第六節 異変
試験を終え肩の荷が下りた生徒たちは、気楽におしゃべりをしながら、教室塔の階段教室でマーネンがやってくるのを待っていた。レグルスはいつも通り、後ろの方でユアンと並んで座ったが、まともに彼の顔を見ることはできない。
詳細な成績が出るのは後日だが、試験の簡単な講評は今日行われる。例年と比較してどうか、特に優れていた生徒は誰だったか。誰もが己の名が呼ばれることを期待している――絶対に呼ばれないレグルスと、おそらく呼ばれたくないであろうユアン以外は。
教室にマーネンがやってきた。彼が教壇に立つと、階段教室は水を打ったように静まり返った。
「中間試験、ご苦労だった」
マーネンの講評はポジティブなものだった。レグルスたちの学年は演技に秀でた者が多いのだという。しかし、レグルスは今日の同級生たちの演技をほとんど覚えていない。覚えているのは、ユアンの演じた鮮烈なエルトファルだけだ。
五〇期生たちのこれからの課題はアステラの扱いだと告げると、マーネンは咳払いをした。
「アークトゥルス、貴様に尋ねたいことがあるのだが、いいだろうか」
「はい」
ユアンの名が呼ばれ、教室がざわついた。
「では、聞く。アルテイル・レゴラメントが演じるエルトファルを見たことがあるか?」
「わかりません」
即答だった。レグルスはユアンを驚きの目で見た。
「わからない、とは?」
「ストーリアを観賞するときに、演じているナイドルの名前を意識したことがないので……見たことはあるかもしれませんが、わかりません」
わからない。アルテイルを見たことがあるかわからないと、隣に座る少年は言った。つまり、無関心だと――レグルスが最も憧れるナイドルであり、トップナイドルだと誰もが認める〝御三家〟の一人であるアルテイルに一切の関心を持っていないと、ユアンはそう言ったのだ。
「そうか、わかった」
ユアンの発言に驚いていないのはマーネンだけだ。困惑する生徒たちのざわめきが、さざ波のように教室を満たす。
「講評は以上だ。質問があったら挙手してくれ」
「はい」
先頭に座っている茶色の巻き毛の生徒が堂々と手を挙げた。マルコだ。
「今回の試験の成績優秀者は、ユアン君ということですか」
「まだ決まっていない」
「揉めているのは、ユアン君の演じたエルトファルの解釈についてですか」
「詳しくは言えん。今後行われる成績検討会で議論する内容だ」
レグルスは質問するマルコの後ろ頭をぼーっと見ながら、エルトファルについて考えた。
ちょっと滑稽で、一生懸命だけど空回りする。そんなエルトファル像を作ったのは誰なのか? 現在のエルトファルの解釈を定着させたのは誰なのか?
レグルスには、わかっていた。
(アルテイルだ)
レグルスは、燃えるような赤毛の美丈夫の姿を、頭の中に鮮明に描いた。アルテイル演じるエルトファルが、ブランヴァと修行しているのが見える。
だが視界の隅に、紫紺色の髪の少年の――ユアンの姿がちらつく。ユアンの存在が、レグルスが思い描き手本とし、追い続けてきたアルテイルの輪郭を曖昧にする。
「……おい、フィーロ。聞こえているか?」
突然肩を揺さぶられて、レグルスは空想から戻った。声をかけていたのはマーネンだった。見ると、いつの間にか講評は終わっていて、同級生たちは各々帰り支度をしているが、隣のユアンだけはまだ、荷物をまとめていなかった。
「貴様の再試験は四日後だ。午後の授業が終わったら武踊館に来い」
「……はい」
俯いた顔が上がらず、蚊の鳴くような声しか出ない。
――再試験。
誰が優秀だったかなど、失敗したレグルスには関係ないし、そもそも考えるまでもない。誰の演技が上手だったかとか、そういう次元の話ではない。ユアンは、定着していた人物解釈に一石を投じたのだ。演技にも武踊にも圧倒的な説得力がなければ、そんなことは絶対にできない。
だから――
「いつも通りやれてなかったから、できなかったんだ」
だから、ユアンのその言葉が、圧倒的な高みから――月が浮かぶ遥かな空の高みからもたらされた、ひどく傲慢な言葉に聞こえたのだ。
「……ユアンは天才だから、そんなふうに言えるんだ」
考えるより先に、口が動いてしまった。
「半年も入学遅れて、みんなよりずっと遅れてるおれとは違う」
ダメだ。こんなのは八つ当たりだ。わかっていても言葉が止まらない。濁った感情の濁流を制御できない。
「誰も見たことないエルトファルを演じても、みんなを納得させられるなんて……アルテイルのこと、知らないなんて、そんなの、そんなの……」
ぐっとこらえた。「すごすぎるよ」、そう続けようとした。ユアンに当たる情けない自分を
だが、再試験は自分だけ。同級生たちとの差は歴然で、夜ごと特訓しても追いつけない。なぜ入学が遅らされたのかも教えてもらえない。学園に来る前と同じ絶望の中に押し込められる。暗く深い場所から声を出すのはあまりにも難しく、レグルスは言葉に詰まった。謝らなければ、謝らなければ、という思いだけが、頭の中でぐるぐる回る。
必死に顔を上げて、ユアンの顔を見た。
「え……?」
――ユアンの眼帯が、なくなっている。
外れたのではない。眼帯が、燃え落ちたすすのようになって、崩れ落ちているのだ。
露わになった、ユアンの左目。
雲ひとつない空に青白く冴える月の色。
凪いだ夜の湖水に反射する神秘の光。
一点の曇りもない透明な瞳。
ぞっとするほど――きれいだ。
「だ、ダメだ……だめだ、だめ……」
ユアンはうわごとのように呟きながら、左目を両手で押さえた。
指の間から、青黒い煙が漏れている。
「どうした、アークトゥルス」
異変に気づいたのか、マーネンがユアンを呼んだ。だがユアンはマーネンを見ない。レグルスだけを見ている。
ユアンの右目から、すっと一筋の涙が零れた。
時間が、止まったような、気がした。
その直後だった。ユアンの左目からあふれた青黒い煙が瞬く間に広がって、教室中に充満した。人が倒れる音がそこかしこから聞こえた。煙が闇となって満ちる中、ユアンが席を立ち、よろめいて壁にぶつかりながら教室の外へ走り去っていくのがかろうじて見えた。
「フィー、ロ……追えっ!」
マーネンの声はひどく枯れていた。
レグルスは、弾かれるように教室を飛び出した。
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