小学校
前の章で「押し付け」られている、子供たちの現状をお話しましたが、その「押し付け」は当たり前のように、次の小学校へも引き継がれていくことになります。
もちろん、小学生に関して言えば、マナーなども理解できるようになってくるでしょうから、多少の「押し付け」も幼少期にたくさん「経験」を積んだ子ならばあまり影響はないでしょう。
では小学校のどこに「押し付け」があるのか。
唐突ですが、みなさん、苦手な教科、得意な教科ってありますか?僕は小学生の頃、算数がめちゃくちゃ得意で社会がとても苦手でした。
それぞれ、教科でテストをやりますよね。高得点がとれた教科は嬉しいですが、あまり点が伸びなかった教科は、なんかそれだけでやる気なくしますよね。
なのに、やりたくない勉強でもやらなきゃいけない。それも大きな「押し付け」です。
ちょっと今どこからか「そんなのただのわがままじゃん」って聞こえましたね。しかしですね、わがままだ、という一言で済ませてしまうのはいささか納得はいきません。
小学校の勉強は日常生活にも深く関わってくるものばかりで、特に読み書き計算はとにかく一通り教えなければいけないことは事実です。理科や社会、最近では英語なんかも小学校で習いますが、そういうのも教えること自体に問題はないと思います。
問題はそれらを「覚えなければならない」ことです。つまり、一番マズイのはテストそのものです。
テストに出されるのは、大体が教科書丸写しのような問題。それこそ教科書を丸暗記すれば解けるような問題です。
しかし、興味のないことを丸暗記するほど苦痛なことはこの世にはありません。教科書に載っていることなんざ、今はちょっとネットに目を通せば分かってしまうことばかりです。
勉強というのは「主体性」がすべてと言っても過言ではありません。文科省に「やらされている」勉強のどこに主体性がありましょうか。
さらに言えば、教科書の丸暗記は教科書を絶対視しているとも言えます。例えば社会なんかが分かりやすいですが、歴史は変動するものであるはずなのに、歴史の教科書には全て言い切りの形で書かれています。
暗記したところで、それは「そういう考え方もある」というもののはずなのに、子供たちはそれが「絶対的なもの」と認識してしまいます。前の章のマナーと同じですね。
たびたび道徳の教科書が視点を狭める、とか歴史の教科書が間違っている、とかって議論になりますが、そもそもそれを丸暗記している時点でどんな内容でも間違いなんです。
教科書が絶対視されると、そこに自分の意見は要りません。むしろ邪魔です。現代における「真面目な子」というのは、少なくとも高校までは「自分の意見を持たない」「学校の言いなりになる」子のことなのです。
いい意味でも悪い意味でも、今の教育は画一的なのです。一つの理想の子供像に近いか遠いか、それが今の評価の基準になっています。言ってしまえば、子供のことより教育者側が評価しやすさを重視したシステムになっているんです。
また、テストでは点数が出てきます。点数が出ると自分が相対的にどのような位置にいるのかが分かります(いわゆる平均点とか偏差値とかいうヤツですね)。そうすると、高い人はいいですが、低い人は劣等感を抱いたりいじめの標的になったりします。
人によって得意不得意は違いますから、本来他人と比べる必要はないはずなのですが、点数が出ることによって、「普通」という謎の基準ができあがってしまいます。
この「普通」というのもなかなか厄介な代物で、人によって異なる得意不得意をあたかも世間一般でできて当たり前、という風に固定してしまいます。それに従って先生が成績つけたりするんですから、正直成績なんて当てにならないですよね。
もちろん、点数なんてものを出せば教師は評価をつけやすくなるかもしれません。しかし、そんなものに正当性などない、と僕は思います。
例えば、極端な例ですが、誰もが努力さえすればオリンピック選手になれる、というわけではありません。勉強の面でもそれと同じように、努力では辿り着くことができない場合があるのです。
人によって各教科の出来は違いますし、上限も違います。そういった子供たちを「普通」はがんじがらめに縛りつけてしまいます。
さらに、「国語」「算数」といった「教科」というものも、なかなか理解できないところであります。なぜ古文と漢字が、計算と図形が、歴史と地理が同じ教科にされてしまうんでしょう。
例えば計算は好きだけど図形はちょっと……という人も多いでしょう(僕がそうでした)。それが同じ教科になってしまうと、計算という分野で見れば優れているにも関わらず、数学という範囲で見ると平々凡々……なんてことになりなす。
それはその「優れている部分」を潰しているに他なりません。だからといって、では計算と図形に教科を分ければいいのか――と言えば、そうでもありません。計算の中でもあの公式は得意なんだけど――と細分化していきます。
結局、教科というのは大まかな括りであって、それを一塊に評価をつけてしまうのは安易すぎるのです。評価は一つ一つについてその都度、しかも個々につけられるべきものであって、基準を設けたり相対的に考えた瞬間に、それはもう正当な評価とは言えないと思います。
では、小学校ではどういう教育をすべきなのか。実際に行っている小学校も少なからずありますが、とにかく「意見を言う」機会を増やすべきです。
まず、上にも書いた通り、一通り授業をすることは悪いことではありません。大事なのは、それを受けて児童がどのような意見を持つか、です。
そこに教科書通りの文言は必要ありません。必要があればネットを使っても構わない。情報処理能力と自分の意見を持つ能力を育てるのです。
もちろん、テストなんか必要ありません。児童は自分が必要だと思った情報だけ頭に残します。気になったり忘れたら調べます。
一昔前はありませんでしたが、ネットという便利なものがある今、暗記よりも情報を取捨選択する能力の方が重要になってきます。教科書を「一つの考え方」としての資料として使い、それを出発点として児童が好きに調べる、それが学びです。
苦手な部分は克服しようとしてもいいし、諦めてもいい。得意な部分、興味のある部分はもっと伸ばせばいい。そこで教師は少し道を示したり、支えることはしますが、それ以上踏み込んではなりません。
そして、評価は一人ずつ、ワンアクションずつ。それは比べられないものですから、数字で表すのもやめた方がよいかもしれません。評価という名のアドバイスとか、応援メッセージとかで十分ではないでしょうか。
これが僕の思う理想的な「小学校教育」です。「教える」より「学ぶ」。
主体はあくまで子供たちであることを、教育者側には理解してもらいたいものです。
ここまでをまとめると
・教科書は絶対ではなく、あくまで興味の種
・暗記より処理能力と思考力
・評価はワンアクションごと
・相対評価は必要ない
・「教える」より「学ぶ」
次は中学ですね。中学はあまり小学校と変わらない気もしますが、続いて書いていきたいと思います。
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