第二節 《地母神の加護》

         ★ ☆ ★


『我は地母神マーテルアスが一の眷属なり。神の子供たちよ。神の輝きを求めるならば、その誠の心を示すがよい』


 レグルスとユアン――二人の騎士のたまごは、制服の上に羽織った純白のマントを翻しながら立ち上がる。裏地がよく見えるよう、裾をつまみあげて翼のごとく広げる。

 眷属は、木の剣を掲げて問う。


『大いなる四大神……陽主神ようしゅしんロッサ・ステラトス・ギガンティス、月姫神げっきしんヴィルジェーニアス、風遊神ふうゆうしんヘルマ・カサノヴァトス、地母神マーテルアス。新たなる騎士を祝福せしはどなたか。無垢なる画布にその名を刻みたまえ!』


 眷属の持つ剣が、あるじたる地母神マーテルアスに由来する大地のアステラ――テッラ・アステラを発して緑色に輝いた。むせかえるような深緑の香りをまとった光が、二人の騎士の卵を巻き込んで渦巻き、きらめき、芽生えへと導く。

 二人は、声を揃えた。


『神のご加護を。アステラあれ!』


 定められた祝詞のりとに反応したテッラ・アステラの奔流が、それぞれの白いマントめがけて収束していく。


 ここで騎士役の二人が、己の中に眠るアステラを眷属役からもたらされるアステラに呼応させ、アステラを目覚めさせることができれば、第一段階は完了となる。


「アステラを発現させるのは、嘘偽りのない心だ」


 半年間、自宅でレグルスの指導をしてくれた母クラリッサはそう言っていた。脚本家であるクラリッサは、ルーナ・アステラを発現させることができる。ストーリアに関わる者は全員、己のアステラに目覚めていなければならない。ストーリアは観客を楽しませる演劇であると同時に、神に捧げる厳格な儀式でもある。神の祝福なき者がストーリアに関わることは許されない。


 レグルスは目をぎゅっと閉じ、己の初心に帰る。

 なぜナイドルになりたいと思ったのか、そのきっかけは何か、記憶に尋ねる。

 思い出の中から、声が聞こえてくる――




 その日、泣いていた理由は覚えていない。


 真昼の庭で手招きをしているのは、祖母だ。

 祖母の裏庭は妖精が住み着きそうなくらい美しく、やさしい匂いと陽光に満ちている。白いオフィリアリリーに黄色いエステルローズ。幼いレグルスが祖母の似顔絵を描いた庭石。レグルスはこの裏庭が大好きで、父も母も仕事で忙しく構ってもらえないときは、ここで祖母と過ごしていた。


「レグルス、こっちへいらっしゃい。一緒にストーリア、見ましょう」


 言われるがまま白く丸いガーデンテーブルについた。立てられた日よけのパラソルが、夏の暑さをやさしくぼかしてくれている。

 祖母は、泣いているレグルスに真っ白なレースハンカチを渡すと、木製のモニターをテーブルの上に置いた。


「ナイドルってすごいのよ。落ち込んでる人に元気、くれるの」


 ミトンをつけた祖母の手がモニター側面のダイヤルをひねった。浮かび上がった文字は、これまで祖母が録画してきたストーリアのタイトルだ。

 選ばれたのは、〝げつめいつるぎ〟。


「これはね、一番のお気に入り。御三家が勢揃いしていてね。大好きなナイドル、大活躍するの」


 祖母のミトンが指し示したのは、赤毛のナイドル。


「この子、知ってる?」


 レグルスが鼻をすすりながら首を振ると、祖母はしわくちゃの顔にえくぼを作った。


「アルテイル・レゴラメントって言うの。ソール・アステラだから、御三家の中では少しだけ地味。でも、演技、とても上手で、ブレードもシュッとしててね。ぱぁーって、みんなを輝かせてる。見てるとこっちも元気になる。そう、キラキラ光る、星みたい」

「星……」


 まるで宝物を愛でるかのように、祖母はストーリアを見つめている。レグルスの視線も、モニターの中のアルテイルに吸い込まれていく。


「アルテイル……」


 炎のような紅の髪と、整った輪郭に端正な顔立ち。凛とした表情には気品が宿っている。


『しっかりしろカノープス! 世界を変えると言ったのはお前だぞ!』


 朗々と声が響く。熱さに満ちた、太陽のような声が。




(おれは、ナイドルになるためにここへ来たんだ)


 祖母が亡くなった後、レグルスはアルテイルの出演作をすべて見た。ストーリアはどれも、祖母がレグルスに語ってくれた神話や伝説を再現するものだった。見ているだけで自然と、祖母の声が蘇ってくる。

 すべてのストーリアの中に、祖母の面影がある。


(アルテイルがグランマを元気づけてくれたみたいに、おれも誰かの光になれたら……キラキラ光る、星みたいに。アルテイルみたいな、キラキラのナイドルになりたい!)


 レグルスは怯えを振り切って、まばゆい光の中で目を開いた。




 光が、やんだ。

 少年たちが翻す純白のマントは、その姿を変じていた。

 高貴な漆黒に染まったマントの表側に浮かび上がったのは、風の民をかたどるティターニア学園の校章。裏地に刻まれたのは、二人の騎士それぞれを象徴する、彼らだけの紋様。

 黒髪の少年騎士のマントの裏地には、薄雲と月光が織りなす幽幻なる夜が。

 金髪の少年騎士のマントの裏地には、咲き乱れる黄色と白の花畑が。

 新たに騎士となった二人は立ち上がり、舞台の前方に進み出て、己を祝福してくれた神の名を高らかに呼んだ。


『月姫神ヴィルジェーニアス!』

『地母神マーテルアス!』


 会場にいるすべての観客に聞こえるよう声を張ると、空気が震えた。二人の体から、光が――アステラが、キラキラとこぼれ落ちる。


『新たなる騎士よ、己の心の剣を抜け。神に誓いを示すのだ!』


 眷属の言葉を合図に二人は距離を取って、それぞれ抜刀の構えを取った。アステラで形作られた剣――アステラ・ブレードを、騎士が己の身から引き抜き、互いの剣で三度打ち合えば〝地母神の加護〟は終幕となる。

