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予想最高気温は三十八度である。冷房の効いた事務所から出るには、かなりの勇気を持って挑まねばならなかった。そのうえ香織はマスクをかけているのだ。これだけで、蒸し暑さは厳しさを増す。もっとも、現場の従業員たちは、冷房システムのない環境で汗と油と埃にまみれているのだ。たまに少量の発汗があるくらいで、文句を言ってはいられない。
いつものように、香織は現場を回りながら書類を配っていた。しかし、あと二日足らずで待望の夏季休暇である。そんなモチベーションがあるからこそ、多少なりとも軽い足取りになれるのだ。
浮ついた気持ちが、余計な妄想をかき立てる隙を与えたのかもしれない。溶接課の職場に向かう途中で、ふと、山野辺の顔が脳裏をよぎったのだ。
香織はこれまで、山野辺を異性として意識したことはなかった。確かに初めて会ったときは、整いすぎているその容姿に息を吞んだ。とはいえ、当時は大学生時代から付き合っていた恋人の存在が大きく、山野辺に対して特別な感情は生まれなかった。
それなのに、山野辺に胸をときめかせている自分がここにいる。半年前に恋人と別れた寂しさからか。もしくは、会社に対する不安が、彼にすがりつきたい気持ちにさせるのか。
少なくとも、山野辺からは、においが感じられなかった。男の体臭は無意識のうちに防壁を立たせてしまう。恋人と喧嘩別れをしたのも敏感な嗅覚が原因だった。山野辺を意識するのは、そんな仕切りが生じないせいかもしれない。
山野辺は職場の隅の作業台に取りついていた。溶接前の部品を仮組み立てしている最中だ。時間に追われているのか、香織には気づいていないらしい。
一方、リーダーの青山は、図面を広げてほかの従業員と議論し合っているところだ。
双方とも書類を渡せるタイミングではない、と香織は判断した。山野辺のいる作業台とは反対側にある、この職場で一つしかない机に置いていくことにする。
だが、その席には関根が着いていた。
香織は歩調を緩めた。先ほどまでのふわふわと漂うような気持ちが、一瞬にして吹き飛んでしまう。
彼とどう接しよいのか、わからない。
腹を決めるしかなかった。書類を渡すだけなのだ。
関根は机に覆いかぶさり、何かの書類を読んでいた。香織はおずおずと、そんな関根の傍らに立つ。
その香織を得体の知れない臭気が襲った。関根の体臭ではない。はるかに暗くて、悪意のあるものだ。
発生源は机の上らしい。百科事典のように大きくて分厚い本が広げられている。
関根の背中越しに、香織はそれを見た。
巨大な本に書かれている文字はアルファベットのように見えるが、香織にはどこの国の言語なのかわからなかった。小さな挿絵は幾何学模様を表しているらしい。
この本が仕事に関係しないものだというのは、香織にさえ察しがついた。就業時間にこんな本を堂々と読んでいるなど、正気の沙汰とは思えない。
困惑して立ち尽くしていると、有野が通路を歩いてくる様子が目に入った。
香織の緊張が高まる。有野にこの本を見られたら、絶対にただでは済まされない。香織に取り繕うすべなどなかった。
だが、有野は溶接課の職場に入ることなく、通路を通り過ぎていった。
ほっと胸を撫で下ろす香織の存在に、関根はようやく気づいたらしい。
関根がゆっくりと振り向いた。
「樋口さん、来ていたんだ。気づかなかったよ」
関根は目の焦点が合っていなかった。香織に話しているのに、ずっと遠くを見ているのだ。
「はい、これを……」
ただでさえマスクのせいでくぐもっていた声が、妙に上ずらせてしまった。それでも、震える手で書類を差し出す。この動揺が関根に伝わらないでほしい、と願いながら。
「さて……これはあと回しにしてと」
そうつぶやきながら、関根は書類を受け取った。
「今度の仕事もたくさんあるねぇ。有野の野郎、人使いが荒いなあ」
関根は穏やかな口調で言いながら書類を見る。
――有野の野郎?
