーテンの前に立って声を上げた。

 二人の男は、やっと香織に気づいたらしい。その顔は、どちらも無表情だった。


 昼の休憩時間――。

 香織は昼食も取らず、一人で資材置き場の詰め所に赴き、折り畳み椅子に座った。せっかくの昼休みだが、仲間たちと過ごすことができず、昼休みには誰もいないこの場所を選んだのだ。

 ここ数日間の出来事に、香織の緊張と疲労は頂点に達していた。警察の事情聴取は済んだが、日常業務以外の事後処理にも追われている。

 何より、異常な嗅覚が時間を経るごとにますます強くなっていた。事務所の中でさえ、さまざまなにおいがマスクを通過して飛び込んでくる。当然、現場でマスクをかけていても、まったく効果はない。つまり、どこで休憩しようとにおいは感じるのだ。

 ならば――と、ついに香織は、暑苦しいだけのマスクを外してしまった。

 ――わたし、どうなっちゃうんだろう?

 平静を装うのも、そろそろ限界だった。

 現場の自動販売機で買った缶ジュースを飲んでいると、詰め所に接した通路を山野辺が通り過ぎようとしていた。

「あれ――香織ちゃん、こんなところで何してんの?」

 さすがに、何も仕切りのないところでは隠れることなどできるわけがない。ましてや昼休みに女一人なのだ。否が応でも目立つだろう。

 山野辺は、虚を突かれた色を呈していた。

「士郎くん」

 香織は以前から、山野辺士郎をそう呼んでいた。同期に対して親しみを込めた、というのは口実で、「ヤマノベくん」と呼ぶより発音しやすかっただけだ。

 だが、今ではそれでよかったと思う。

 山野辺は香織と同い年だが中途採用社員である。出身は県北部の神津山市で、最初に配属されたのは彼の地元の神津山工場だった。入社半年で筑西工場に配置転換となったのだ。

 彼は現在、アパートで一人暮らしだ。両親や弟と一つ屋根の下に住む香織にしてみれば、羨望の境遇である。

「しばらくは一人でいたくて……」

 香織は肩を落として床の一点を見つめた。

「あ……ごめん。邪魔しちゃったね」

「待って士郎くん。ちょっと話があるの」

 立ち去ろうとした山野辺を慌てて呼び止める。

「え?」

 山野辺が振り向いた。

「あの――」

 香織は口ごもってしまう。本当は、何を話せばよいのかわからなかった。ただ単に、山野辺と二人きりでいたかっただけなのだ。

 ――何を話そうか?

 胸の高鳴りを抑えようとした香織は、ふと、ある事実に気づいた。この異常な嗅覚にもかかわらず、未だに山野辺の体臭が感じられないのだ。缶ジュースの甘い香りを中心として、さまざまなにおいが香織の嗅覚に付きまとっている。それなのに、この男の体臭だけが感じられない。

「大丈夫かい?」

 山野辺が心配そうに香織を見る。

 香織は頬が熱くなるのを感じた。

「大丈夫。ちょっと疲れちゃって」

 無理に笑顔を作った。においの話題など、持ち出したくはない。

「いろいろあったからね。それに、香織ちゃんは一番大変だったろう」

「……うん」

 小さく頷くと、不覚にも涙がこぼれてしまった。

「香織ちゃん――」

 困ったように、山野辺が声をかけた。

「わたし……こんな会社、辞めたい」

 嗚咽を繰り返しながら、胸襟を開いた。

「わかるよ。ぼくも嫌いだから、こんな会社」

「士郎くんも?」

 ハンカチで涙をぬぐいながら、山野辺を見上げる。

「ぼくだけじゃないさ。みんな、そうだよ」

 壁際に立てかけてあった折り畳み椅子を広げて、山野辺も座った。作業帽を脱ぎ、香織と向かい合う。

「どうして、こんな雰囲気の悪い会社になっちゃったんだろう?」

 涙を止められないまま、山野辺に問いかけた。

「有野部長はね……いずれ工場長に昇格する身なんだろうけど、その前に、自分に都合のよい事業所にしようとしているんだよ」

「都合のよい?」

「自分に従順な人間ばかりで身辺を固めているし、管理システムだって卓上論で効率優先だろう。現場はたまったものじゃない」

 山野辺の言葉は核心を突いている、と思った。現場で働いている人間だから、現場の問題として背負わされているのだろう。

「結果として」山野辺は続けた。「納期に煽られたり、理不尽なルールで縛られたりして、実際には、みんなどこかで手を抜いているのさ。そうでもしないと仕事がこなせないんだ。そうやって作られているから、本当に品質が保たれているかどうかなんて、わかりはしないよ」

