第七節 心を照らすナイドル

 教室塔一階の廊下はもう、闇で満ちていた。壁により掛かってうずくまっている生徒が、何事かブツブツ呟いている。


「もう……やめたい……才能ない……やめたい……」


 濃緑のネクタイを見るに第三学年――四八期生らしい彼は、寮へ戻るところだったのか、荷物を抱えたまま縮こまっていた。彼の体の周りには、彼自身の白いルーナ・アステラがじんわりとにじみ出している。まるで守るように。

 周囲は似たような状態の生徒であふれかえっていた。この粘つくような闇の中で動き回れるのは、どうやらレグルスだけらしい。

 ユアンが走り去ったと思われる方向には、青白い残り火が揺らめいていた。熱くはない。レグルスは炎を辿って走り、教室塔の外へと出た。

 時刻はまだ真昼のはずなのに、外は真っ暗だった。まるで真夜中だ。

 庭園には小さな青白い炎が散らばっている。どこへ向かうべきなのか迷っているようにも見えた。だが、ほかのものより大きな炎が、寮の方向へ続いていることに気づいた。


「ユアン! そっちにいるのか!?」


 レグルスは全力で走った。

 この闇は、間違いなくユアンのルーナ・アステラだ。この重苦しさは以前にも感じたことがある――前期期末試験、〝地母神の加護〟で、ユアンのアステラ・ブレードが月食のごとく黒く染まったときに。


(あの時は、ユアンに呼びかけて……そうしたら、闇が消えて……)


 炎は寮の裏手の森へ点々と続いている。より、人気のない方へ。

 この青白い炎も、間違いなくユアンのアステラだ。小さいけれど、気高く凛と輝いている――闇の中にしるべを残した彼は、追ってきてほしいのだろうか。


「はあ、はあっ……」


 ひどく息が切れる。足がもつれて転んでしまった。疲れが全身を苛む。


(おれ、疲れてる……のか)


 それでも立ち上がって走った。青白い炎が導く方へ。

 思えば入学以来、まともに休みを取った覚えがない。毎日決められた道を往復し、課題と練習にだけ心血を注いだ。家にいた頃は、母との練習が煮詰まってきたタイミングで父が声をかけてくれて、一緒に庭の手入れをした。あれが、いい気分転換になっていたのだ。


「おれ……疲れてたから、いつも通りやれなかった。だから、できなかった……のか」


 いつも通りやれば、できる――いつも通りやれなければ、できない。

 やっと、わかった。ユアンは、疲れていて実力が出せなかったレグルスを、慰めようとしたのだ。


「ああもう! おれ、器小さすぎ!」


 レグルスは頭をぐしゃぐしゃと掻きながら、森の奥へ、闇の奥へと必死に駆けた。

 木の幹から葉の一枚一枚に至るまで真っ黒に塗りつぶされ、ユアンが残していった青白い炎以外は何も見えない。木に激突したり背の高い草に足を取られたりしながら、ユアンのもとを目指してひたすら進んだ。


「ユアン! どこだ!?」


 体の芯が、ひどく熱い。体の中でなにかがぐらぐらと煮立っている。その熱さのおかげで、まとわりつく闇に耐えられているような気がする。


「ユアン、いるなら返事してくれ!」


 遠くに見える炎が一度大きくなり、直後、フッと消えた。あそこだ、とレグルスはがむしゃらに走った。


「ユアン……!」


 闇の向こうに、ユアンの姿の輪郭が見えた。無我夢中で手を伸ばしてその腕を掴んだ。


「ごめん!」


 背を向けたままのユアンに、レグルスは早口でまくし立てた。


「試験に失敗したのは、おれの自己管理がなってなくて、疲れてたから。だから、いつも通りやれなかった。『いつも通りやれてれば大丈夫だったはずだ』って、そう言おうとしてくれたんだろ? それなのに、おれ、八つ当たりして最悪だ。本当に、ごめん!」