香織は訝しんだ。以前の関根なら、そんな暴言を吐いたりしなかった。
関根は緩慢な動きで書類を机の上に置き、広げていた分厚い本をそっと閉じる。
香織は吃驚した。
その本の表紙は紙ではなかった。古の黒い光沢があり、重い手応えが想像できる。装飾されたアルファベットで題名の記されたその本は、鉄のにおいを放っていた。
だが、香織は見てしまったのだ。身震いを誘うこの本の下に、さらなる狂気をかき立てる別のもう一冊があるのを。
その一部しか見えない本の表紙は皮革製だった。しかも、きめ細かい皺と毛穴が、生々しい肌色の表面を覆っている。せめて鉄の表紙のにおいがもう一冊のにおいを消してくれたら、と思った。
鉄のにおいと融合し、闇の世界へ引きずり込もうとする臭気とは、紛れもなく人間の皮のものだった。
香織は思わずあとずさる。
しかし、鉄と人皮という二種類の異臭は香織をとらえて逃がさなかった。絡み合って渦を巻き、鼻から頭の奥まで入り込んでくる。まるで脳の中をまさぐられているかのようだ。
自分の中で何かが目覚め始めている気配を感じ、香織はおぞけを震った。
友人たちと海や山に出かけては、会社のすべてを忘れようとしていた。そんな数日間だった。
しかし、楽しい時間は風のように過ぎ去っていく。
あれほど心待ちにしていた夏季休暇は、すでに過去のものとなっていた。今日からまた、ストレスのたまる日々にさいなまれるのだ。
「樋口くん、ちょっといいか?」
事務所内の狭い通路で、香織は有野に呼び止められた。
「はい」
いつにも増して強く感じるヤニ臭さをこらえながら、有野に向き直る。
「臨時のパート社員の件、採用が決定したんだ。午前中のうちに管理表を用意しておいてくれ」
こんな仕事をいちいち自分に指示させるな、と言わんばかりの口調だ。
「わかりました」
香織が答えると、有野は自分の席へと戻った。
その背中に、持っていたファイルを思い切り投げつけてやりたかった。
臨時のパート社員は、珍しく男性作業者だった。夏季休暇明けと同時に長期休暇に入った関根の代役である。
関根の鬱はかなり深刻になっていた。仕事が手に負えなくなったばかりか、ついに自殺未遂まで引き起こしたのだ。医者から半年の長期休暇を取るように診断書を出されたのでは、さすがに、会社側としても認めざるをえないのだろう。
「香織ちゃん、ちょっと――」
トイレの前を通りかかると、中から弥生が手招きをしていた。まるで洗面所に身を隠すようにしている。密議の誘いだ。
そのただならぬ雰囲気に、香織は周囲を気にしながらトイレの洗面所に入った。アンモニア臭を気にしている場合ではないようだ。
「どうしたんですか?」
洗面台の前に立ち、香織は小声で訊いた。
「関根さんのことよ」
弥生が香織に肩を寄せて声を潜める。
「代理でパートさんの採用が決まりましたよ」
たった今知ったばかりの事実を、当然のごとく伝えた。
「そうじゃなくて――今連絡が入って、関根さん、離婚したんだって」
「ええっ!」
思わず叫ぶ香織に、弥生が「しっ!」と人差し指を立てた。
「――すみません」
恐縮して肩をすぼめた。
その香織に弥生は耳打ちを始める。香水ではごまかし切れない生理臭が伝わってきた。
「浮気していたらしいのよ、関根さん」
「浮気――?」
香織は目を見開いた。そんな話を信じられるわけがない。
「奥さん、出ていっちゃったんだって」
「だけど、関根さんは鬱病だったんですよ」
「鬱病だって、やることは、やっていたんでしょう」
弥生は言い切る。
「そんなわけないでしょう」と返してやりたかった。
関根は焦点の合わない目で、仕事中に周囲も気にせず、異様極まりない装丁がなされた本を読んでいたのだ。そんな状態で不倫などできるものなのか。
しかし、あの二冊が工場内に持ち込まれていたことを、香織は弥生にさえ伝えていなかった。あの本の装丁は尋常ではない。一冊は鉄の表紙で、もう一冊の表紙は人間の皮なのだ。少なくとも、香織の嗅覚にはそのようにとらえられていた。