 企業や医療現場、工事現場、公共施設、家庭……などあらゆる場所で発生している数多の事故の一端を、香織は感じた。つまり、商品やサービスの欠陥である。それらを提供した企業――というより、担当者が責任を負うケースが多いが、真の因果関係は必ずしも明かされてはいない。利益追求の陰に見え隠れするのは、強行な管理と、その犠牲者であふれ返っている社会、そのものだった。

「わたし、やっとわかった。関根さんは、有野部長に殺されたようなものなのよ。あんな人のために死んじゃうなんて……」

 香織は哀惜した。

 山野辺が静かに頷く。

 そのとき、香織はふと異質なにおいを感じた。生臭いようで青臭いような、なんとも不快な臭気だ。山野辺からではない。はるか遠くから漂ってくるのだ。どこか光の届かない場所で、呻き、のたくるもの……そんな印象が、なぜか湧いてくる。

「香織ちゃん?」

 放心状態だったらしい。

 香織の顔を山野辺が覗き込んでいる。

 答えられず、香織はただ首を横に振るだけだった。


 週末だというのに、仕事を終えて自宅に帰っても、不安は募る一方だった。

 ベッドの端に腰を下ろしたままため息をつく。

 ――嗅覚というレベルの問題じゃないわ。まるで超能力よ。

 二階の自室にいても、表を歩く女性の香水がにおうのだ。気になるあまりに窓から顔を出せば、風下の人間の体臭まで嗅いでしまう。当然、家中のありとあらゆるにおいを感じていた。そのうえ、複数の混合したにおいまで嗅ぎ分けているのだ。

 超常現象など信じてはいないが、強引なこじつけがなければ説明がつかないのだ。嘘か誠か、見たくないのに見えてしまう人がいるという。さしずめ香織の場合は、嗅ぎたくないのに嗅いでしまう、という具合だ。

 関根が自殺したあの日からだった。虚空を睨むあの目が糞尿の悪臭を伴って、香織にそんな能力を植えつけたのだろうか。

 だが、それ以前に徴候は表れていたのかもしれない。トナーのにおいで頭痛を引き起こしたほどだ。

 ――まさか、あの二冊の本が原因? だったら、あの本でどうにかできるかも。

 試す価値はありそうだが、関根の遺品を手にすることなど、できるわけがない。

 この懊悩は家族にさえ打ち明けていなかった。誰かに助けてもらいたいという気持ちはあるが、それを訴えたところで、解決には結びつかないだろう。狂人扱いされるのが関の山だ。ただ一人で煩悶するしかない。

 そればかりか、新たなる問題が浮上していた。今までに嗅いだ経験がない、あのにおいだ。虫などの青臭さに似ているが、その発生源のイメージは、異様極まりないものだった。

 まず、発生源の位置が地下深くだということ。ゆっくりと移動している様子まで感じられる。北から南……こちらへと向かっているようだ。

 それが途方もなく巨大な存在である、という感じも受けていた。その巨大さは、熊や象など、比べものにならないほどだ。

 とはいえ、確信があるわけではない。たかがにおいでそこまでわかってしまうというのも、当の本人からして受け入れがたい「たわごと」である。

 妄想であってほしい、と願った。


「どうした? まだ元気が出ないのか?」

 夕食の席で父親に尋ねられた。だが、関根の自殺現場を発見したその日は、慰めの言葉一つさえかけてくれなかったのだ。香織は「何よ今さら」と言いたくなるのを、ぐっとこらえる。

