第111話 異変

 白亜に指示された稽古内容を地道に続けて、二十日は経っただろうか。葵は、今日も岩にあぐらをかいてただひたすらじっとしていた。最初のうちは何もせずにじっとしているのに半刻も耐えられそうになかったが、今は違う。かなり長時間にわたって座っていられるようになったし、気がつけば肩や脚に小鳥がとまることさえあった。


 最初は、これに何の意味があるのかわからなかったが、白亜に文句を言いたくなる気持ちをこらえ、辛抱して地道に続けて行くと、時折五感が研ぎ澄まされているとしか言えない感覚になることがあった。葉先から溢れ落ち、地面へ衝突する雫の音、鳴き声や足音、茂みを揺らす音などの、森に住む生き物たちが奏でる音、土の香り、水の香り、自分が今座っている岩の凹凸、全身を包み込むひんやりした空気の感触すらも、普通に生活している時と比べて格段に感じ取りやすくなっている。このことを白亜に言ってみると、「良い兆候だ」と微笑んだので、これで正しいのだろう。そしてこれの成果か、飛んでくる竹槍を、決められた範囲内で躱す稽古も随分やりやすくなった。最初は、共に稽古している五色とぶつかったり、動ける範囲に気をとられすぎて迅速な判断が下せなかったりして、身体中に青あざをこしらえたが、今はだいぶ避けられるようになった。竹林に身を隠して竹を投げてくる、天狗たちの息遣いや衣擦れの音に敏感になったおかげだ。一方、白亜から一本取るという方はあまり芳しくはなかった。以前よりもだいぶ動きを捉えられるようになってはいたが、相手の白亜がまだまだ余裕そうなのが癪にさわる。


 昨日も白亜に返り討ちにあったのを思い出し、葵は鼻に皺を寄せた。だが、すぐに雑念はいけないと、できるだけ何も考えないようにする。そうしないと、五感が研ぎ澄まされるような感覚にはならないのだ。しかし、考えないようにしようと考えた時点でもう無理だった。何も考えるなと自分に命じれば命じるほど、雑念がいくらでも湧いてくる。こんな時は一旦じっとするのをやめれば良い。


 葵は目を開けた。隣をそっと伺うと、五色はまだ目を閉じてじっとしている。鼻をくすぐるとかそういうイタズラを仕掛けたくなる気持ちをぐっとこらえて、葵は前を向く。だが、五色が弾かれたように目を開けたのに気づいて、葵はすぐ五色に向き直った。


「どうした?」


 怪訝な目を向けると、五色は「この匂い……」と眉間に皺を寄せた。


「匂い?」


 葵は鼻を動かし周囲の空気を嗅ぎ取ったが、特に反応するような匂いは感じ取れなかった。五感が研ぎ澄まされていないせいかもしれない。


「どんな匂いだ」


 尋ねると、五色は「えっと……」と口ごもり、顔を青くした。


「血の匂いだ」


 物騒な発言に、葵は顔をしかめる。


「本当か?」


「ああ。この匂いは間違いない。春の御山で、嫌というほど嗅いだんだから」


 脳裏に、血しぶきをあげて倒れる椿丸の姿が浮かび上がる。続いて、血まみれになって事切れた仲間の姿が。それを振り払うように頭をブルッと振るい、葵は岩から飛び降りた。


「誰か怪我してるのかもしれない。見に行こう。匂いはどこから来てる?」


「ちょっと待て。集中力切れてきたのかな。匂いを感じにくくなってきた。ずっと五感が研ぎ澄まされてたらいいのに。でも、だいたいの見当はついてる」


 そう言い放つと、五色は立ち上がって下にいる葵へ呼びかけた。


「飛んだ方が早い。葵、俺に掴まれ」


「は?」


「ほらいいから」


 あっという間に五色に背中を掴まれ、葵は空へ飛び上がる。久々の、体がフワッとする感覚に酔いそうになる。


「そんなに遠いのか」


 葵は自分で聞いておいて、そりゃあ遠いだろうなと勝手に自己完結した。五感を研ぎ澄ませた集中状態でないと気づかないのだから。すぐ近くではないだろう。


 しばらく林の中を滑るように飛んでいくと、鼻をつく鉄臭い匂いが葵にも感じ取れるようになってきた。


「近いぞ。……そこだ」


 狼に似た獣が倒れているのを視界の端に捉え、葵は指をさした。五色は方向転換してすぐにそちらへ向かい、葵を地面に下ろし、自分も翼を閉じて地面に足をつける。


「これ……狗賓ぐひんじゃないか」


 五色の上ずった声を聞きながら、葵は「ああ」と頷いた。

 狼に似た体躯に、黒みがかった赤錆色の毛並み。金色の瞳はカッと見開かれ、虚空を見つめている。引き裂かれた腹部からどす黒い血を流して、その獣は事切れていた。


「何かに襲われたのか?熊?」


 五色の推測に、葵は「違う」とすぐに否定した。

 狗賓の死骸に近づき、そっと腰をかがめて外傷を観察する。


「刃物か、何か鋭利なもので切り裂かれてる。それに、どこも食われてない。そもそも、狗賓はあやかしだ。その辺のただの熊に負けたりしないだろう」


「それもそうか。……じゃあ、誰にやられたんだ?」


 五色の問いかけに、葵は楓から聞かされた話を思い出した。狗賓は第二の門番。招かれざる客を食い殺す。


「侵入者に殺られたのか」


「し、侵入者!?」


 まさか、と五色は口走ったが、その可能性が高いことに彼自身気づいていたのだろう。動揺した目で動かぬ狗賓の体を見つめる。


「にしても、血の匂いが濃すぎないか。死んでるのは一頭だけで、死んでから時間もそれなりに経過してるように見えるのに」


 葵が言うと、五色は周囲をぐるりと見渡し、すぐそばの茂みをかき分けたかと思うと、くぐもったうめき声をあげた。


「おい葵、これ見てみろよ……、あ、いや、苦手なら見ないほうがいい」


 見ないほうがいいと言われても、その時点で葵はもう見てしまっていた。

 五色の両腕がかき分けた茂みの向こうに、狗賓の屍が累々と横たわっているのを。

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