 言いたかったことを言い終えたら、今度はひどい自己嫌悪が襲ってきた。ユアンは思っていることを言葉にするのが苦手だとわかっていたのに。


「……君は、なんともないのか?」

「え?」

「俺の目を見ただろう。左目を……」

「あ、ああ。うん、見た。透明な月って感じの不思議な目」


 ユアンは振り返らないまま、消え入りそうな小声で言う。


「今日の君は……コンディションが、よくなかった。いつも通り、できてなかった。しっかり休んで体力を回復すれば、心配いらない……そう、言いたかった」


 聞き逃してしまいそうなほどに小さな声。それでも、ユアンが必死に言葉を紡いでくれたのはわかった。再試験に向かう自分を励まそうとしてくれたルームメイトに、なんと心ない言葉を浴びせてしまったのかと、ますますレグルスは恥じ入った。


「ごめん……」

「君が謝る必要はない、悪いのは俺だ」

「え? な、なんでそうなるの?」

「……君のこと、学園長に頼まれてたのに、何もしなかった。君が夜遅くまで無理していたのも知っていたのに、止めなかった」


 少しの間、沈黙が降りた。ユアンの背中が、次の言葉を口にするかどうか悩んでいるように見えた。


「……君と、仲良くなりたくなかった」


 声も腕も、ひどく震えている。


「仲良くなった人が離れていくのが、怖いんだ……ずっとひとりでいれば、もう恐れなくてすむと思った。ずっとひとりでいたかった」

「おれはユアンと仲良くなりたいよ!」

「……俺は、追い詰められていた君に、追い打ちをかけたのに?」

「おれを励まそうとしてくれたんだろ?」

「今まで俺の目を見ておかしくなった人はみんな、俺のせいにした」


 ユアンは混乱しているのだろうか。ユアンの発言と、レグルスの八つ当たりと、今の騒動のことがこんがらがっている。


「おれがユアンに八つ当たりしたのは、ユアンの目を見る前だ」

「でも、見ただろう?」

「……ちょっとだけ」

「この目を見ておかしくならなかったのは、君だけだ」


 どうしても話がかみ合わない。どうやらユアンは本当にまったく怒っておらず、左目のことばかり気にしているようだ。


「えっと……ユアンが眼帯で左目を隠してたのは、こういうことを防ぐため?」

「そうだ。でも、起こってしまった。最悪の形で。こんなにひどかったのは、初めてだ」


 闇がまとわりついてくる――青黒い、ユアンのルーナ・アステラが。晴れた夜空のごとく澄んでいた彼のアステラを、ひどい言葉で濁らせた。膿んでいたのは彼自身の事情だとしても、破裂させたのはレグルスだ。


「ユアン、あのさ……」


 彼はずっと背を向けている。レグルスを拒絶している。アステラは――彼の心は、罪の意識で真っ黒になっている。


「おれは大丈夫だから、こっち向いてくれよ。ちゃんと顔を見て謝りたいんだ」


 彼の腕を握る手に、少し力を込めた。


「ごまかさないでよ。おれの言葉がショックだったんだろ。おれも次からは、一拍置いて考えるから」


 ユアンが恐れているのは、左目のせいで人が離れていくこと。そう、はっきり言ってくれていた。


「おれ、ユアンから離れたりしないよ」

「……君は、俺が、怖くないのか? このおかしなアステラが」

「アステラを発現させるのは嘘偽りのない心だって、母さんから何度も教えられた。正直に言えば、闇が広がってみんながうずくまってる状況は怖かった。でも……ユアンのアステラから感じるのは、ユアンの不安や苦しみばっかりだ。おれがなりたいのは、そういうものを晴らすナイドルだ。ユアンみたいに悩んでいる人の心も明るく照らせるようなナイドルになること……それがおれの夢。怖がってちゃ話にならない」

「俺の心を、照らす……」


 ユアンが、振り向いた。


「ナイドル……」


 ユアンの目は、真っ赤に腫れていた。


「君は……」


 そよそよと風が吹き、葉擦れの音がした。空気が潤んでいる。


「……眩しい」


 柔らかな雨が降り始め、闇が少しずつ洗い流されていく。淡く穏やかな太陽が、灰色の空にぼやけている。


「落ち着いたみたいですね」


 雨で呼び起こされた森の匂いが満ちる中、女性が現れた。ひっつめの銀髪、白衣に眼鏡。入学式のときに学園長室で会った、保健医兼スカウトマンのジニーだった。


「ユアンくん、これを」


 ジニーはユアンに近づくと、紙袋を手渡す。


「予備の眼帯です。あと、目薬も必要そうですね。保健室へ向かいましょう。レグルスくんも一緒に」

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