「失恋の痛手だって。乙女心は傷つきやすいのさ」

 弟はそれなりに取り繕うとしたらしい。

 ――――このばか、半年も前の事件を持ち出した。そんなんだから、大学受験に落ちるのよ。

 不謹慎な弟など相手にせず、香織は食事だけに集中する。

 母親の手作りハンバーグだった。香織の大好物である。デミグラスソースの甘酸っぱい香り以外は無視するように努めた。

 だが、そうしようとすればするほど、合挽肉の獣臭さが際立った。そのほかに、野菜の栽培に使われている化学肥料や有機肥料などのにおいがする。

 そこへ強引に、あのにおいが割り込んできたのだ。

 地中を伝わってくる、あの臭気――。

「うっ!」

 嘔吐をこらえた香織は、とっさに立ち上がってトイレに駆け込んだ。

「香織、大丈夫?」

 母親がダイニングの出入り口で声をかけてきた。

 のんきな弟も、さすがに「妊娠したんだ」とは言い出せなかったようである。

 ――筑波山の麓まで来ている。こっちに近づいてきているんだ。

 便器に向って屈みながら、香織は震えていた。


 憂鬱な週明けだが、香織の業務は平常に戻っていた。

 心に余裕ができたぶん、警戒心は高まっている。

 自分の生活が左右されないよう、香織は精神的な守りに入った。ありえないことは信用しない、という主義に徹するのだ。超能力など存在しなければ、地底を移動する怪物も存在しない。

 だが、相変わらずにおいは感じていた。よい香りも、悪臭も、すぐ近くまで来ているあの臭気も――。

 香織は仕事にいそしんだ。無駄なあがきと知りながら、においを感じないように口で呼吸する。意味のないマスクは、当然かけていない。

 そしていつものように、現場へ向かおうとして席から立ち上がった、そのときだった。

 ――足元に来ている!

 そう、地中を南下してきたものが、この事業所の真下にいるのだ。じっと息を潜めて身構えているのが、強烈なにおいで感じられる……感じられるのだが、なんとしてでも無視しなければならない。

 その存在は何かを伝えようとしていた。においの波で、それがわかるのだ。

 ――心を許したら、きっと、どうにかなってしまう。

 男の体臭に防壁を立てたように、さらに強固で分厚い壁を立ててやるのだ。こちら側とあちら側とを完全に仕切るのである。

 ――とにかく仕事に集中しよう。そして、オフタイムで楽しむんだ。

 香織は先を急ぐ。

 残暑の厳しい野山を、連絡通路の窓に見た。この自然の中では、嗅覚を持たない生物など存在しないだろう。いや、植物ならにおいを感じないかもしれない。

 そんなたわいないことを考えながら研究所に入った瞬間、「どん!」という音とともに、建物全体が一瞬だけ大きく揺れた。

 その場で図面を広げていた三人の研究所所員が、辺りを窺っている。

 香織に至っては、気が滅入るような状況だった。苦労して作った書類を、油で汚れた通路にぶちまけてしまったのだ。

「一階だ!」

 図面を広げていた所員たちが、一斉に階下へと降りていった。

 香織もあとを追う。

 一階現場は騒然となっていた。一台のフォークリフトがエレベーターの扉に激突している。巨大な金属製の扉に、フォークリフトの二本の爪が突き刺さっていた。


 フォークリフトを運転していた作業者は、わけのわからないことを喚き立てながら救急車で病院へと搬送された。怪我をしたのは、激突した拍子にフォークリフトから振り落とされたその男だけである。

 何が男の身に起きたのかは謎だった。ほぼ全開でまっしぐらに、フォークリフトをエレベーターの扉に激突させたらしいのだ。さらに、当事者はひどい興奮状態にあり、事情を訊くのもままならぬらしい。

