懐中時計

鳳梨

懐中時計

 小さな箱が白銀の世界を走っている。窓から外をのぞいてもだいたい灰色の雲と積もった雪が見えるくらいだ。バスの中は運転手と私しかいない。暖房も効いておらず肌寒い。老朽化のせいかガタガタとバスは震い続けている。私がなんの為にこんな辺鄙な土地に向かっているかというと‥‥



正直私も詳しくは分からない

誰かに会いに行くのでもなく、何かを見に行くためでもない。何かを探すためでもない。何かを求めるためでもない。



かなり昔の話になる。私がまだ掛け算や割り算すら出来なっかた頃、私は山奥の小さな町で暮らしていた。幼児期の春夏秋冬がなく無機質な今までの生活とは違い、川にはアユやイワナが泳ぎ、山にはカエデやケヤキが生えている。電車もコンビニもないこの町を母は非常に嫌っていたが、私にとっては最高の楽園だった。今まで図鑑や本でしか見たことがない存在が私のすぐ目の前にいるのだ。好奇心旺盛だった私はこの楽園に一目で魅了された。学校のチャイムが鳴れば、一目散に森へ行き昆虫採集やスケッチに勤しんだものだ。詳しいことは覚えていないが夢のような生活を送っていたことだけは確かだ。

 父は母とは違い、この生活を心から楽しんでいた。父は懐中時計を常に持ち歩くような人だったが、休みになると色々な場所に私たちを連れてくれた。特に魚釣りが得意で私にニジマスを何度もプレゼントしてくれた覚えがある。川魚の見分け方や捕まえ方を事細かに教えてくれたのも父だ。自分の好奇心を奮いたたせてくれた人だ。父には感謝している。尊敬もしている。

 しかしある日、仕事に失敗してしまい多額の借金を抱えてしまった。何の仕事だったのかは知らない。ただそのせいで父は母と離婚し、私は父と離れなければならなくなった。それから母は父を「ろくでなし」と呼ぶようになり、結局夢のような生活は二・三年でなくなり、元の生活に戻った。





  母はそれ以降、父の話をすることはなくなった。






 今ではすっかり都会暮らしだ。父とはそれ以降会っていない。ただあの生活を今したいかどうかと言われれば、今の生活の方が圧倒的に楽だ。コンビニに行くのに5分以上かからない。駅なら歩いて10分だ。周りには沢山の店がある。若い頃は隣の芝生は青く見えるものだ。そう思いながら、時間を確認しようと懐中時計を取り出した。その瞬間


ガタン


とバスが大きく揺れ、手から懐中時計が離れていった。そしてそのまま床へ向かっていき


ガチャン


と大きな音を出して壊れた。螺子や歯車が床でくるくると回っている。この時計は母が私の大学合格記念にプレゼントしてくれた大切な時計だ。かなり高いと言っていた。こうもあっけなく壊れてしまったことにとても幻滅した。席を立ち部品を拾い出した。ひとつまたひとつ、部品を拾い上げる。胸が締め付けられる感覚だった。

 残り数個の時、懐中時計の蓋がかなり遠くまで転がっていた事に気付いた。二・三歩歩いて、拾い上げる。

「うん?」

蓋の裏に何か書いてある。そう気付いたのは拾い上げて三秒後だった。目を開き見つめる。そこには


父のイニシャルが書かれていた。


 呆れた母だ。嫌い嫌いと言っていた人の物を持ち続け、それを息子である私にプレゼントするとは。父も父だ。自分の物に名前を書かないと気が済まない性格は治っていない。しかもそんな物を母に託すとは。恥ずかしい人だ。結局母も父も自ら変わったのではなく、私のために変わってくれたのだ。私に苦しい生活を送らせないために、つらい思いをして変わってくれたのだ。多分この懐中時計は元の母の片鱗なのだろう。自分は何も理解していなく、今になって母と父の偉大さ優しさ、そして苦しさを知ったのだ。なんで気づかなかったのだろう。自分が情けなくなる。愚かに見えてくる。所詮私は自分の世界に閉じこもっているガキでしかなかった。



ブザー音がバスの中で響いた。



 この町にもう父はいないかもしれない。もしもいるならば、せめて親孝行ぐらいはしたい。そんな事を切望しながら、白く何もない雪の上に足跡を残した。

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