 クライマックスに、レグルスの胸は心地よく高鳴った。開演前はあれほど怯えていたのに、今はもう失敗する気がしない。地母神マーテルアスの祝福たる温かななテッラ・アステラが、大地から流れ込んでくる力と共に足元から全身を駆け巡って、レグルスを万能感で満たしていく。


『はあッ!』


 腰に提げた鞘に見立てた空気を握りしめ、レグルスは勢いよく剣を引き抜いた。

 ほうき星のごとく光の欠片を舞い散らせながら現れたレグルスの剣は――何の変哲もない、ただの長剣だった。アステラ・ブレードとしては地味だった。

 一方ユアンの剣は、規則正しく波打つ刃と、優美で繊細な細工がなされた鍔が特徴的なフランベルジュだった。美術品だと言われても疑わないほどに美しい。

 二人は向かい合い、儀式の続きを行う。お互いの剣の刀身の幅広の部分で互いの肩を一度叩く。そして、打ち合うために構える。レグルスは上段に振りかぶり、ユアンは中段から振り抜いた。刃と刃がぶつかり、キィンと甲高い音を立てる。

 だが――


「……っ」


 ユアンの様子が、おかしい。剣先をぶるぶると震わせ、肩で息をして、目をきつく閉じている。


『騎士よ、剣を振るえ! あと二度の音を響かせよ!』


 異変に気がついていないのか、マーネンが眷属の定型句で急かす。あと二回アステラ・ブレードを打ち合わなければ終幕とはならない。レグルスは振りかぶる。ユアンも正眼に構えるが、その動きは油の足りないブリキのおもちゃのようだ。

 レグルスはなるべく力を込めずにブレードを振り下ろす。ユアンのブレードは空気の中を這うがごとくゆるりと動く。刃が触れ合う。

 その瞬間、聞こえた。


(……な……くない)


 かすれたユアンの声。耳に届いたのではなく、伝わってきた。

 もう一度刃を合わせようとした。だが、ユアンが動かない。またユアンの声が胸の中に聞こえてくる。


(なりたくない、ナイドルになんて)


 驚愕と動揺がレグルスを襲った。

 ティターニア学園に入学していながら、ナイドルになりたくない――では、ユアンは何のためにここにいるのだろう。入りたくても許されなかった自分と違って、春から学園にいたのに、ナイドルになりたくないなんて。

 ユアンはその場に膝をついた。彼が手にするブレードの刀身が、青い月色から暗黒に変わっていく。まるで月食だ。その黒を見ているだけで胸の奥が粘つく。体が生ぬるく重苦しい鎖に縛られ、今にも床にへばりついてしまいそうだ。


(ダメだ!)


 レグルスは必死に剣を掲げた。

 圧倒的な才能を持ちながら、ナイドルになりたくないというユアンの気持ちは、レグルスには理解できない。

 だが彼は言った――いつも通りやれば「できる」と。

 ならば彼は、失敗を望んでいないはずだ。緊張で頭が真っ白になっていたレグルスを鼓舞してくれたのだから。


(嬉しかった。昨日の入学式……おれひとりのために、すごく真剣にやってくれた)


――この暗黒がどこか温かいのは、きっと、彼が奥底にしまい込んだ優しさのせいだ。


「ユアン、大丈夫! いつも通りやれば、絶対できるッ!」


 叫んだ瞬間、レグルスのアステラ・ブレードが輝いた。赤く迸る閃光が拡散し、舞台全体に広がる。舞台に満ちた光が、刀身に収束していく。

 今にも倒れそうだったユアンが顔を上げた。ひとつきりのすみれ色の瞳に、炎のごとく赤い光が映り込んでいる。


「ユアン!」


 レグルスが手を差し出す。


(いつも通り……)


 ユアンの声が聞こえる。


(いつも通り、やれる)


 ユアンがレグルスの手を取り、立ち上がる。


(できる)


 ユアンのアステラ・ブレードが光を取り戻す。暗黒は砕け散り、刀身が煌々と輝く。晴れた夜空の満月のごとく。

――ユアンと目が合う。すみれ色の右目は今、まっすぐにレグルスを見ている。

 眷属を演じるマーネンが舞台に立っている。観客席の生徒たちが舞台を見ている。教員たちの視線が舞台に注がれている。


『あと一度、剣を合わせよ!』


 眷属の高らかな声が、静寂を裂いた。

 地母神マーテルアスに祝福されし新たなる大地の騎士は、左手を鞘に見立て、居合の構えを取る。

 月姫神ヴィルジェーニアスに祝福されし新たなる月の騎士は、立ち上がり背筋を伸ばして、優美なフランベルジュを正眼に構えた。

 二人の騎士の視線が交差し、刃の打ち合う音が響き渡り、混ざりあった互いの力が溢れる。二人のアステラが共鳴し、舞台の上で形を成す――




 そこは、無数の黄薔薇が咲き乱れる庭園。華やかな香りが匂い立つ幻想の世界。花畑は夜空の下にある。夜空はどこまでも広がり、壁も、床も、ついには観客席も、何もかもが満天の星空に変じた。武踊館それ自体が巨大な天球儀と化し、あらゆる人がその中にいた。

 天頂で煌々と輝く満月から、ひらひらと白い封筒が舞い降りてきて、二人の新たな騎士のあいだに着地した。


――終劇。

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