第57話 撤退
白虎丸がやられ、あっけにとられていた葵の背後で、菖蒲は満足そうにほくそ笑んだ。彼女は突如出現した龍へ手を伸ばすと、その体に触れる。水でできた体は、彼女が手を触れると、流れの速い川面へ手を浸した時と同様に波しぶきをあげる。
「さあ、仕上げと行こう」
その言葉を吐き出すと同時に、菖蒲は片手で龍神の牙の切っ先を真正面へ据える。
「あやかしたちと共に、お前たちも滅びろ」
そのまま彼女は、流れるような動作で剣を
振るった。剣先の軌跡から新たな斬撃が生まれ、無数に分裂しながら周囲を破壊しつくす。その斬撃の嵐の間を縫うようにして、剣から生まれ落ちた龍が咆哮を上げながら飛翔する。そして龍は体をくねらせたかと思うと、まっすぐ地面へ向かって突っ込んだ。その水の体が地面に触れた途端、龍の体は波しぶきをあげて街々の大路小路を、意思を持った川となって駆け抜けてゆく。
白虎丸の消滅にしばらく呆然としていた葵は、九尾に首根っこをつかまれてようやく我に返った。
「何をぼさっとしている。死にたくないなら動け」
九尾は怒鳴ると、そのまま葵を片手で抱えあげて斬撃の嵐の中をひた走った。京介のいる場所まで来ると、九尾は京介の体も引っ掴んでそのまま屋根から屋根へ飛び移り、斬撃の嵐から少しでも離れようと走る。
「お前ら、揃いも揃って世話をかけさすな。あのまま突っ立っていたら、今頃八つ裂きになってたぞ」
走りながら、九尾は葵と京介二人を怒鳴りつけた。
「悪い、九尾……。」
葵は申し訳なくてただ謝ることしかできない。あの時、白虎丸の死に呆然としてしまい、体が動かなかった。しかもその死に様が椿丸のものと重なり、受けた衝撃はなお強さが増す。自分がこれなのだから、白虎丸とより長い時を共に過ごしてきたであろう京介の気持ちを想像すると、彼の顔を見る勇気がなかった。
九尾はひとまず安全そうなところへ目星をつけると、そこへ二人を抱えたまま降り立った。
葵と京介は九尾から手を離されると、改めて今の状況を目の当たりにした。
九尾が二人を連れて降りた場所は、岩肌に削って作られた螺旋の回廊の一部だったので、街の状況をよく見ることができた。
斬撃の嵐によって、街々は見る影もないほどに破壊されていた。そしてその残骸と化した街を、大きな川の流れとなった龍が飲み込んでゆく。もはや事態は、葵たちだけでどうこうできる域を完全に超えていた。
「一体何がどうなってんだ」
葵は呆然とつぶやく。
いきなり剣から水でできた龍が飛び出してきたり、一度に放たれる斬撃の数が倍になっていたり、何がどうなっているのかわけがわからない。
そんな葵のつぶやきを受け止めたのは、隣でずっと押し黙っていた京介だった。
「龍神の牙が少しずつ本来の力を取り戻してきてるんだ」
しっかりとした京介の口調に、葵は驚いて彼の顔を見た。少々元気をなくしているようではあったが、白虎丸を目の前で失ったというのに、泣き崩れたり戦意を喪失したりする気配は全く感じられない。どうしてそんな平然としていられるのか。そんな葵の視線に気づいたのか、京介は安心させるように言った。
「白虎丸なら大丈夫。式神は主人が死なない限り、消滅することはない」
「いや、でも、消えて」
「それは依り代が破壊されたからだ。前に言ったろ。式神は本来肉体を持たない霊的なものだから、依り代に憑依させて具現化させるって。依り代が破壊されたからといって、式神の存在が消えるわけじゃない。ただ、呼び出せなくなるだけだ。だから早く、新しい依り代を手に入れないといけない。」
京介はそこで一旦言葉を切ると、破壊されゆく街へ視線を投げかけた。
「都に行かないと依り代は手に入らないから、今は白虎丸を呼び出すことはできないけどね……」
