Chapter Nine

 今にも降り出しそうに、重く雲が垂れこめた朝でした。

「おはようございます」

 いつも先に言ってくれるはずなのに、いつまで経っても声が聞こえてこないので、お姫さまは待ちきれずに声を掛けました。

 返事は、返ってきませんでした。

 思わず壁に片手をついてから、お姫さまは、自分が倒れかけたことに気づきました。

「ねえ、どうなさったのですか? お願いです、答えてください」

 あまりにも動悸が激しくて、気持ちが悪くなりそうです。いいえ、実際、お姫さまは気分が悪くなってきました。

 壁の向こうは冷たく静まり返っています。かつて、そうだったように。

 銀の双眸から、ぼろぼろと涙が溢れ出しました。

 お姫さまの、何がいけなかったのでしょうか。何を間違えてしまったのでしょうか。確かなことは、もう、壁の向こうには誰もいないということです。

 訴えかけたくても、声はのどにひっかかって出てきません。名前を呼びたくても、お姫さまはその名を知りません。

 歯をくいしばって、いつも寄りかかっていた壁に額を押しつけます。全身を苛む絶望が、言葉になることはありません。

 ただ、涙がとめどなく溢れてきます。



 気づいた時には、嗚咽を上げることすら難しいほど疲れきっていました。お姫さまは、まだ人形を抱いていました。

 歪んだ視界に、人形が映ります。ガラスの瞳は、お姫さまを見つめることはなく、どこか遠くを見ているようです。

 お姫さまは、ふらりと立ち上がりました。頭の奥はじんと痺れていて、心は何も感じていません。

 一歩踏み出すごとに、一粒涙が零れます。お姫さまは悲痛な顔で、ゆっくりと、暖炉の前に立ちました。

 そして、紅く揺らめく炎の中に、人形を放り込みました。

 ばちばちと爆ぜながら、艶やかな飴色の髪が、ふくらんだドレスが、そして人形自身が燃えていきます。けれどもお姫さまは、その様子を見守ろうとはしませんでした。

 手近なところにある日記を、次々と、炎に投げ入れはじめたのです。

 炎は大きく燃え上がります。お姫さまが塔の中で積み重ねてきた時間が、ごうごうと燃えていきます。


 暖炉の外にまで手を伸ばしはじめた、紅の炎の前で、お姫さまは、深く息をつきました。

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