第85話 後戻りのできない選択
『3回前の乾季が終わる頃。狩りに出た男が、魔物の住む洞窟――ダンジョンを見つけたのじゃ』
『……それは3年前ってことかしら? 私が想像していたより、ずっと前からあったのね』
何年も前から、地球にはダンジョンが出現していた。その事実に衝撃を受けたエリーゼ。だが、エリーゼは心のどこかで納得していた。ジャングルの魔境化には、相応の時間が必要だからだ。
『ダンジョンの近くに、人はいたのかしら?』
『ヤグみたいな異世界人のことかね? 確かにこの世界におったぞ。全身傷だらけのまま、ダンジョンの入り口で死んでおったがの』
もし死んでいた異世界人が生きていたら、魔物やダンジョンに対して適切な対応をしていたら、ジャングルはこのような状況になっていなかった。
不運にも力尽きてしまった異世界人。呪うかのように、薬師の老婆は不吉な笑い声をあげていた。
『そう……。それは、とても残念ね』
沈痛な面持ちを浮かべていた。薬師の老婆は、気にも留めず話を続ける。
『ダンジョンには、宙に浮いている半透明の子どもや、火を吹くトカゲがおった』
エリーゼは、自信の知識から、ジャングルで出会ったサラマンダーや風の魔法を操るシルフだと判断する。
『ワシらは伝承に基づき”精霊ダンジョン”と名付けた。何人もの男を送って中を調べたが、誰も帰ってこなかったのじゃ』
魔法を使わず、弓や槍で倒せるほど魔物は弱くない。中に入った人間は全員、魔物に殺されていた。むろん、死体は残らない。ダンジョンが吸収するからだ。
『すぐに精霊ダンジョンの立ち入りを禁止し、集落に平穏が戻ったのじゃが……』
最初にダンジョンに入った人間が戻ってこない。救援として数人送り、さらに彼らも未帰還。それでようやく危険性に気づき立ち入りを禁止した。
だが精霊ダンジョンの入り口は解放されたままだった。その間も精霊ダンジョンから魔物が外に放たれていく。少しずつだが確実に、ジャングルの魔物は増えていった。
『ヤグが来たのは、それからしばらく経ってからだったかね。集落の長を呼びつけると、すぐに殺し合い……いや、あれは一方的な虐殺じゃ。それが、始まった。男は全員殺され、年老いた女も多くは殺されたのじゃ』
『例外が、あなたってこと?』
『この集落で唯一、魔法が使える素養があった。ただ、それだけの理由で生かされたのじゃ。ヤグは女好きでの。年老いた人間は見たくないと、集落の外れで生活することになったんじゃがな』
虐殺が始まる直前。魔法の素養を確認されていた。家族、友人が殺されるなか、不運にも薬師の老婆だけが生かされたのだ。
『その後はヤグが集落を支配して楽しんでおったが、他の集落で異世界人が発見されると、すぐに虐殺を繰り返すことになっっての。あれは確か、異世界人を暗殺してから、魔物を使って集落を襲わせる方法じゃった』
その集落とは、初日に2人が宿泊した場所だった。
正面からの全面抗争ではなく、闇夜に乗じて異世界人を暗殺。その後、魔物に対抗する力を失った集落に、魔物を数匹放り投げて始末させたのだった。
『結局、この周辺に残っている集落は、ワシの所だけとなった』
ヤグはダンジョンと共に地球にやってきたのだ。集落に異世界人がいると分かれば、他にもダンジョンが、しかも近い場所にあると容易に想像できる。
本来であれば協力してダンジョンを封鎖。もしくは、探索して状況を把握する必要があった。だが、そうはならなかった。ヤグは欲望に突き動かされ、短期間で魔境を作り上げてしまったのだ。
『愚かな……』
考えられる限り、最悪の選択を選び続けた獣人ヤグ。その所業に、エリーゼは呆然としていた。
『そなたなら、もう理解しているじゃろ? もう終わりなのだ。長く続いたこの集落は』
『逃げ出せ……とは、言えないわね』
『ここで生きて死ぬ。それが我々の一生じゃ』
狭い世界で生きてきた人間ほど、土地や考えに縛られる。この小さな集落が、彼女らの全てだった。生きる意味だった。
『やっぱり、そうなるわよね』
小さな世界だけで完結した考え方は、森に住むエルフと似ている。エリーゼは故郷を思い出しながら「彼女たちは、集落から逃げ出さない」と確信した。
『それにじゃ、まだやることが残っておる』