白虎丸が死んだわけではないと聞いて葵は安心したが、京介の声が心なしか震えているように聞こえた。『白虎丸なら大丈夫』そう言った京介は、葵ではなく自分自身に大丈夫だと、言い聞かせているようだった。
陰陽師とその式神の関係性が一般的にどういうものであるのか、葵は知らない。だが、京介と白虎丸が気心の知れた友人同士のようだったことは知っている。京介が主人で、白虎丸がそれに従っているという主従の関係が全くないわけではなかったが、時に軽口を叩き合う様や、戦いや緊急事態の時の彼らの掛け声は、互いを信頼し、支え合う親友同士そのものだった。戦友と言い換えることもできるかもしれない。きっと、京介が陰陽師としてあやかしと戦う時、白虎丸は常に京介と共に戦ってきたに違いない。そんな心強い友がいないというのは、ひどく心細いものなのではないだろうか。戦意こそ喪失してはいないようだったが、今の京介からいつもの自信や時折見せる余裕めいた表情も、葵には読み取ることができなかった。
「……おい陰陽師、龍神の牙はまだ本来の力を完全に取り戻したわけじゃないんだろう」
葵がしんみりしていると、九尾が腕を組みながら京介へ尋ねた。京介は「多分」と頷く。
「もし本来の力を取り戻したとしたら、こんなもんじゃ済まないと思う」
京介の言葉に、葵はぞっとした。今の時点でこれほど圧倒的な力を持っているというのに、これでも本来の力を取り戻したわけではないのか。
「とにかく、龍神の牙が力を完全に取り戻す前に、今度こそ止めないと。今こうしている間にも、龍神の牙の力はどんどん強まっているはず。今が多分、ギリギリ太刀打ちできる最後の機会だ」
「最後の……」
葵は錫杖を握りしめながら、絶望的な街の景色を今一度目に焼き付けた。破壊された御山の光景と重なり、心の臓をえぐられるような気分になる。椿丸を始め、死んでいった御山の仲間たち。椿丸が葵へ託した言葉。頭領の頼み。久渡平の東の森での悲劇。鬼の国へ来てからの出来事。そうした様々な出来事が胸中に浮かんでは消えてゆく。そしてたった今、憎い敵である紫紺と深い関わりがあるであろう陰陽師と対峙した。
「やるしかないよな」
葵は自分に言い聞かせるように小さな声で呟いた。正直、あの圧倒的な剣の力を前にして怖くないかと言えば嘘だ。正直怖い。下手を打てば死ぬ。だが、葵はもうこれ以上敵の自分勝手な悲願のために、あやかしたちが一方的に殺されていくのは見たくなかった。こんなことがまかり通るのを許したくはなかった。
あの夜、御山が襲撃された夜、自分は何もできなかった。ひどく無力だった。死んでゆく仲間を看取ることしかできなかった。椿丸を、助けることができなかった。もう二度と、身を裂かれるようなあんな思いは御免だ。
さっきまで敵の圧倒的な力にくじけそうになっていた葵は、固く決意を秘めた光を瞳に宿す。
「京介、九尾、行こう。全力で奴を止める。今度こそ」
「うん」
京介は葵の言葉に頷いた。それから眉間にしわを寄せる。
「でも葵、彼女にどうやって近づく?地面は水の龍が暴れ回ってるし、屋根の上はあの斬撃が飛び交ってる。とてもじゃないけど、普通に走っていくのは無茶だ。」
「それなら問題ない」
葵の代わりに答えたのは、九尾だった。葵と京介は揃って九尾の方へきょとんと目を向ける。
「二人とも俺の背に乗れ。あそこまで連れて行ってやる。」
九尾は口元にニヤリとした笑みを浮かべると、目を閉じた。ぶわりと、九尾の体を覆い隠すようにして、無数の黄金の葉が吹き荒れ始める。やがて黄金の葉が弾けるように虚空へ消えると、
「さあ、乗れ」
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