香織は関根の有野を呪う気持ちがわかるからこそ、暗澹とした空気に震えるしかなかった。
「香織ちゃん、大丈夫?」
弥生が心配そうに香織の顔を覗き込んでいる。
「……大丈夫です」
香織は我に返った。しかし、においのせいで、わずかな吐き気を覚える。
「まあ、浮気は別として……目の前で手首を切られたら、奥さんのほうだって、嫌になっちゃうでしょうに」
呆れ顔の弥生は、関根に対する同情など微塵もないのだろう。
――そこまで言わなくたっていいのに。
香織は懸命に吐き気をこらえていた。
青山が机で報告書を作成しているところへ、香織は書類を運んできた。関根の五年先輩の青山は、飾り気のない性格で声もかけやすい。
「関根さんがいなくて大変ですね」
社交辞令ではないが、ときがときだけに会話の導入には打ってつけの文句だった。関根の離婚に触れなければ問題はない。
「そりゃあそうだよ。溶接機の扱いには一番慣れているんだから。まあ、しょうがねーか。ちゃんと治して復帰してくれたらいいさ。だけど、復帰したとしても、しばらくは忙しい仕事が続きそうだからなあ」
「また出てきても、ぶり返しちゃいますかね?」
息苦しさを覚え、片手でマスクをつまんで顔から浮かせた。ついでにマスクの上から鼻もつまむ。一年ほど前に覚えた技だ。
「かもしれないな。毎日残業だし、週休二日制とはいえ実質上毎週休日出勤だろう。おれだって釣りは好きだけど、あいつはそれを生きがいみたいにしていたからな。オフタイムにストレス発散なんて無理だよ。隣の課の阿川くんだって通院している、っていうじゃないか。こんな状況がいつまでも続いたら、みんな病気になっちゃうよ」
それを聞いた香織まで、やるせなくなった。いつかは自分も同じ病に悩まされるのではないか、という危惧が生じる。実際に今年に入って、二人の女性社員が辞めてしまったのだ。
「もっとも、関根くんは考えすぎなところがあったんだ。頑張っている連中だって多いんだしさ」
青山は受け取った書類に目を通しながら言った。
「そうですよね。会社で働くって、そんなものですよね!」
明るく答える香織は、青山の言葉を享受したかった。ほかの企業に勤めている女友達にしても、毎日の激務に耐えているのだ。
「けどなあ」と青山は書類から目を離し、おもむろに天井を見上げた。「この事業所自体、居心地が悪くなったのは事実だよ。規律は厳しくなる一方だし。ほら、今さら……私物を現場に持ち込むなだとか、トイレは三分以内にしろとかさ」
「ほんと、変な決まりですよねぇ」
香織は苦笑した。
「青山さん、ガスボンベ、交換しておきましたよ」
職場に戻ってきた山野辺が、忙しそうに溶接機のほうへと向かった。
「おう、サンキュー」
そう答える青山に背中を向けた香織は、その場を去ることにした。赤くなっているかもしれない自分の顔を見られたくなかったのだ。
「ありがとうな、樋口さん」
「はい……」
今の自分を悟られまいと、意図的に声を低くする。
こんな雰囲気から逃れようとするあまりの心境の変化、などとは思いたくなかった。不安から守ってほしいがために必要とするなど、素気ないではないか。
かなうならば、違う場所でもう一度出会いたい。
香織は山野辺に恋をしたのだ。
終業十分前の清掃時間――。
香織は事務所内のゴミを集めていた。ただの紙屑ならまだしも、鼻をかんだティッシュの生臭いにおいには、つい顔を背けてしまう。
全体の半分を回ったところで、突然、香織は有野の机に呼び出された。
「配布した書類に不備があった。新しい書類ができているから、差し替えてくれ」
机のトレーに束ねてある分厚い書類の山を指差しながら、有野が言った。
「わたし、何か間違えていましたか?」
「いや、おれの付け加えた注釈が間違っていたんだ。今晩の夜勤には影響ないが、明日の日勤が始まる前に差し替えておかないとな」