その言葉を発した瞬間、薬師の老婆がニヤリと口元を上げた。
頼りなく見えた薬師の老婆が、今は2本の足でしっかりと立ち、不吉な雰囲気をまとっている。それは、諦めた人間がするものではない。死ぬと分かっていても魔物と戦う、覚悟を決めた人間が発するものだった。
『そう……なのね……』
身の危険を感じたエリーゼが後退る。
『ワシらは運がなかった』
もう彼女の瞳にエリーゼは映っていない。機械のように、決められた言葉を話すだけだ。
『旦那も息子も殺された。埋葬もできなかった。ヤグに命令されて、自分の手で旦那を殺した女もいた』
反抗的な女性は、反抗心が無くなるまで徹底的に叩きのめされた。それは肉体的だけではなく、精神的にもだ。ヤグにとって感情など不要。自身の欲望を満たすだけの、便利な女性だけが残っていればよかったのだ。
『もうこの集落は終わりじゃ。終わらすのであれば、それは、我々の手で行わなければならない…………そろそろ、虫除けの効果が切れる頃じゃ』
『塗り直していたのに? 何を考え……何をしたの?』
『ヴォルネに頼んで塗ってもらった薬。あれは、魔物を引き寄せる薬じゃ』
『それって!』
『もうすぐ狂気に飲み込まれた魔物が襲ってくる。この集落の最後を、その目に焼き付けるのじゃ!』
魔境でも生き残れた理由。それは周囲が虫型の魔物ばかりであり、虫除けが効果を発揮していたからだ。偶に訪れるサラマンダーなどは個体数が少ない。ヤグ一人で十分対処できた。
だが虫除けの効果が切れてしまえば、周囲に生息する虫型の魔物が襲ってくる。木製の柵など、あってないようなもの。魔物が足を止める理由にはならない。集落が完全に破壊される未来は、避けようがなかった。
『……何の音?』
エリーゼが老婆との会話を打ち切って、部屋を出る。すでに外は騒がしく、遠くから地鳴りのような音が聞こえた。
『タイミングが良いの』
薬師の老婆は微動だにせず、耳障りな声で笑いだす。
『もう襲撃が始まったっていうの! 早すぎるわよ!』
エリーゼが走り出した後も、老婆の乾いた笑い声だけは耳にずっと残っていた。
◆◆◆
「外に出るわよ!」
血相を変えたエリーゼが、叫びながら家に入る。
「やっぱり何かあったんだね」
待っていた健人は、騒動には気づいていた。しかし、外に出るなと言われていたこと、さらに動いてしまえばエリーゼと合流するのが難しいと考えて、迎えに来るのをじっと待っていたのだ。
健人はエリーゼに荷物を渡して外に出る。
「え!? 魔物?」
魔力で強化された健人の目が、ヤグが大型のクモと戦っている姿を捉えた。
「詳しい説明は後! もう私たちが持っている虫除け程度じゃ押さえられないわ。囲まれる前に外に出るわよ!」
「まって! それって、ここの人たちを見捨てるってこと!?」
「…………そうよ。生き残るためには、この集落を見捨てるしかないわ」
「俺たちが戦えば、助けられる人がいるかもしれない!」
「本当に助けられると思っているの? 襲ってくる魔物を全て倒す? そんなの無理ね。健人だって分かるでしょ? ここで戦えば逃げ道は無くなり、死ぬだけよ!」
「で――」
健人が話すより先に、エリーゼが言葉をかぶせる。
「私は、他の誰かを犠牲にしてでも、健人の命を優先するわ。健人は違うの? 出会ったばかりの、女の子の方が大事なの?」
話している間にも魔物が集落に入ってくる。幸いなことに、虫除けの効果が切れているのは一カ所だ。まだ、四方から魔物に襲われていない。今なら集落から逃げ出す機会は残されている。
だがそれも、いつまで持つか分からなかった。今この瞬間に効果が切れる可能性もある。エリーゼと集落の両方を助ける方法。それを考える時間も能力も、健人は持っていなかった。
「…………エリーゼに決まっている」
悲壮に満ちた表情をして、腹の底から絞り出した声だった。
その瞬間、救いの道は閉ざされ、女性たちの未来が決まってしまった。
「良かったわ。それじゃ逃げるわよ!」
血と悲鳴で満たされた集落で、笑顔を浮かべるエリーゼ。彼女は健人の手を取り走り出す。その後ろからは鳴りやまない悲鳴と、ヤグの怒声が聞こえていた。
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