 エレベーターは二階研究所のための設備であり、主に機材や試験品の搬入出に使われていた。もっともエレベーターはあと一台あるため、業務に支障はなさそうである。

 その一方、事故のおかげで香織は残業となった。すべての書類を自分で作り直さなければならないのだ。バックアップを取っておくべきだった、と悔やんだ。

「香織ちゃん、ごめん……」

 定時終了間際に、弥生が香織の机の脇に立った。

「どうしたんです?」

 香織はパソコンの画面から顔を上げた。

「一緒に残業しよう、って言ったけど、やっぱり帰ることにしたの」

 弥生の顔が苦痛に歪んでいる。

 自分の回転椅子を弥生に向けた香織は、「調子が悪いんですか?」と尋ねた。

「頭痛がひどくて、凄くイライラしちゃうの。特に、あいつの顔を見ていると――」

 パソコンを操作している有野に向かって、弥生が顎をしゃくる。

 大げさなそのしぐさに、香織は慌てふためいた。

「ちょっと弥生さん、大丈夫ですか?」

 香織は弥生の制服の袖を軽く引いた。

「うん。……なんか変だね、あたし」

 そう言って、弥生は自分の席へと戻る。

 確かに弥生の様子はおかしい。怪しげな書物を読んでいたときの関根と同じように、目の焦点が合っていなかった。

 香織は薄ら寒さを覚えた。

 やがて、十分の休憩時間を入れて残業が始まった。事務所内で残っているのは十人ほどである。女性従業員で残っているのは、香織一人だけだ。

 パソコンでの書類作りに専念していると、何やら有野と激しく議論を交わしている男がいた。相手は検査部部長だった。普段は温和な彼だが、珍しく息巻いている。しかし、そんな諍いを気にしているほどの余裕はない。

 向かいの席でパソコンと奮闘していた板橋が、あろうことか有野の悪口をつぶやき始めた。延々と続くそれを無視しながら、香織は作業を進める。

 二時間ほどして、香織は書類を仕上げた。これを現場の各職場に配れば、今日の仕事は終わりだ。

「現場に行ってきます」

 板橋に一声かけたが、直属の上司である彼は、つぶやいたままパソコンを睨んでいる。

 先ほどまで検査部部長と激しく議論を交わしていた有野に至っては、いつの間にか席を外しており、姿が見えない。もっとも、検査部部長は自分の席で平然と書類を眺めている。

 気にせず席を立とうとした香織は、その異変に気づいた。

 例の臭気が地面の下でざわめいているのだ。喚いているようでもあった。

 それに呼応するかのように、事務所内のすべてのにおいが一斉に揺れ動く。

 香織にはそれが目に見えるかのごとく感じ取れた。茶色の口臭、黄色い腋臭、黒いタバコ臭、灰色のエアコン臭……ありとあらゆるにおいが渦を巻いて混じり合う。そして、形容しがたい不浄な色へと、くすんでいくのだ。

 同時に、事務所内の雰囲気も一変した。従業員たちの表情が異常なのだ。関根や弥生と同じ、あのうつろな目である。

 事務所内のあちこちから低い呻きが聞こえた。

「け……はいいえ……えぷ……んぐふ……ふる・ふうる……」

 予行演習でもしておいたかのように、香織以外の全員が、声を合わせて意味不明な言葉をつぶやいている。見つめる虚空はそれぞればらばらだが、声だけは揃っていた。

 嗅覚が異常であるのを除けば、この事務所の中でまともなのは香織だけである。不浄なにおいが渦巻くまっただ中に、たった一人で置かれてしまったのだ。

 彼らを刺激しないように、ゆっくりと事務所の玄関へ向かった。五、六歩移動したところで、書類を机の上に置いたままである、と気づいたが、戻る勇気はない。

 さらに息を潜めてゆっくりと進むが、従業員たちの視線も香織の歩みに合わせて動いていた。事務所内の不浄なにおいに、香織自身の体臭さえ混じろうとしている。

 しかし、その中ほどで、香織の精神力は尽き果てた。

「いやあああ!」

 香織は叫び、走り出した。反応したかのように、事務所内の従業員たちも動き出すが、それより早く、香織は玄関から外へ飛び出した。

 その刹那、地底の青臭い存在が大きく身震いした。においだけではなく、確かに震動も感じたのだ。地鳴りとともに大地がうねり、建物が激しく揺れる。同時に、事務所や工場の中から、無数の雄叫びが放たれた。まるで野獣の咆哮だ。

 涙を流しながら走った。

 ――どうしてみんな変になっちゃったの?

 二冊の異様な書物が香織の脳裏に浮かんだ。そして、関根のうつろな視線が――。

 臭気を払いのけながら、香織は駐車場に向かって走り続けた。

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