雑用ではないのに課長と係長をはしょったのは、自分がミスをした手前なのだろう。だが、それにしては大仰な物言いだった。他人のミスは重箱の隅をつつくように指摘するが、自分の問題となれば何事もなかったかのように収める。よくも今まで無事に生きてこられたものだ、と香織は呆れてしまった。
「今日は定時で帰らなければならない用事があるんです」
確かに、所用で出かけている母親を車で迎えに行かなくてはならなかった。
「どうしてもか?」
有野はくどく追及する。
「はい」
香織はこらえた。
「……仕方ないか。ならば明日の朝は、少し早く出社してほしいな。始業時間までに配布できればいい」
さすがに、その要求までは断れなかった。
「わかりました」
高慢な笑みを浮かべる有野に、香織は背中を向けた。
プリンターのトナーのにおいが鼻を突く。慣れていたはずなのに、頭痛を伴うのは初めてだ。
そんな些細なことまでが、有野のせいに思えてならなかった。
午前六時四十五分――。
こんなに早く出勤するのは初めてだ。朝日がいつにも増して眩しい。
香織は駐車場に一台の車が停まっているのを見て、残業をしている夜勤者がいるのだ、と思った。現場の苦労をひしひしと感じる。
車から降りて歩き出した香織は、目を見張った。その車が関根のものだったのだ。
――だって、長期休暇中でしょう?
よく見ると、関根の車は駐車スペースから無造作にはみ出していた。
疑心を抱きながらもかまっている場合ではなく、事務所へと急いだ。
終日、駐車場から工場に入るためのチェックはない。制服のまま通勤している香織は、ロッカーに寄らずにタイムカードを切ると、あらかじめ預かっていた合鍵で事務所に一番乗りをした。机の上に揃えられた書類の束を持ち、二階の連絡通路から現場へと向かう。
当然、マスクの着用は忘れなかった。
現場はどの職場も夜勤者がすでに帰宅しており、照明は落とされ、非常口誘導灯だけが点灯していた。孤独なステージは、淡い光の混じった薄暗さに包まれている。聞こえるのは無人運転の加工機械が奏でる作動音だ。人の気配は皆無である。
そんな各職場を、無機物のにおいに顔をしかめながら回るのだ。――そのはずだった。
溶接機は自動とはいえ、一カ所にかかる時間が数分程度であり、また品物の載せ替えは人間がしなければならない。だから、溶接機は長時間の無人運転が不可能なのだ。夜勤者がすべて帰宅した時間帯の溶接課の職場は、静寂に包まれていて当然である。
だが、においがあった。溶接ガスのにおいでなければ油のにおいでもない。
溶接機と溶接機との間の暗がりに、レール式天井クレーンに吊るされたままの大きな白い品物があった。品物を吊ったままクレーンを放置するのは、紛れもなく不安全行為である。ましてや大型品の吊りっぱなしとなると、その責任は重大だ。
それによほど慌てて帰ったのだろうか、窓が一カ所だけ開いていた。有野に見つかる前に閉じてあげたほうがよさそうだ。
窓に向かおうとした香織は、あまりにも異様なそのにおいに立ち止まった。
香織が感じていたにおいの発生源は、吊るされたままの品物のようだ。香織の知りうる限り、その臭気は人間の糞尿以外にありえない。
だらりとぶら下げてあるものの正面に立って、白いジャージの上下だ、とようやく認知した。
「せ……せ……せ……」
言葉にならなかった。
香織の目に飛び込んできたのは、半びらきの目で虚空を睨む関根だった。ジャージ姿の彼は、クレーンにかけたロープで首を吊っていた。
そのジャージパンツの裾から滴り落ちるものが、臭気を放っていた。この職場にはおよそ似つかわしくない、純然たる有機物のにおいだ。
結局、香織は関根の名前を呼べなかった。
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