第四節 移り気な月の呪い 前

 食事の後は風呂を借りた。白く輝く石造りの浴槽は、優に大人が四、五人は入れそうな大きさだった。

 ユアンは入浴中も眼帯を外さない。


「風呂に入っていると、急に嫌な考えで頭がいっぱいになることがある」


 そう彼は言う。その瞬間に眼帯を外していたら危険なのだと。

 眼帯にも驚いたが、ユアンの体つきにも驚いた。その儚げな印象からユアンは華奢だと思い込んでいたのだが、彼のすらっとしつつも均整の取れた筋肉は、明らかに鍛えている人間のそれだった。


「俺は父様と似て太りやすいから、トレーニングは欠かさないようにしている。それに、体はすべての資本だ」


 寝不足で体調を崩し試験に落ちたレグルスには耳が痛い。あの時も、もっと体力があれば結果は違ったかもしれないのだ。


「おれもやろうかな。筋トレ」

「筋肉は、努力すればついてくる。裏切らない」

「……うん」


 妙に力強く言うユアンに、頷くことしかできなかった。


        ◇ ◇ ◇


 アークトゥルス邸で過ごす神々の祝日は、充実した時間になった。

 ユアンと共にキャリバンの町を見て回り、ウーゴにアステレヴィジョンの話を聞いた。


「支局に神の眷属がいるということは知っているだろう? 地母神マーテルアスが遣わしたという眷属は、正体を隠し、人に紛れて一緒に働いているんだが、それが誰なのかはわからないんだ。つまり、私の部下の誰かが実は神の眷属で、私たちを見張っているということでな……空恐ろしくなるから、普段はなるべく考えないようにしている」


 眷属の話のほかにも、ストーリアに関わる者は全員アステラに目覚めていなければならず、ヴィジョン支局の局員も例外ではないという話も聞いた。ウーゴも微量ながらフィオーレ・アステラを操れるという。局員にはティターニア学園の卒業生もおり、彼らは特に優秀だそうだ。


 ウーゴから聞けた話は、そのくらいだった。神々の祝日は毎日アステレヴィジョンを放映するため、忙しいウーゴはほとんど家にいなかった。神々の祝日に休まなければならないのは、ストーリアの〝創造者〟だけで〝管理者〟は含まれないのだという。


「残念だけれど、お休みの日にストーリアを見たい人は多いだろうから、仕方ないわ」


 セシリアは、放映中のストーリアを見ながら寂しげに言う。

 その日は、ユアンとセシリアと三人で、ものすごく広いリビングのものすごく大きなモニターで、ウーゴが放映に関わっているストーリアを観ることになった。




「ユアンはストーリアを観るとき、ナイドルのことを意識したことがないって言ってたよな」


 モニターの中で、燃えるような赤髪の美丈夫が、流麗で力強い武踊を披露している。若き日のアルテイルだ。


「小さい頃、ナイドル……プリドルもだが、父様の仕事が忙しいのはこの人たちのせいだと思っていたんだ。だから、ナイドルというより……ストーリアそのものを避けていた」

「なるほどなあ。おれは逆だったよ。おれの母さんは脚本家なんだけど、母さんがみんなを楽しませてるのが誇らしかった。母さんがいつでも家にいるからそう思えたのかも」

「今は、ちゃんと観ようと思える。父様が身を粉にして打ち込む仕事の尊さが、少しはわかったから」


 ユアンは、モニターに映る赤毛のナイドルを見つめた。


「この人が、アルテイル・レゴラメントだということも、今ならわかる。俺の演じたエルトファルが変だと思われた理由も、わかった。この人の演技プランとあまりにもかけ離れていたからだ」

「うん。アルテイルはすごいから、みんなお手本にするんだ」


 放映されているストーリアは〝王子の変身〟。宵闇の王子クロノが、真昼の姫君エステーリャに会いたいあまり陽の民の都にお忍びでやってくるのだが、エステーリャの兄エルトファルに見つかってしまう。クロノは敵対する種族の王子との遭遇に戦慄したが、エルトファルの反応は意外なもので、


『こんな垢抜けない男はエステーリャにふさわしくない!』


 と怒るだけだった。そこで、エルトファルを説得するため、それまで見た目に無頓着だったクロノをエステーリャが着飾ることにする――という話である。


 モニターに映るナイドルやプリドルの年齢からして、おそらく二十年ほど前に上演されたものだろう。〝御三家〟と呼ばれるソールのアルテイル、ルーナのヴィーガ、フィオーレのデネブが同じ舞台に立っている。今はもう五十代が見えてきている御三家も、この頃は若手ナイドル向けの役が堂に入っていた。


『しかし我が妹が選んだ者ならば、光るものを持っているやも知れぬ……』


 エルトファルは、妹を大切にするあまりに空回ってしまい、最終的にはクロノをベタ褒めしてしまう。そんなエルトファルを、アルテイルはおもしろおかしく演じている。


「ものすごく格好良いのに、三枚目に見える。上手い……俺もこの人をちゃんと知っていたら、あんな風には演じなかったと思う」

「素敵よね。好きな人のために変わろうとするクロノ王子」


 ユアンに対して、セシリアは少しずれた反応をした。もじゃもじゃ頭に瓶底黒縁眼鏡のクロノを見つめるセシリアはなにやら複雑な表情をしていて、心ここにあらずといった様子に見える。


「この後、クロノ王子はあの呪いを……」

「〝うつな月の呪い〟ですよね。自分の生命力を相手の心の隙間に流し込んで、無理やり心変わりさせようとするっていう術」


 レグルスの言葉に、セシリアの肩が跳ねた。


「レグルスくん、詳しいのね」

「えっと、ユアンのお母さん、どうかしたんですか……?」


 レグルスは焦った。セシリアは明らかに動揺しているが、自分の発言の何がまずかったのか、まったくわからない。


「なら、話したほうがいいかしら。ちょっと、心配なことがあって」


 はあ、とセシリアは憂鬱なため息をついた。


「実はね、私……昔、クロノ王子と同じ呪いを受けたことがあるの」

「へっ!?」


        ★ ☆ ★


『クロノ様、どうしてもわたくしではいけませんか?』


 エステーリャによって、冴えない青年から絶世の美男子へと変貌を遂げたクロノは、帰国の後、国中の令嬢たちから求婚された。中でも、月の民で最大の勢力を誇る大貴族の娘は熱烈だった。

 夜空の下、麗しき月の民の城の庭園で、クロノは娘に背を向けている。


『私の気持ちは変わらない』


 ヴィーガ演じるクロノが淡々と告げると、娘役のプリドルは唇を噛んで震えた。


『クロノ様の思い人とは、どのような方なのですか。わたくしではくらぶべくもない、星のごとく輝く姫君なのですか』

『いいや。お前とくらべるのなど馬鹿馬鹿しいくらい、こつな女さ』


 クロノはエステーリャを辛らつな言葉で貶してみせるも、それがなおさら娘の怒りを買った。


『ならばクロノ様のお心には、まだわたくしが入る隙間もございますね?』


 娘が、背中からクロノの心臓を指差す。

 月に叢雲がかかり、庭園の花々が風にざわめく。娘は鋭く光るルーナ・アステラを放つと、それを無数の棘に変えてクロノの体に突き刺した。


『なっ、これは……!?』


 クロノは地に膝をつき、振り返って娘を見上げる。


『わたくしを選ぶのです。そうでなければ、わたくしは……』


 モニターに映るクロノ役――ヴィーガが一瞬苦み走った表情を見せて、舞台は暗転した。

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